生か死か
それから夜明までの数時間、風はたえまなく吹き、波はいつまでもさわいでいましたけれど、さいわい、嵐にもならず、ボートは果しもなく流されるばかりで、転覆するような心配はありませんでした。
泣きたいだけ泣いて、やっと泣きやんだ三少年は、さいぜんからの働きと恐のために、身も心も疲れはてて、もう何が何だかわからなくなっていました。眠いけれども、眠るわけには行きません。といって、はっきり起きているのでもなく、生きているのか死んでいるのかわからないような数時間が、ようやくすぎ去って、やがて、空がほんのりと明るくなり、海のはてに血のような真赤な色が流れて、びっくりするほど赤い太陽が、水平線の上にジリジリとさしのぼって来ました。
とうとう夜が明けたのです。ふと気がつきますと、いつの間にか風がやんで、波も静かになっていました。
「ア、波が静まったよ。僕らは助かるかも知れないぜ」
泣き出すのも早ければ、元気になるのも早い保君が、ボートの中にムックリと起き上って、大きな声で叫びました。
ほかの二人も、その声にはげまされて、思わず起き上り、泣きはれた顔で、ホノボノと白んだ海の上を見わたしました。
太陽は見る間に波を離れて、水平線の一メートルほど上に、真赤なお盆のような姿を見せています。空は一面に明るくなって、暗かった西の方の水平線も見わたせるようになりました。
ところが、どうしたというのでしょう。東にも西にも北にも南にも、ただ糸のような水平線がつづいているばかりで、陸地らしいものはどこにも見えないではありませんか。
三人はびっくりして、青ざめた顔を見合わせました。そして、自分達の目がどうかしたのではないかと疑うように、しきりと目をこすりながら、遙かの水平線を探しつづけました。
「ア、あれだよ、ホラ、あれは雲じゃないよ。たしかに陸地だよ、きっとあれがセレベス島にちがいないよ。でも、遠くまで流されたんだねえ。もうとても、あすこまで帰ることなんか出来やしないよ」
哲雄君が、ズーッと向こうの水平線にかすんで見える、長い陸地らしいものを指さして、涙ぐんで言いました。いつの間に、こんなに遠く流されたのでしょう。三人はまるで夢を見ているような気がしました。
それにしても、なんという海の広さでしょう。世界中が空と水ばかりになってしまったようで、そのまん中に、ポツンと小さな小さなボートが浮かんでいるのです。
三人はもう物をいう力もありませんでした。ただじっと泣き出しそうな顔を見合わせているばかりです。長い長い間、まるで死んででもしまったように、そうしてじっとしていましたが、やがて一郎君が何かを思いついて、元気に叫びました。
「でも、まだ助からないときまったわけじゃないよ。どこかの汽船が通りかかりさえすればいいんだ。そして、僕達を見つけてくれさえすればいいんだ」
「だって、いつになったら、汽船に出くわすかわかりやしないよ。それに、ここが汽船の航路からずっと遠くだったらどうするの?」
考え深い哲雄君はなかなか安心しません。
「そんなこと言ったって仕方がないじゃないか。僕達は運を天にまかせて、汽船が通るまでじっと待っているほかに、どうすることも出来やしないんだ」
一郎君が怒ったような声で言いかえしました。
「そりゃそうだけど、でも、おなかがすくし喉がかわくよ。汽船が来るまでに僕達はうえ死してしまうかも知れないぜ」
哲雄君のいうところも尤もです。そういえば、三人とも実はもう腹がペコペコになっているのです。犬も何かたべたいのか、さいぜんからクンクン鼻をならしつづけているではありませんか。
「オイ、それなら安心したまえ。僕達はちゃんと食料を持っているんだよ」
二人の話をだまって聞いていた保君が、なぜか急にニコニコして口だしをしました。
「エ、食料だって? 何いっているんだい。からかうんじゃないよ」
「へへへ……、そうくるだろうと思った。ところがちゃんとここに食料がかくしてあるんだよ。ほしくないのかい。僕一人でたべてもいいのかい。エヘン、僕さまはやっぱりえらいなあ」
保君は肩をいからせ、両手で握りこぶしを造って、それを自分の鼻の上に重ねて、天狗の真似をして見せました。茶目のタア公は、こんな時でも、つい日頃のくせが出てしまうのです。
「ほんとかい? じゃあ見せてごらん」
一郎君がそれにつられて、笑顔になって言いますと、保君はボートの底から白い布の袋のようなものを取出し、その中から、大きなバナナの房をニューッとさし出して見せました。
「アッ、バナナ!」
一郎君と哲雄君とは、思わず一しょに叫んで、その方に手を出しました。そして、保君がちぎってくれたバナナを受取りますと、いきなり皮をむいて、その水々した白いおいしい実にかじりつくのでした。
海賊船を逃出す時、保君が白い袋を大切そうに持っていたのを、読者諸君はごぞんじでしょう。その袋にはバナナと缶入りのビスケットが、どっさり入っていたのです。殊にバナナの方は、メナド港で積みこんだ、木からちぎったばかりの新しいやつで、日本の内地などでは思いも及ばぬほどおいしいのです。
「じゃ君は、僕達がこんな目にあうことを、ちゃんと知っていたのかい」
一郎君が、さもおいしそうに、口をモグモグやりながら、不思議らしくたずねますと、自分も口を動かしながら、片手で犬にビスケットをたべさせていた保君が、ニコニコして答えました。
「そうだとえらいんだけどね、ハハハ……、ほんとうは、僕が食いしんぼうなのさ。あの時、メナド港につくまでの間に、おなかがすきそうな気がしたので、賊の料理場から失敬して来たのだよ」
「どうして、それを今までかくしていたのさ」
「だって、君達はいつでも、僕を食いしんぼう、食いしんぼうっていうんだもの。はずかしかったんだよ」
保君は無邪気に笑いながら、とうとう白状してしまいました。
でも、保君の食いしんぼうのおかげで、三人は、倹約してたべれば、二日ぐらいは、腹をすかさないでもいいことがわかって、大安心でした。保君が慾ばってうんとこさと持出して来てくれたのが、思いもかけぬ仕合せになったのです。「食いしんぼう」なんて、からかうどころではありません、ありがたくって拝みたいくらいです。
おなかがふくれてしまうと、三人はボートの中に横になって、グウグウ寝こんでしまいました。あんなにひどい働きをした上、一晩中眠らなかったのですから、もう我慢にも目をあいていられなくなったのです。
静かといっても大洋のことですから、時々大きな波のうねりが襲って来るのですが、三人はもうそのくらいのことにはおびえません。グウグウいびきをかいて眠りつづけるのでした。
それから二日間は、何事もなく過ぎ去りました。三人が待ちに待っていた汽船は、一向通りかかる様子もありませんでしたが、海は鏡のように静かでしたし、食料はありますし、命には別状もなくすごすことが出来ました。
何より困ったのは、赤道に近い太陽の熱さでしたが、三人は残っていた一本のオールをボートの中に斜に立てて、みんなの上着をつないで日覆のようなものをこしらえ、やっと熱さをしのぎました。
それに、南洋では、どんな天気のよい日にも、一日に二回も三回も、スコールという夕立のような雨が降りますので、その度に体中がずぶぬれになって、暑さを忘れ、その雨を両手にうけて、かわいた喉をうるおすことも出来るのでした。
でも、それは今生きているというだけのことで、とぼしい食料がつきてしまえば、もうおしまいなのです。それまでに汽船が通ればよいけれど、もし通らなかったら、誰も知らない大洋の真中で、うえ死しなければならないのです。世の中にこれほど心細い恐しいことが、またとあるでしょうか。気の弱いものは、それを考えただけでも死んでしまうほどです。
ところが、アア、何という運の悪いことでしょう、少年達の行手には、もっと恐しいことが待ちかまえていました。汽船が通らないとか、うえ死をしそうだとか、そんな心の中の苦しみではなくて、もっとさしせまった命がけの危難が、三人の上におそいかかって来たのです。
それは、海の上では何よりも怖い暴風雨でした。賊の船を逃出した夜も、風が吹きましたけれど、嵐というほどのものではなかったのですが、今度はほんとうの嵐がやって来たのです。海の魔物が小さなボートを一なめにしようと、恐しいうなり声を立てて攻めよせて来たのです。
二日目の夜のことです。ボートの中で、心細そうに話をしていた三人の頬を、とつぜん、ヒューッと音を立てて妙な風が吹き過ぎました。
「アレ、今のなんだろう。変な風だねえ」
びっくりして、思わず空を見上げましたが、すると、つい先程まで、砂をまいたように美しく光っていた星が、一つも見えなくなっているではありませんか。
「オヤ、空が真黒だよ。雨かしら」
言う間もなく、又してもヒューッという物凄いうなり声を立てて、気でも狂ったような風が吹きつけ、大つぶな雨がポツリポツリとボートの上に落ちかかって来たかと思うと、たちまち滝のような大雨になり、それが海面を打って、海全体が白く泡立ちゆらぎはじめました。むろんスコールではありません。そんな生やさしいものではないのです。
「嵐だ! みんな気をつけて、しっかりボートにつかまっているんだよ」
一郎君が叫びましたが、もうその叫び声さえ耳に入らないほどです。
海は見る見る波立って来ました。そして、ボートがまるでブランコのようにゆれ出したのです。ブランコが一振りごとに高くなって行くように、波は一波ごとにその勢をまして来ました。
海賊船で働いている間に出合った、あの嵐にもおとらない、恐しい風と雨と波です。
「だめだ! 今度こそボートがひっくりかえるかも知れない。君達しっかりつかまっているんだよ。ア、いいことがある。この縄でみんな体をボートにしばりつけよう。サア、手つだっておくれ」
こういう時に一番しっかりしているのは一郎君です。とっさに、うまい工夫をしました。ボートの底に予備の引綱が、丸く巻いておいてあったのを思い出したのです。
三人はその綱をのばして、互に助け合って、みんなの体を、次々とボートの腰かけ板にしばりつけました。犬も保君に抱かれたまま、同じようにしばられて、身もだえしながら、吠え立てています。
ゴーッ、ゴーッと闇の空をかすめ去る風の音、波は刻一刻と高くなって来ます。三人はもう目も見えず、耳も聞えず、ただ死ものぐるいで、ボートの腰かけ板にしがみついているばかりです。
スーッとエレベーターにでも乗ったように、上へ上へと持上げられる感じ、それからまた、スーッと地底へ吸いこまれて行くような感じ。
ボートは山のような波に乗せられたかと思うと、次のせつなには、波と波との谷間ふかくすべり落ち、落ちたかと思うと、又高い高い山の上へ吹き上げられて行くのです。
アア、もう運のつきです。この大嵐がにわかに静まるはずはありません。ボートは転覆するにきまっています。転覆すれば三人の命はないものです。
何という気の毒な少年達でしょう。やっとのことで海賊船をのがれたかと思えば、潮流といういたずらもののために、恐しい大洋のまっただ中へおし流され、それでもまだ足りないで、今度はこの大暴風雨です。なんてまあいじわるな神様でしょう!
神様はほんとうに、三少年の命を取っておしまいなさるのでしょうか。それともまた、少年達をえらい人にするために、わざとこんな恐しい目にあわせて、その勇気をおためしになっているのでしょうか。