十二
河野は袂からハンカチを出して、その血の跡らしきものを、ゴシゴシとこすって見ましたが、余程よく拭き取ってあると見え、ハンカチの先がほんのうっすりと赤くなるばかりでした。
「どうも血の様ですね。インキや絵の具の色とは違いますね」
そして、彼はなおもその辺を調べ廻っていましたが、
「これを御覧なさい」
といって指さす所を見ると、マットで隠れていた個所の外にも、諸所に点々として血の跡らしきものを認めることが出来ました。あるものは柱や壁の下部に、あるものは板張りの上に、よく拭き取ってあるために、殆ど見分けられぬほどになっていましたけれど、そう思って見れば、成程非常に沢山の血痕らしいものがあるのです。そしてその点々たる血痕をつけて行きますと、負傷者或は死者は、明かに浴場の中へ入った形跡があります。しかし、それから先は、どこへ行ったものか、どこへ運ばれたものか、絶えず湯の流れているたたきになっているのですから、無論少しも分りません。
「兎も角帳場へ知らせてやろうじゃありませんか」
河野は意気込んでいうのです。
「エエ」私は非常に困って答えました。「しかし、例の覗き眼鏡のことだけは、お願いですからいわない様にして下さい」
「だって、あれは重大な手掛りですよ。例えば、被害者が女だったことだとか、短刀の形だとか」
「でも、どうかそれだけはいわないで下さい。恥しいばかりじゃありません。あんな犯罪じみた仕掛けをしていたとなると、何だか僕自身が疑われそうで、それも心配なのですよ。手掛りはこの血痕だけで十分じゃありませんか。それから先は僕の証言なんかなくっても警察の人がうまくやってくれるでしょう。どうかそれだけは勘弁して下さい」
「そうですか、そんなにおっしゃるのなら、まあいわないで置きましょう。では、兎も角知らせて来ますから」
河野はいい捨てて、帳場の方へ走って行くのです。取残された私は、ただもう当惑し切って、ボンヤリとそこに佇んでおりました。考えて見れば大変なことになったものです。私の見たものは、夢でもまぼろしでもなくて、本当の人殺しだったのです。この血痕の分量から考えると、さっき河野が想像した通り、恐らく被害者は死んでいるのでしょうが、犯人はその死体をどこへ持って行ったというのでしょう。いやそんなことよりも、殺された女は、そして殺した男は(多分男なのです)一体全体何者でありましょう。今頃になっても、宿の人達が少しも不審をおこさぬ所を見ると、止宿人の内に、行方不明の者もないと見えます。しかし、誰がわざわざ外部から、こんな所へ相手をつれ込んで、人殺しなどやりましょう。考えれば考えるほど、不可解なことばかりではありませんか。
やがて、廊下の方に数人のあわただしい跫音がして、河野を先頭に、宿の主人、番頭、女中などが浴場へ入って来ました。
「どうか騒がない様にして下さい。人気稼業ですからね。そうでもないことが、世間の噂になったりしますと、商売に触りますからね」
デブデブ太った湖畔亭の主人は、そこへ入るなり、囁き声でいいました。そして、血痕を見ると、
「ナアニ、これは何かの汁をこぼしたのですよ。人殺しなんて、そんな馬鹿な、第一叫び声を聞いたものもなければ、内のお客様に見えなくなった人もありませんからね」
彼は強いて打消す様にいいながら、しかし、内心では十分おじけづいているらしく、
「けさ、ここを掃除したのは誰だ」
と女中の方を振かえって聞きただすのでした。
「三造さんでございます」
「じゃ、三造をここへ呼んでおいで、静にするんだよ」
三造というのは、そこの風呂焚きをしている男でした。女中に伴われて来た様子を見ますと、日頃お人好しの、少々抜けているという噂の彼は、まるで彼自身が人殺しの犯人ででもある様に、青くなって、おずおずしているのです。
「お前は、これを気がつかなかったのか」
主人は怒鳴る様にいいました。
「ヘエ、一向に」
「掃除はお前がしたんだろう」
「ヘエ」
「じゃ、気がつかぬはずはないじゃないか。きっとなんだろう。ここにあった敷物をのけて見なかったのだろう。そんな掃除のしようがあるか。どうしてそう骨惜しみをするのだ。……まあそれはいいが、お前は昨夜、ここで何か変な物音でも聞かなかったかね。ずっとその焚き場にいたんだろう。叫び声でもすれば聞えたはずだ」
「ヘエ、別にこれといって……」
「聞かないというのか」
「ヘエ」
といった調子なのです。私共には眼尻に皺をよせて、猫撫声でものをいう主人が、召使いに対すると、こうも横柄になるものかと、私は少からず悪感を催しました。それにしても、三造というのは何という煮え切らない男でありましょう。