躍り込むと同時に、彼は芙蓉の喉を目がけて飛びついて行った。彼の両手の間で、白い柔いものが、しなしなと動いた。
「許して下さい。許して下さい。僕はあなたが可愛いのだ。生かして置けない程可愛いのだ」
彼はそんな世迷い言を叫びながら、白い柔いものを、くびれて切れてしまう程、ぐんぐんとしめつけて行った。
芙蓉は、運転手だと思い込んでいた男が、気違いの様に血相をかえて飛び込んで来た時、殺される者のす早い思考力で、咄嗟に柾木を認めた。だが、彼女は、悪夢の中での様に、全身がしびれ、舌が釣って、逃げ出す力も、助けを呼ぶ力もなかった。妙なことだけれど、彼女は大きく開いた目で、またたきもせず柾木の顔を見つめ、泣き笑いの様な表情をして、さあここをと云わぬばかりに、彼女の首をグッと彼の方へつき出したかとさえ思われた。
柾木は必要以上に長い間、相手の首をしめつけていた。離そうにも、指が無感覚になってしまって、云うことを聞かなかったし、そうでなくても、手を離したら、ビチビチ躍り出すのではないかと、安心が出来なんだ。だが、いつまで押えつけている訳にも行かぬので、怖る怖る手を離して見ると、被害者はくらげの様に、グニャグニャと、自動車の底へ、くずおれてしまった。
彼はクッションを取りはずし、難儀をして、芙蓉の死骸を、その下の空ろな箱の中へおさめ、元通りクッションをはめて、その上にぐったり腰をおろすと、気をしずめる為に、暫くの間、じっとしていた。外には、相変らず、かっぽれの楽隊が、勇ましく鳴り響いていたが、それが実は、彼をだます為に、態と何気なく続けられているので、安心をして、シェードをあげると、窓ガラスの外に、無数の顔が折り重なって、千の目で、彼を覗き込んでいるのではないかと思われ、迂濶にシェードを上げられない様な気がした。
彼は一分位の幕の隙間から、おずおずと外を覗いて見た。だが、安心したことには、そこには彼を見つめている一つの顔もなかった。電車も自転車も歩行者も、彼の自動車などには、全然無関心に、いそがしく通り過ぎて行った。
大丈夫だと思うと、少し正気づいて、乱れた服装をととのえたり、隠し残したものはないかと、車の中を改めたりした。すると床のゴムの敷物の隅に、小さな手提鞄が落ちているのに気づいた。無論芙蓉の持物である。開いて見ると、別段の品物も入っていなかったが、中に銀の懐中鏡があったので、序にそれをとり出して、自分の顔を写して見た。丸い鏡の中には、少し青ざめていたけれど、別に悪魔の形相も現われていなかった。彼は長い間鏡を見つめて、顔色をととのえ、呼吸を静める努力をした。やがて、やや平静を取戻した彼は、いきなり運転台に飛び戻って、大急ぎで電車道を横切り、車を反対の方角に走らせた。そして、人通りのない淋しい町へ淋しい町へと走って、とある神社の前で車を止め、前後に人のいないのを確めると、ヘッドライトを消して置いて、咄嗟の間に、シェードを上げ、ツーリングのマークをはがし、テイルの番号標を元の本物と取り換え、再び頭光をつけると、今度はすっかり落ちついた気持で、車を家路へと走らせるのであった。交番の前を通る度に、態と徐行して、「お巡りさん、私ゃ人殺しなんですよ。このうしろのクッションの下には、美しい女の死骸が隠してあるんですよ」などと独ごちて、ひどく得意を感じさえした。