で、つまり鏡の影と一致させる為に、僕は首を吊らずにはいられなくなるのです。向側では自分自身が首を吊っている。それに、本当の自分が、安閑と立ってなぞいられないのです。
首吊りの姿が、少しも怖しくも醜くも見えないのです。ただ美しいのです。
絵なのです。自分もその美しい絵になり度い衝動を感じるのです。
若し月光の妖術の助けがなかったら、目羅博士の、この幻怪なトリックは、全く無力であったかも知れません。
無論お分りのことと思いますが、博士のトリックというのは、例の蝋人形に、こちらの部屋の住人と同じ洋服を着せて、こちらの電線横木と同じ場所に木切れをとりつけ、そこへ細引でブランコをさせて見せるという、簡単な事柄に過ぎなかったのです。
全く同じ構造の建物と、妖しい月光とが、それにすばらしい効果を与えたのです。
このトリックの恐ろしさは、予めそれを知っていた僕でさえ、うっかり窓枠へ片足をかけて、ハッと気がついた程でした。
僕は麻酔から醒める時と同じ、あの恐ろしい苦悶と戦いながら、用意の風呂敷包みを開いて、じっと向うの窓を見つめてました。
何と待遠しい数秒間――だが、僕の予想は的中しました。僕の様子を見る為めに、向うの窓から、例の黄色い顔が、即ち目羅博士が、ヒョイと覗いたのです。
待ち構えていた僕です。その一刹那を捉えないでどうするものですか。
風呂敷の中の物体を、両手で抱き上げて、窓枠の上へ、チョコンと腰かけさせました。
それが何であったか、ご存じですか。やっぱり蝋人形なのですよ。僕は、例の洋服屋からマネキン人形を借り出して来たのです。
それに、モーニングを着せて置いたのです。目羅博士が常用しているのと、同じ様な奴をね。
その時月光は谷底近くまでさし込んでいましたので、その反射で、こちらの窓も、ほの白く、物の姿はハッキリ見えたのです。
僕は果し合いの様な気持で、向うの窓の怪物を見つめていました。畜生、これでもか、これでもかと、心の中でりきみながら。
するとどうでしょう。人間はやっぱり、猿と同じ宿命を、神様から授かっていたのです。
目羅博士は、彼自身が考え出したトリックと、同じ手にかかってしまったのです。小柄の老人は、みじめにも、ヨチヨチと窓枠をまたいで、こちらのマネキンと同じ様に、そこへ腰かけたではありませんか。
僕は人形使いでした。
マネキンのうしろに立って、手を上げれば、向うの博士も手を上げました。
足を振れば、博士も振りました。
そして、次に、僕が何をしたと思います。
ハハハ……、人殺しをしたのですよ。
窓枠に腰かけているマネキンを、うしろから、力一杯つきとばしたのです。人形はカランと音を立てて、窓の外へ消えました。
と殆ど同時に、向側の窓からも、こちらの影の様に、モーニング姿の老人が、スーッと風を切って、遙かの遙かの谷底へと、墜落して行ったのです。
そして、クシャッという、物をつぶす様な音が、幽かに聞えて来ました。
………………目羅博士は死んだのです。
僕は、嘗つての夜、黄色い顔が笑った様な、あの醜い笑いを笑いながら、右手に握っていた紐を、たぐりよせました。スルスルと、紐について、借り物のマネキン人形が、窓枠を越して、部屋の中へ帰って来ました。
それを下へ落してしまって、殺人の嫌疑をかけられては大変ですからね」
語り終って、青年は、その黄色い顔の博士の様に、ゾッとする微笑を浮べて、私をジロジロと眺めた。
「目羅博士の殺人の動機ですか。それは探偵小説家のあなたには、申し上げるまでもないことです。何の動機がなくても、人は殺人の為に殺人を犯すものだということを、知り抜いていらっしゃるあなたにはね」
青年はそう云いながら、立上って、私の引留める声も聞えぬ顔に、サッサと向うへ歩いて行ってしまった。
私は、もやの中へ消えて行く、彼のうしろ姿を見送りながら、さんさんと降りそそぐ月光をあびて、ボンヤリと捨石に腰かけたまま動かなかった。
青年と出会ったことも、彼の物語も、はては青年その人さえも、彼の所謂「月光の妖術」が生み出した、あやしき幻ではなかったのかと、あやしみながら。