鰐
どうなることかと思った三人のいのちは、まるで奇蹟のように救われたのです。それにしても、漕ぎもしない筏が、どうして洞穴の外へ出たのでしょう。信じられないほどの幸運ではありませんか。
しかし、それは、あとになって考えてみると、何でもないことでした。つまり、三人がもうだめだと思いこんで、漕ぐことをやめてしまったのが、かえってよかったのです。あの広い洞穴の中の水は、少しも流れていないようでいて、その実は、ごく少しずつ動いていたのです、その動き方があまりのろいので、まるで感じられないほどでしたが、ともかく動くことは動いていたのです。
ですから、漕ぐのをやめてしまった筏は、そのゆっくりした水の動につれて、洞穴の出口の方へ、ひとりでに運ばれて行ったわけです。おそらく五六時間、あるいはもっとながい間かかって、とうとう出口に達し、三人の頭の上に空の星が輝くという幸運がめぐって来たのです。
「よかったねえ。もう大丈夫だよ。ここはどこだかわからないけれど、夜があけたら、上陸する場所も見つかるにちがいないよ」
一郎君がうれしそうに言いますと、考えぶかい哲雄君は、まだ安心は出来ないというふうで、
「でも、変だねえ。ごらん。星の見えるのはあんな細い空だけじゃないか。雲でかくれているのかしら。なんだかおかしいよ」
といぶかりました。
「ア、わかった。雲じゃないよ。岩山だよ。僕等の両側に高い岩の崖がそびえているんだ。だから空があんなに細長くしか見えないんだよ。ね、そうだろう。よく見てごらん」
一ばん目ざとい保君が、早くもそれに気づいて言いました。
もうここは洞穴の中ではありませんから、いくら暗いといっても、あたりの様子がかすかに見わけられるのです。
「ア、そうだ。両側はとてもすごい岩の壁だよ。僕たちは今、深い谷底を流れているんだねえ」
岩山の高さは何十メートルとも知れぬほどで、それがけずったように、まっすぐにそびえていて、流の幅はわずか七八メートルしかありません。大きな大きな岩の裂目のような場所なのです。筏をつけて上陸する岸などは、どこにも見あたりません。
広い洞窟の中では、あれほどゆっくり動いていた水も、この狭い谷底では、かなり早く流れています。水に手を入れてみますと、筏がグングン進んでいるのがわかるのです。
じっと両側の岩を見ていますと、進むにしたがって、その幅が少しずつ広くなって行くような気がします。
「アア、もう大丈夫だよ。この谷底をぬけてしまえば、きっと平地に出るんだ。ごらん、空の星がだんだんふえて来るじゃないか。それだけ谷間が広くなって行くんだよ」
「ほんとだ。夜があける頃には、どっかの岸へあがれるかもしれないね。よかったねえ。僕はもう、ほんとうに死ぬんだと思ったよ。助った、助った、神様にお礼を言わなくっちゃ」
保君はそう言って、妙なふしをつけて、お祈のような文句を長々とつぶやいていましたが、それがおわると、びっくりするような声をはりあげました。
「アー、おなかがへった。早く何かたべなくっちゃ」
それを聞くと、ほかの二人も、にわかに空腹を感じました。今までは無我夢中で、腹のへったことなど、考えているひまもなかったのですが、もう助かったと安心したせいか、むやみに何かたべたくなって来たのです。
そこで、三人は、まだ筏の上に残っていた食料品を手さぐりで拾いあつめて、闇の中の食事をはじめました。あぶった鳥の肉、パンの木の実、あまい果物など、何をたべても、頬がちぎれるほど、おいしいのです。
それから一時間もしますと、空は、はじめの十倍ほどの広さになっていましたが、その空がほのぼのと白みはじめたのです。すがすがしい青空が、だんだんあかるくなるにしたがって、星の光がうすれ、やがて、それが全く見えなくなってしまったころには、空はまぶしいくらいになって、両側の高い岩山も、まざまざと姿をあらわしました。
少年たちはこんな美しい朝を見たのは、生まれてからはじめてのような気がしました。ほんとうに生きかえったような気持です。太陽のありがたさが、この時ほどしみじみと感じられたことはありませんでした。
「ア、青い木が見える。ホラ、あすこをごらん」
目早い保君の指さす方角を見ますと、岩山の間から、はるか向こうに、青々としげった林がのぞいています。谷底はそこでおわって、川は平地に流れ出ているのです。その川の岸に立ちならぶ熱帯樹の林が、緑色に照りはえているのです。
「ワー、平地だ! 上陸地点が見つかったぞ。バンザーイ、バンザーイ」
保君がおどりあがって叫びますと、二人もそれにつれて、高らかに万歳をとなえるのでした。
漕ぐせわもなく、筏は流のまにまに、だんだん広くなって行く谷間を、静かに下って行きます。それにしたがって、向岸の帯のような緑の林が、一メートル、二メートルと右左にひろがって、こちらに近よって来るのです。その景色の美しさ、楽しさは、何にたとえるものもありません。
それから一時間ほどのち、少年たちの筏は、とうとう岩山をはなれて、平地の川に流れ出ました。非常に広い川です。川というよりも大きな池といった方がいいかも知れません。すこしの波もなく静まりかえった水、そのまわりを、ぐるっと緑の林がとりまいているのです。
谷間を出はなれると、たちまち流がゆるくなって、筏が進まなくなりましたので、少年たちは又、板の櫂で水をかかなければなりませんでした。
「アア、熱くなった。もうこんなものいらないや」
保君が第一に、体にまきつけていた布を、ぬぎすてました。ほかの二人も、それにならったことはいうまでもありません。そして、シャツと半ズボンの軽快な姿になって、せっせと筏を漕ぐのです。
筏は、油を流したようにゆるやかな水の上を、スーッスーッと進んで行きます。
キラキラとかがやく空、青くよどんだ水、濃い緑の林、絵にかいたような景色です。
ところが、筏が池のなかほどにきた時、突然、実に突然、その静けさの中に、ギョッとするようなことが起りました。
「キャーッ、キャーッ」というような、叫声が、まず聞えたのです。
びっくりして、その方を見ますと、向こうの岸に近い水面に、何か小さなものが浮かんで、バチャバチャ水をはねかえしているのです。
「オヤ、なんだろう。ア、人間だ、人間だ」
「子供らしいね。土人の子供だよ」
それは十二三歳の土人の子供が、ただ一人水泳ぎをしていたのです。しかし、なぜあんなに悲鳴をあげて、あわてているのでしょう。
「ア、子供のうしろに何か泳いでいる。変なものが泳いでいる」
「あれ鰐じゃない?」
「エ、鰐だって?」
やがて、そのものの正体がハッキリわかりました。鰐です。一匹の大きな鰐が、土人の子供を、一呑みにしようと、追っかけているのです。
その時、子供の叫声のほかに、また別の悲鳴が聞えて来ました。
よく見ると、岸の林のしげみの中に、チラチラと人の姿が見えます。髪を長く肩にたらした、はだかの人です。女のようです。子供の母親かも知れません。
その二つの叫声が入りまじって、けたたましく響きわたる中で、土人の子供と大鰐との、死にものぐるいの競争が行われています。
子供と鰐とのへだたりは、わずか三メートルほどです。しかも、そのへだたりが、しだいにせばまって行くのです。
いくら泳ぎがうまいからといって、子供の力では、とても鰐にかなうはずはありません。みるみる鰐は追いついて行きます。ア、もう二メートルほどになりました。あぶない! 次の瞬間には一呑みです。ごらんなさい。あの大鰐の口を、パックリと開いた口を!
誰も助けてやるものはないようです。林の中で叫んでいる女も、飛びこんで子供を助ける勇気はないのでしょう。イヤ、たとえ勇気があっても、かよわい女の力ではどうすることも出来ません。
三人の少年も筏の上に立って、アレヨアレヨと手に汗をにぎるばかりです。助けようにも、あまり遠くて、そのひまがありません。
「一郎君、銃を、銃を」
哲雄君が叫んだ時には、一郎君はもうすばやく銃を取って、鰐にねらいを定めていました。一発でしとめなくてはいけない。打ちそんじたら大変です。
その間にも、鰐はもう子供のすぐうしろにせまっていました。一メートルもないくらいです。アア、あぶない! 今にも、今にも、パックリとやられそうです。
そのとき、グワンと空気が破裂したような感じがして、筏がグラグラとゆれ、一郎君の銃の先から白い煙が吹き出しました。
発砲したのです。
少年たちの目は一せいに、鰐にそそがれました。
「あたった! あたった!」
保君のおどり上るような声。
弾丸は見事に鰐の頭をつらぬいたのです。鰐はガッと口を開いて、大きな体をぐるっと一回転させたかと思うと、そのまま水中に沈んでしまいました。
土人の子供は助かったのです。