闇の中の綱渡
琴野一郎君は、なんともいえない恐しい夢を見つづけていました。その夢のおしまいには、真暗なところに一人ぼっちで立っていますと、帆船の舳についていた、あの木彫の怪物が、耳までさけた口をひらいて、一郎君にとびかかって来るのです。そして、肩のところを、ガブッと食いついたものですから、「ワッ」と叫んだ拍子に、ふと目を開きますと、それは夢だったことがわかりましたが、ちょうど怪物が食いついた肩のへんを、誰かの大きな手が掴んでいるではありませんか。「オヤッ」と思って、見上げますと、すぐ頭の上に、恐しい人がしゃがんで、一郎君の顔をのぞきこんでいました。
それは青い絹の上着を着て、同じ絹のダブダブのズボンをはいた、顔中髭だらけの大男でした。まるで五月幟の鍾馗さまみたいな恐しい奴です。その大男が、獅子の吠えるような声でしゃべっているのですが、何を言っているのかサッパリわかりません。日本語ではないのです。
「ワハハハハハハ、オイオイ、チンピラ、何をきょろきょろしているんだ。そのお方はこの船の船長さまだぞ。お前たちが可愛い顔をしているといって、ほめておいでなさるのだ」
声に驚いて、その方を見ますと、例の水夫長という男が、部屋の戸口に立ちはだかって、さもおかしそうに笑っているのでした。「アア、それじゃ、ここはあの三本マストの帆船の船室なんだな」と、やっと気がついて、うしろを見れば、前田君と西川君の二少年も、今、目をさましたばかりとみえ、ボンヤリした顔で、隅っこにうずくまっていました。
部屋がいやに薄暗いと思ったら、もう夜になったのでしょう。一方の壁にかけてある、妙な形の石油ランプが赤ちゃけた光をはなって、ユラユラと左右にゆれているのです。
「ア、僕たち眠っていたんですか。変だなあ。どうしたんだろう。でも、もう帰らないとしかられます。サア、保君、哲雄君、早く帰ろう」
一郎君が、そういって、ヨロヨロと立上りますと、髭むしゃの大男と、水夫長とは、声をそろえてゲラゲラと笑い出しました。
「ワハハハハハハハ、帰るって、どこへさ。海の中へかい?」
「エ、海の中ですって?」
一郎君は、なんだかギョッとして、思わず聞返しました。
「ハハハハハハハ、まだわからないのかい。この船はもう港にはいないんだぜ。はしっているんだ。見ろこのゆれることを。広い広い海の中をはしっているんだ」
三少年は、それを聞いて、はっと顔見合わせました。なるほど、言われて見れば、エレベータにでも乗ったように、スーッと下へさがって行くかと思うと、フワッと上の方へ持上げられるような気がするのは、たしかに船が波をのりこえて進んでいる証拠です。耳をすませば、ザブンザブンとふなばたを打つ物凄い波の音も聞えて来ます。壁のランプが妙にゆれていたわけも、すっかりわかりました。
「小父さん、なぜです。なぜ船を出してしまったんです。僕たちどうすればいいんです」
一郎君は真赤な顔になって、二人の大人を睨みつけました。
「ハハハハハハハ、今さらいくらわめいたって、泣いたってだめだよ。お前たちは今日からこの船のボーイをつとめるんだ。コックの手伝をして皿を洗ったり、御馳走を運んだり、それから、そっちの一番小さい可愛いの、お前は船長さまの部屋つきボーイにしてやろうとおっしゃるのだ。ありがたく思うがいい」
「いやです。僕たちは東京の小学生です。ボーイなんかになるのはいやです。船をもどして下さい」
「ハハハハハハハ、感心感心、お前はなかなか負けん気の小僧だねえ。だが、もう東京へは二度と帰れないんだ。支那にはね、お前たちぐらいの子供を買いたがっている親分がたくさんいるんだぜ。そして、立派な泥棒や、軽業師なんかに仕立てて下さるんだ。しばらくこの船で働いた上、お前たちはその親分に売られるんだよ。チンピラだってばかにはならねえ。なかなかいい値に売れるんだからねえ」
水夫長はにくにくしく言いはなって、髭の船長と顔見合わせ、又ゲラゲラ笑うのでした。
読者諸君はもうお気づきになっているでしょうが、この奇妙な帆船は海賊船だったのです。日本人が海賊などするはずはありません。支那人です。髭の船長というのが賊の首領で、三十人ほどの手下が乗っているのですが、みんな支那人なのです。水夫長と名のる男も、実は支那人なのですが、子供の時日本に育って、支那人とはわからぬくらい、うまく日本語を話すものですから、三少年は、そのたくみな日本語に、ついだまされてしまったのでした。
この海賊船は、南支那海から、蘭領東印度諸島や南洋の島々にかけて荒しまわり、自分より小さい、速力のにぶい船と見れば、おそいかかって、乗客の持物や積荷をうばい取り、ジャバ、ボルネオの不正商人に、それを売りわたして、恐しいお金もうけをしているのです。
そういう荒仕事をする船ですから、なかなか武器も揃っています。乗組員は皆一挺ずつ小銃と青龍刀を持っている外に、船の底に機関銃が二挺も隠してあって、いざという時には、それを甲板に持出して、相手の船をうちまくるのです。人の命をとることなど、なんとも思っていない、鬼のような悪者共です。
三少年は、入ってはいけない桟橋などを、ウロウロしていたばかりに、実に思いもかけぬ恐しい運命におちいってしまいました。それから一箇月ばかりというもの、昼は鬼のような奴らに追い使われ、こづきまわされ、夜はお父さまお母さまのことを思っては枕をぬらしながら、言うに言えない悲しい恐しい朝晩を送りむかえたのでした。
ある時は大嵐にあって、甲板に襲いかかって来る小山のような波に、いよいよ死ぬのかと、三人が抱きあって、東京のお母さまの名を呼びつづけたこともありました。又ある時は、海賊船が小さな汽船を追跡して、機関銃でおどしつけ、荒くれ男どもが、青龍刀を振りかぶって相手の汽船に乗りこんで行き、乗組員を片っぱしから縛りあげて、積荷をドシドシこちらの船へ運ぶという、戦争のように血なまぐさいありさまを、見せつけられたこともありました。
その恐しさ、気味悪さ、それらの出来事をくわしく書きつづれば、それだけでも一冊の本が出来るくらいなのですが、残念ながら、今はそれを記しているひまがありません。なぜといって、かわいそうな三人の少年は、そのあとで、海賊船での出来事なぞよりは、もっともっと不思議な、恐しい、魂も消えるような目にあわなければならなかったからです。そして、その世にも奇怪な冐険談をお話しするのが、この物語の本筋だからです。
少年たちは、海賊船のとりこになってからというもの、この船がどこかの港へ寄港するのを一縷の望にしていたのですが、賊もさるもの、船が港に近づくと、三人の少年を、あの最初麻酔薬を飲まされた小部屋へおしこめて、ドアに鍵をかけてしまうのでした。そして、船が用事をすませて港をはなれるまで、けっして外へ出してはくれないのです。
救を求める望は全くたえてしまいました。この上は、海賊船をのがれるためには、海へ飛びこみでもする外はありません。三人の少年は、海や船が好きなだけあって、泳はよく出来るのですが、港に遠い荒海の中へ飛びこんで、どう泳ぎきることが出来ましょう。そんなことをすれば、ただ鱶の餌食になるばかりです。
でも、少年たちは、どうにかして賊の船をのがれたいと、昼も夜もその事ばかり考えていました。人のいないすきを見ては、三人が額をよせて、ひそひそとそのことばかり相談していました。
すると、長崎を出て一月ほどたったある夜のこと、思いがけぬ機会が来たのです。非常な冐険をすれば、ひょっとしたら、逃げだせるかも知れないような、たった一つの方法を発見したのです。
その時、海賊船はオランダ領セレベス島のメナドという港に入って、盗みためた荷物を、たくみに売りさばき、しこたまお金をもうけたのですが、そのお祝だというので、港の酒場でたらふくお酒を飲んだ上、夜になって、出帆してからも、船の中で又酒もりをはじめるというさわぎでした。
そんなわけで、三人の少年は、船が港を出るか出ないに、もう監禁の小部屋から引出され、酒もりのお給仕などさせられました。
ところが、そうしていそがしくはたらいている中に、三人の中の一郎君の姿が、どこかへ見えなくなりましたので、あとの二人の少年は、どうしたのかと心配していますと、やがて、一郎君がどこかから帰って来て、向こうの入口から、そっと二人を手まねきするのです。
酒もりの真最中で、みな夢中になって飲んだり歌ったりしているのですから、誰も気がつく者はありません。少年たちは料理場へ行くような顔をして、コッソリ部屋をぬけ出しました。
「一郎君、どうしたの? 君の顔まっ青だよ」
せまい通路を、甲板へののぼり口まで来た時、前田保君が、そっとたずねました。
「君たち、決心したまえ。逃げるなら今だよ」
一郎君は二人の手をにぎって、はげしい息づかいで言いました。
「エ、逃げるって?」
「ウン、逃げるんだよ。僕は今甲板へ上って見て来たんだけどね。甲板には舵手一人っきりしかいないんだ。それにね、うまいことがあるんだよ。ボートが船尾につなぎっぱなしになっているんだ。オールもちゃんとついている。あいつたち、酒に酔っていて、面倒くさいものだから、ボートを船に上げなかったんだよ」
「エ、ほんとうかい。じゃ、行って見よう」
三人は階段を上って、甲板に出て、舵手に気づかれないように注意しながら、物の陰を伝って、船尾にたどりつきました。
暗い海をのぞいて見ますと、いかにも一艘のボートが、船尾につながれて、親舟の四五メートルうしろから、ガクンガクンと首を振るようにゆれながら、ついて来るのです。
風は静かで、波というほどの波もなく、空には砂をまいたような星の光、メナド港の方角を見れば、まだ港のともし火が、空の星とはちがった色で、チラチラと見えています。さいわい、船の速度がにぶい上に、天候といい、港からそれほど遠くないことといい、おまけにボートまでそろっているのですから、こんなよい折がまたとあろうとは思われません。
「綱渡をするんだね」
「ウン、でも、ぐっとたぐりよせれば、三メートルぐらいの長さだよ。わけないよ。ただ、決心さえすればいいんだ」
三人の中では一番豪胆な一郎君が、ほかの二人をはげますように言いました。
「よし、やろう。……じゃあね、僕、みんなの帽子と上着を取ってくらあ。正服正帽でなくちゃ、南洋の土人にたいしても幅がきかないからね」
前田保君は学校でも評判のチャメ公でした。こんな命がけの場合にも、日頃のたしなみを忘れないところ、さすがはチャメのター公だけのことはあります。
保君はほかの二人が「見つかると大へんだから」ととめるのも聞かないで、栗鼠のように闇の中を走って行きましたが、五分もたたない中に、三つの帽子と、三枚の上着と、それから何だか大きな白い袋をかかえて帰って来ました。
「その袋はなに?」
「いいんだよ。なんでもないんだよ」
保君は、なぜかその袋を隠すようにしています。
そこで、三人が手ばやく上着を着て、さて、ボートへの綱渡をしようと身がまえた時、とつぜん、うしろに物音がして、人の息をしているようなけはいを感じました。
ギョッとして、振向きますと、ナアンだ、それは人間ではなくて、一匹の犬でした。海賊船に飼われているぶちのポインターで、この一月の間に、三少年にひどくなついてしまっていたのです。
それを見て、チャメの保君が何か思いついたらしく、ほかの二人の腕をつかんでいいました。
「ねえ君、こいつも連れてってやろうよ。こんなになついているのを、残しておくのはかわいそうだよ。それに、こいつだって、海賊船なんかにいるよりは、僕たちのお供がしたいんだよ。ホラね、こんなに体をすりつけて来るじゃないか」
これには一郎君も哲雄君もすぐ賛成しました。淋しい異境の空で、たとえ犬一匹でも、なかまの多いのは心丈夫というものです。
「じゃ、僕が一番のりだよ」
勇敢な一郎君が、ボートの綱を出来るだけ引きよせて、手すりにしっかりしばりつけ、ヒラリと身をおどらすと、その綱をつたって、スルスルとおりて行きました。学校の鉄棒できたえた腕前です。
次には哲雄君、それから、保君がさし出す犬を、下の二人が苦心をして受取り、最後に、保君が、例のえたいのしれぬ白い袋を、首にくくりつけて、珍妙な恰好ですべり落ちて来ました。
「じゃ、いいね、綱を切るよ」
一郎君は小声で言って、ポケットから愛用のジャック・ナイフを取出すと、それでボートの索綱をプッツリと切断しました。
こうして、三人はとうとう目的を達したのです。でも、ボートに乗りうつっただけでは、まだ安心は出来ません。船をはなれない中に、どんなことで海賊共に見つからぬとも限りませんし、たとえ無事に逃げだすことが出来たとしても、港までは相当の距離があるのです。
真暗な海。はるかはるか向こうにチラチラしている港のともし火。それも、日本の港ではありません。南洋の未開の島の、淋しい淋しい港です。
子供の腕で、この海がはたしてこぎ通せるでしょうか。にわかに嵐が起るようなことはないでしょうか。そして、漕いでも漕いでも、港から遠ざかるばかりというような、恐しい目にあうのではないでしょうか。アア、なんだか心配です。三少年の運命は、これから一体どうなって行くのでしょう。