二十四
さて、その夜のことでした。一時出入を禁じられていた問題の浴場は、客商売にさわるからという湖畔亭の主人の歎願が容れられて、丁度その日から湯が立つことになったのですが、〆治を帰してから、しばらく物思いに耽っていた私は、もう九時頃でもあったでしょうか、久しぶりでその浴場へ入って見る気になりました。
脱衣場の板の間の血痕は、綺麗に削りとられていましたが、その削り跡の白々と木肌の現れた様は、かえって妙に気味悪く、先夜の血なまぐさい出来事を、まざまざと思い起させるのでした。
客といっても、多くは殺人騒ぎにきもをつぶして、宿を立ってしまい、あとに残っているのは、河野と私の外に三人連の男客だけです。例の覗き眼鏡の花であった都の娘さんの一家などは、事件の翌日、匆々出立してしまいました。そんなに客が少い上、多人数の傭人達はまだ入浴していないのですから、浴槽は綺麗に澄んで、その中に体を投げ出していますと、足の爪までも、一つ一つ見分けられるのです。
男女の区別こそありませんが、都会の銭湯にしてもよいほど、広々とした浴槽、ガランとした洗い場、高い天井、その中央に白々と下った電燈、全体の様子が、夏ながら異様にうそ寒げで、ふとそこのたたきに、人体切断の光景など見える様な気もするのでした。
私はさびしきまま、先日来顔馴染の三造が、壁一重向うの焚き場にいることを思い出して、例の小さな覗き穴のふたをあけて彼の姿をさがしました。
「三造さん」
声をかけると、
「ヘイ」
と答えて、大きな焚き口の一角から、彼のボンヤリした顔が現れました。それが、石炭の強い火気に照し出されて、赤黒く光っているのが、これもまた異様な感じのものでありました。
「いい湯だね」
「エヘヘヘヘヘヘ」
三造は暗い所で、愚ものらしく笑いました。
私は変な気持になって、穴のふたをとじ、そこそこに浴槽を出ると、洗い場に立って体を拭き初めました。ふと気づくと、目の前の窓の擦りガラスが少しばかり開いて、先夜曲者の逃げ込んだという深い森の一端が見え、その真暗な所に、ただ一点白く光ったものがチラチラと動いていました。
何かの見違いではないかと、暫く拭く手を休めて、じっと見ている内に、今度は少し位置を換て、又チラチラと光るのです。その様子がどうやら、何者かが森の中を、さまよっている様に思われるのでした。
そうした際のことですから、私は直に先夜の曲者を聯想しました。もしあの男の正体を明かにすることが出来たなら、すべての疑問は氷解する訳です。私は湧き上る好奇心を押えかねて、大急ぎで着物を着ると、迂回して庭から森の方へと進みました。途中河野のところへ寄って見ましたけれどどこへ行ったのか、彼の部屋はからっぽでした。
星もない暗夜です。その中を、幽に明滅する光るものをたよりに、探り足に進むのです。臆病者の私に、よくあの様な大胆な真似が出来たと、あとになっては不思議に思う程でしたが、その時は、私は一種の功名心で殆ど夢中だったのです。といって、曲者を捉えようなどと、考えた訳ではありません。ただ危険のない程度で、彼に近づいて、その正体を見極める積りでした。
先にもいった通り、湖畔亭の庭を出ると、すぐに森の入口でした。私は大木の幹から幹へと身を隠しながら、恐る恐る、光りの方へ近づいて行きました。
暫く行くと、案の定おぼろに人の姿が見えて来ました。彼は懐中電燈を照しながら、熱心に地上を見廻っているらしく思われます。何かこう、探し物でもしている形です。しかしそれが何者であるか、まだ遠くてよくは分りません。
私は更に勇気をふるって、男の方へ近づいて行きました。幸、樹の幹が重なり合っている為、音さえ立てねば気づかれる心配はないのです。
やがて私は相手の着物の縞柄から、顔形まで、ボンヤリと見える程に、間近く忍びよりました。