手広い旅館ではあったが、夜も更けていたし、客も少いと見えて、陰気にひっそりとしていた。彼は当てがわれた二階の部屋に通ると、すぐ床をとらせて、横になった。そうして、もっと夜の更けるのを待ち構えた。
階下の大時計が二時を報じた時、彼はムックリと起って、寝間着のまま、そっと部屋を忍び出し、森閑とした広い廊下を、壁伝いに影の如くさまよって、池内と芙蓉との部屋を尋ねるのであった。それは非常に難儀な仕事であったが、スリッパの脱いである、間毎の襖を、臆病な泥棒よりも、もっと用心をして、ソッと細目に開いては調べて行く内に、遂に目的の部屋を見つけ出すことが出来た。電燈は消してあったが、まだ眠っていなかった二人の囁き交わす声音によって、それと悟ることが出来たのである。二人が起きていると分ると、一層用心しなければならなかった。彼は躍る胸を押えながら、少しも物音を立てない様に、襖の所へピッタリと身体をつけて、身体中を耳にした。
中の二人は、まさか、襖一重の外に、柾木愛造が立聞きしていようとは、思いも及ばぬものだから、囁き声ではあったけれど、喋りたい程のことを、何の気兼ねもなく喋っていた。話の内容はさして意味のある事柄でもなかったけれど、柾木にとっては、木下芙蓉の、うちとけて、乱暴にさえ思われる言葉使いや、その懐しい鼻声を、じっと聞いているのが、実に耐え難い思いであった。
彼はそうして、室内のあらゆる物音を聞き漏らすまいと、首を曲げ、息を殺し、全身の筋肉を、木像の様にこわばらせ、真赤に充血した眼で、どことも知れぬ空間を凝視しながら、いつまでもいつまでも立ちつくしていた。