だが、まるで違った場面もあった。そこでは、彼女は物狂わしき妖女となった。振りさばいた髪の毛は、無数の蛇ともつれ合って○○○かなぐり捨てた全身が、まぶしいばかり桃色に輝き、○○○○○○○、空ざまにゆらめき震えた。柾木は、その兇暴なる光景に耐えかねて、ワナワナと震い出した程である。
ある晩のこと、彼はこっそりと、二人の隣の部屋に泊り込んで、彼等が湯殿へ行った間に、境の砂壁の腰貼りの隅に、火箸で小さな穴をあけた。これが病みつきとなって、それ以来、彼は出来る限り、二人の隣室へ泊り込むことを目論んだ。そして、どの家の壁にも、一つずつ、小さな穴をあけて行った。彼はこの狐の様に卑劣な行為を続けながら、ふと「俺はここまで堕落したのか」と、慄然とすることがあった。併し、それは烈しい驚きではあっても、決して悔恨ではなかった。世の常ならぬ愛慾の鬼奴が、彼を清玄の様に、執拗な恥しらずにしてしまった。
彼は不様な格好で、這いつくばい、壁に鼻の頭をすりつけて、辛棒強く、小さな穴を覗き込むのだが、その向う側には、凡そ奇怪で絢爛な、地獄の覗き絵がくりひろげられていた。毒々しい五色のもやが、目もあやに、もつれ合った。ある時は、芙蓉のうなじが、眼界一杯に、つややかな白壁の様に拡がって、ドキンドキンと脈をうった。ある時は、彼女の柔かい足の裏が真正面に穴を塞いで、老人の顔に見えるそこの皺が、異様な笑いを笑ったりした。だが、それらのあらゆる幻惑の中で、柾木愛造を最も引きつけるものは、不思議なことに、彼女のふくらはぎに、一寸ばかり、どす黒い血をにじませた、掻き傷の痕であった。それはひょっとしたら、池内の爪がつけたものだったかも知れぬけれど、彼の目の前に異様に拡大されて蠢いていた、まぶしい程つややかな、薄桃色のふくらはぎと、その表面を無残にもかき裂いた、生々しい傷痕の醜くさとが、怪しくも美しい対照を為して、彼の眼底に焼きついたのであった。
だが、彼のこの人でなしな所業は、恥と苦痛の半面に、奇怪な快感を伴っていたとは云え、それは、日一日と、気も狂わんばかりに、彼をいらだたせ、悩ましこそすれ、決して彼を満足させることはなかった。襖一重の声を聞き、眼前一尺の姿を見ながら、彼と芙蓉との間には、無限の隔りがあった。彼女の身体はそこにありながら、掴むことも、抱くことも、触れることさえ、全く不可能であった。しかも、彼にとっては永遠に不可能な事柄を、池内光太郎は、彼の眼前で、さも無雑作に、自由自在に振舞っているのだ。柾木愛造が、この世の常ならぬ、無残な苛責に耐えかねて、遂にあの恐ろしい考を抱くに至ったのは、誠に無理もないことであった。それは実に、途方もない、気違いめいた手段ではあった。だが、それがたった一つ残された手段でもあったのだ。それを外にしては、彼は永遠に、彼の恋を成就する術はなかったのである。