陥穽
その夜十時頃、わしはY温泉の例の小別荘に、すっかり準備をととのえて、姦夫川村がやって来るのを、今や遅しと待ち構えていた。
川村の奴、あれからすぐ瑠璃子の住いへ駈けつけたに極っている。彼に取っては余りにも意外な瑠璃子の変心を責める為にだ。
併し瑠璃子はいない。彼女はわしの意見に従い、川村を避ける為に、今朝早く旅に出た。女中一人を供につれて、二三日の小旅行に出掛けたのだ。
川村は留守居のものから、それを聞くだろう。そして、やっぱり瑠璃子とわしとの婚約が嘘でなかったことを悟るに違いない。なぜといって、瑠璃子は川村が今日帰郷するという通知を受取っている筈だ。それを知りながら、行先も分らぬ旅に出かけたとすれば、これが心変りでなくて何であろう。川村の奴、ここで又第二の鉄槌で脳天を打ちくだかれるのだ。恋を盗まれた男のみじめさを、嘗て大牟田敏清が味ったと同じくやしさを、まざまざと味うのだ。
わしは川村の恋の深さを知っている。彼は宴会の席でさえ、わしに掴みかかった程だ。わしの裏切り、瑠璃子の変心を知って、何でそのまま済ますものか。姦夫姦婦(彼にして見れば、わし達は正に姦夫姦婦であった)を八つ裂きにしないでは、心が癒えぬであろう。だが、瑠璃子の行衛は分らぬ。さしずめ姦夫であるわしの所へ飛んで来るに違いはない。ピストルを持ってか、短刀を持ってか。いずれにもせ、彼奴はわしをこのままで置く筈はない。
ちゃんとそこまで見通して、わしは彼奴の飛込んで来るのを待っていた。手負い猪に最後のとどめを刺す深い陥穽を用意して。その陥穽の底にはドキドキする剣を何本も植えつけて。
皆さん、今こそわしは、憎みても余りある姦夫川村義雄を、思う存分やッつける時が来たのだ。わしの心臓は嬉しさに躍った。白髪の復讐鬼は、血に餓えて、喉を鳴らしていたのだ。
で、川村の奴、わしの罠の中へ飛込んで来たかとおっしゃるのか。来ましたとも。哀れな獲物は、心の痛手によろよろと足元も定まらず、やって来ましたよ。
「川村さんでございます」
取次に出たわしの番頭の志村が復命した。
「よし、わしは先に庭のお堂へ行っているから、お前は云いつけて置いた通り、川村を案内するのだ。いいか、しっかり頼んだぞ」
云い捨ててわしは、そのお堂へと走って行った。
皆さんは御記憶じゃろう。いつかわしが姦夫姦婦に、黄金の秘仏を納める煉瓦造りの倉庫を建築中だと話して聞かせたことを。今お堂と云ったのは、即ちその奇妙な倉庫のことなのだ。わしはそこへたどりつくと、建物の片隅に設けられた、狭い機械室の中へ身を潜めた。
お堂の中に機械室があるのかって? 御不審は尤もじゃ。併しまあ話の続きを聞いて下さい。今に何もかも分るのだから。
さて、これからあとは、その異様なお堂の中へ案内されて来る川村の気持になってお話した方がよく分る。で、暫くの間わし自身は蔭の人物となって姦夫川村義雄がお話の主人公だ。
川村がこの別荘へ何をしに来たか。わしの想像に違わず、彼はポケットに古風な九寸五分を忍ばせて、わしの反省を促した上、若し聞入れぬ時は、その場を去らずわしを殺害する決心であった。彼は瑠璃子を失った悲しさに、殆ど気が違っていたのだ。
日頃美男であった彼も、邪念の為にすっかり相好が変り、まるでこの世の人とも思われぬ有様で、ポケットの短刀を砕けよとばかり握りしめ、ガクガク震えながら待っていると、取次の志村が引返して来て、
「どうかこちらへ」
と物柔かに案内した。
川村は無言のままそのあとに従う。二部屋三部屋通り過ぎて、奥座敷の縁側。志村はそこの靴脱ぎ石に庭下駄を揃えて、
「あちらでございます」
と真暗な庭を指さす。そこには、闇の中にほの白く、二階程の高さのある、四角な赤煉瓦の建物が、ニョッキリとそびえていた。
「あちらとは?」
川村は妙な顔をして聞返す。
「主人は近頃出来上りましたお堂の中にお待ち申して居ります。何かあなた様にお見せするものがあります相で」
アア分った。いつか黄金仏の話をしていたが、ではあれがそのお堂なのだな。と、川村は考えたに違いない。彼は場所がどこであろうと、兎に角わしをつかまえて、恨みをはらしたい一心だから、別に疑うこともなく、志村のあとに従って、庭に降りた。
扉を開いて建物の中に這入って見ると、中央に一坪程の、やっぱり赤煉瓦でかためた内陣があって、そのまわりを一間幅の薄暗い廊下が囲んでいる。つまり大きな桝の中へ、小さな桝を入れこにした様な構造なのだ。
わしが隠れていた機械室というのは、丁度その内陣の裏側に当る廊下の一部の、ごく狭い箇所にあるのだが、無論川村は気が附かぬ。
内陣の正面には、赤煉瓦の壁に鼠色に塗った鉄の扉がついている。志村はそれを開いて、
「主人はこの中でございます」
と川村を招じ入れた。
「オイ、君、誰もいないじゃないか。里見さん、里見さんはどこにいるのだ」
川村がびっくりして叫び出した時には、已に入口の扉は外からピシャリと閉められ、カチカチと鍵をかける音さえ聞えた。彼はまんまと、一坪程の煉瓦の壁の中へとじこめられてしまったのだ。
併し、川村にして見れば、彼の方にこそ恨みはあれ、里見重之と信じ切っているわしの為に、彼がこんな目に合わされる道理はない訳だから、まだ何の事とも分らず、
「オイ、どうしたんだ。早く里見さんを呼んでくれ給え」
と怒鳴るばかりだ。
さて、川村の目に映った内陣の有様はと云うと、これは又意外にも、一向お堂らしくはなかった。
内側は全部コンクリートで祭壇も何もなく、ただその真中に、黒い漆塗りの小さな箱がチョコンと置いてあるばかり、壁も天井も一面の平な鼠色で、彫刻もなければ、模様も色彩もなく、まるで空っぽの物置きの中へ這入った様な、殺風景極まる感じであった。
低い天井の真中から、五燭程のはだか電燈がぶら下って、それが風もないのに、ブラブラと動いている。動く度に、床から壁に這い上っている川村自身の影が、不気味に揺れるのだ。
そればかりではない。電線がどこかで切れてでもいるのか、そのフラフラ電燈は、時々お化けの様に、パッと消えては又輝く。どうも、ただ事ではない。
川村は変な気持になって、外へ出ようとして扉を押し試みたが、さっきのはやっぱり鍵をかけた音であったと見え、びくとも動かぬ。
「オイ、ここをあけろ。俺をこんな所へ押しこめて、どうしようというのだ」
怒鳴りながら、拳で叩くと、扉はガーン、ガーンと鐘の様な音を立てる。厚い鉄板で出来ているのだ。貴重な黄金仏を納める金庫だから、鉄の扉に不思議はないが、併し人間の川村まで、仏像と同じ様にその金庫の中へ閉じ込められる道理がないではないか。
あっけにとられて佇んでいると、又してもお化け電燈がパッと消えて、コンクリートの箱の中は、あやめも分かぬ闇となった。しかも今度は消えたまま、急に明るくなる様子もない。
川村はもう怒鳴る元気も失せて、底知れぬ気味悪さに圧えつけられた様に、黙りこくっていた。
すると、目の前の闇の中に、何かモヤモヤと蠢くものがある。闇の錯覚であろうか。イヤイヤ錯覚ではない。そのものは、徐々に、恐ろしい形を現わして来た。アレだ。例のものだ。
さし渡し三尺程もある二つの目が、闇の中にポッカリと浮上って、じっとこちらを見つめているのだ。しかもそれが、忘れようにも忘れ得ない、大牟田敏清の恨みに燃える両眼に相違ないのだ。