「柾木さん。僕の友達。いつか噂をしたことがあったでしょう。僕の小学校の同級生で、君を大変好きだった人なんです」
「マア、私、思い出しましたわ。覚えてますわ。やっぱり幼顔って、残っているものでございますわね。柾木さん、本当にお久しぶりでございました。わたくし、変りましたでしょう」
そう云って、叮嚀なおじぎをした時の、文子の巧みな嬌羞を、柾木はいつまでも忘れることが出来なかった。
「学校中での秀才でいらっしゃいましたのを、私、覚えておりますわ、池内さんは、よくいじめられたり、泣かされたりしたので覚えてますし」
彼女がそんなことを云い出した時分には、柾木はもう、すっかり圧倒された気持であった。池内すら彼女の敵ではない様に見えた。
小学校時代の思出話が劇談に移って行った。池内は酒を飲んで、雄弁に彼の劇通を披瀝した。彼の議論は誠に雄弁であり、気が利いてもいたが、併し、それはやっぱり、彼の哲学論と同じに、少しばかり上辷りであることを免れなかった。木下芙蓉も、少し酔って、要所要所で柾木の方に目まぜをしながら、池内の議論を反駁したりした。彼女にも、劇論では、柾木の方が(通ではなかったけれど)本物でもあり、深くもあることが分った様子で、池内には揶揄をむくいながら、彼には教えを受ける態度を取った。お人よしの柾木は、彼女の意外な好意が嬉しくて、いつになく多弁に喋った。彼の物の云い方は、芙蓉には少し難し過ぎる部分が多かったけれど、彼の議論に油がのってきた時には、彼女はじっと話手の目を見つめて、讃嘆に近い表情をさえ示しながら、彼の話に聞き入るのであった。
「これを御縁に、御ひいきを御願いしますわ。そして、時々、教えて頂き度いと思いますわ」
別れる時に、芙蓉は真面目な調子で、そんなことを云った。それが満更ら御世辞でない様に見えたのである。
池内にあてられることであろうと、いささか迷惑に思っていたこの会合が、案外にも、却って池内の方で嫉妬を感じなければならない様な結果となった。芙蓉が女優稼業にも似げなく、どこか古風な思索的な傾向を持っていたことは、寧ろ意外で、彼女が一層好もしいものに思われた。柾木は帰りの電車の中で、「学校中でも秀才でいらっしゃいましたのを、私、覚えて居りますわ」と云った彼女の言葉を、子供らしく、心の内で繰返していた。