秘仏の正体
耳をすますと、どこからか、幽かに幽かに、異様な物音が聞えて来る。厚いコンクリートの壁の中で、巨人の目におびえた川村が、哀れなけだものの様に、狂い廻っている音だ。
わしは実物幻燈器械の、強い電燈の前で、もう一度両眼をカッと見開いて置いて、壁のスイッチを押した。つまり、川村の頭の上に下っている電燈を点じたのだ。同時に、三尺に拡大されたわしの目の幻影が消え去ったのは云うまでもない。
わしは黒眼鏡をかけると、廊下を一廻りして、内陣の正面に行って、そこの鉄扉に設けてある、小さな覗き穴の蓋をソッと開いて、内部の様子を窺った。
ハハハハハハハハ、わしの獲物は――川村義雄という一匹の鼠は、鼠とりの網の中で死物狂いにあばれ廻っていた。もう巨人の目は消えてしまったのに、彼奴無我夢中で、隠しもった短刀を抜き放って、めくら滅法に振り廻している。
「オイ、川村君、何をしているんだね」
わしはそこで初めて、覗き穴から声をかけた。一度では耳に入らなかったが、二三度繰返すと、川村はギョッとした様に、狂態をやめて、こちらを振返った。
「わしだよ。里見だよ」
わしは覗き穴から顔を見せて云った。
「アッ、貴様ッ」
川村は、それと悟ると、見る見る満面に朱を注いで、パッと覗き穴に飛びついて来た。わしの目の前でギラギラ稲妻がきらめいた。
顔をよけるのがやっとだった。狭い覗き穴から、短刀を持った川村の右手が、肩のつけ根まで、槍の様に突き出していた。
だが、仕損じて引込めようとする彼奴の腕を、わしは素早くひっ掴んだ。掴んで置いて、力まかせに短刀をもぎ取ってしまった。
「ハハハハハハハ、川村君、よっぽど腹が立ったと見えるね。君はわしを殺しに来たのか」
云いながら、腕を離すと、彼ははずみを喰って、ヨロヨロと向うの壁に倒れかかったが、よろめきながらも、黙ってはいない。
「そうさ。殺しに来たのだ。うぬよくも俺を裏切ったな。サア、この戸を開ろ。かたり奴。泥棒奴」
いつも女の様な口を利いている川村が、これ程に云うのは、よくよく取乱しているのだ。
「ハハハハハハハハ、川村君、マア落つき給え。君の方ではわしを殺しに来たのかも知れないが、わしの方では、ただいつかの約束を果したまでだよ。忘れたかね、ホラ、わしが大切にしている金むくの仏像をお目にかけるという約束さ。君、見てくれ給え、その仏像は君のすぐ前に安置してあるのだよ。その黒い箱の中だ。開て見給え。どんなに珍らしい仏様が入っているか」
わしが云うと、川村は、
「これが人に物を見せる礼儀か。仏像なんかどうだっていい。今我々にはもっと重大な問題があるんだ。兎も角、ここを開給え。サア開ぬか」
と怒鳴り返す。
「開たら、君はわしに掴みかかって来るだろう。マアもう少し、そこで気を落つけ給え。それに、仏像なんかどうだっていいことはない。君はそれを見なければならぬ。見る義務がある。犯した罪はつぐなわなければならないからだ」
このわしの異様な言葉に、川村はふと妙な顔をした。彼の激情はやや静まり、言葉のあやを判断する能力を取返していた。彼は黙ったまま黒い箱へ近づいて、観音開きになったその蓋に手をかけた。手を掛けて躊躇した。何か恐ろしいものを予感した如く、それを開き兼ね、グズグズしていた。
「サア、開き給え、今更何を躊躇するのだ。その中のものは君を待ちこがれているのだ」
わしの声に励まされて、彼は遂に蓋を開いた。
「アッ」という叫び声、見る見る青ざめる顔、恐怖に戦く唇、箱の中の一物を見ると、川村は思わずタジタジとあとじさりをした。
「見給え、罪の子の哀れな姿を。我が子を我が手にかけて、くびり殺した父親は誰だ。川村君、今こそ鬼の様な父親が罰せられる時が来た。覚悟し給え。くびり殺された子の恨みだ。女房を盗まれた夫の恨みだ」
箱の中には、腐り溶けて、半骸骨となった、無残な嬰児の死体があった。手を縮め、足をかがめ、口を大きく開いて、泣き入っている哀れな形のまま、罪の子は骨となっていたのだ。
皆さんは、それが標本用の誰の子とも分らぬ例の瓶詰め嬰児のなれの果てであることを知っている。だが、川村は少しもそれを知らなかった。嘗ての日、瑠璃子を気絶させた、正真正銘の罪の子であると思い込んでいた。
彼が驚き恐れたのは、併し、骨になった嬰児そのものではなかった。それが川村自身の子である事、彼が手にかけて殺したことを、このわしに感づかれている点であった。
彼はギョッとした様に、覗き穴のわしの顔を見つめたが、いきなり、物狂わしく叫び出した。
「違う、違う。そんなことがあるものか。何を証拠に俺の子だというのだ。俺は知らん。俺は知らん」
「知らぬとは云わさぬ。これは君が大牟田の目を盗んで、この別荘の奥座敷で、瑠璃子に生み落させた、あの不義の子だ。君はその手で、ホラその手だ。その手を使って、生れたばかりの赤ん坊をくびり殺したんじゃないか。くびり殺して、この庭へ埋めたんじゃないか。君はそれを忘れてしまったというのか」
わしは復讐の快感にウズウズしながら、一語は一語と相手の急所へ迫って行った。
「違う。俺は知らん。俺は知らん。……」
川村は青ざめて骸骨の様にこけた頬に、物凄い微笑を浮べながら、同じ言葉を繰返して、みじめな反抗を示したが、その声が段々衰えて行って、遂には、ただモグモグと唇丈けが動いていた。微笑の影はあと方もなく消えてしまった。何かしら深く深く考え込んでいるのだ。
やがて、彼の表情が突然恐ろしい変化を示した。青ざめた頬にサッと血の気が上った。落くぼんだ目が熱病の様にギラギラと輝いた。
「貴様は誰だ。そこに覗いている奴は一体誰だ」
彼の叫び声には、何かしらゾッとする様な調子があった。
「誰でもない。わしだよ。君が殺そうとして訪ねて来た里見重之だよ」
わしが答えると、川村は何か疑わしげに、
「アア、そうだ。貴様だ。貴様に違いない。だが、貴様は俺をなぜこんな目に合わせるのだ。何の恨みがあるのだ」
と聞返した。
「妻を盗まれた恨みがあるのだ」
「アア、貴様はさい前も、何かそんなことを云っていたね。だが、盗もうにも、君には妻なんてない筈じゃないか」
「妻を盗まれた上に、わしは君に殺された恨みがあるのだ」
「何だって? 何だって?」
「殺された上に、出るに出られぬ地底の墓穴に埋められた恨みがあるのだ。何ぜといって、わしはその地獄の暗闇で甦ったからだ」
「ウー、待て。貴様何を寝言を云っているのだ。それは何のことだ。アア、夢を見ているんだ。俺はうなされているんだ。止せ。分った。もういい」
彼は両手で髪の毛を掴みながら、悪夢から醒めようともがいた。だが、夢ではないものが醒める道理はない。
「待ってくれ。やっぱり貴様そこにいるのか。顔を見せてくれ。サア、貴様の顔を見せてくれ。俺は気が違い相だ」
「わしの顔が見たければ、ここへ来るがいい。この覗き穴からよく見給え」
わしの声につれて、川村はフラフラと覗穴に近づいて来た。そこから、目を出して、わしの顔を見つめた。二人の顔は五寸と隔たぬ近さで向い合った。川村は長い間、わしの顔を凝視していたが、やがて失望した様に叫んだ。
「違う。やっぱり俺は見覚がない。貴様がどうして、俺をこんな目に合わせるのか、少しも分らん」
「待ち給え。川村君。僕の声は、よもや忘れはしないだろうね」
突然、わしは里見重之の作り声をやめて、昔の大牟田敏清の若々しい声で云った。
五寸の近さの川村の顔に、ゾーッと鳥肌の立つのが見えた。彼の目は一瞬間、全く生気を失い、口は白痴の様にだらしなく開いた。
「オイ、川村君。仮令声は忘れたとしても、僕のこの目を、よもや忘れはしまい。昔は無二の親友であった男の目を」
わしは一語一語圧えつける様に云いながら、大きな黒眼鏡をはずした。そのあとには、これ丈けは昔ながらの、大牟田敏清の眼が光っているのだ。
これを見た川村の両眼は、眼窩を飛び出すかと疑われた。もじゃもじゃになった髪の毛が、一本一本逆立ったかと怪しまれた。
何とも形容の出来ない、絞め殺される様な悲鳴が耳をつんざいたかと思うと、川村の顔が覗き穴から消えた。彼はその場へ坐り込んでしまった。最早立っている気力もなかったのだ。