椰子の実
ゴーッ、ゴーッという風のうなり声、次から次へとよせて来る黒い山のような大波、渦巻になって吹きつける雨と波しぶき、気ちがいエレベーターにでも乗っているように、天まではね上げられたかと思うと、次にはスーッと地の底へもぐって行くような気持、三人の少年はもう生きた心地もなく、ただ心の中に神様を念じながら、必死になって、ボートの腰かけ板にしがみついているばかりです。
三人はめいめいの体をボートの腰かけ板にしばりつけて、波にさらわれないようにしていましたが、波にはさらわれなくても、ボートそのものがひっくりかえれば、もうそれでおしまいです。なつかしい故郷を何千里はなれた、熱帯の海のもくずと消えるのです。誰知るものもない、はかない最期をとげなければならないのです。
しかし、少年たちはそんなことを考えているひまもありません。次から次とおそいかかって来る波しぶきに、息をするのもやっとの思いで、舟の上にいながら、今にもおぼれ死しそうな気がします。
「お父さーん、助けて下さーい」
三人は心の中で、何度そう叫んだか知れません。でも、お父さまも、お母さまも、遠い遠い日本にいらっしゃるのです。いくら叫んだとて聞えるはずもなく、助けに来て下さるはずもありません。
「ア、苦しい、助けて……」
一番体の弱い哲雄君が、波のために息も出来ぬ苦しさに、思わず悲鳴をあげました。でも、誰も答えるものもありません。みんな自分のことで精一ぱいなのです。
波はいよいよはげしく、ボートは浮いているのか、沈んでいるのか、わからなくなってしまいました。もう波しぶきというようなものでなく、三人の顔はたえ間なく水の中につかっていて、まったく息が出来なくなってしまいました。
「アア、今死ぬんだな」
三人はめいめいそれを感じました。もう何も聞えず、何も見えず、ただ自分の魂だけが、スーッと深い深いところへ、沈んで行くような気持がして、そして、少年たちは、次々と気を失って行くのでした。
× × ×
一郎君は、誰かに呼び起されているような気がしました。
「ア、お母さんが起していて下さるんだな。寝坊をしてしまった。早く起きて、ラジオ体操をしなくっちゃあ」
そんなことを考えて、フッと目を開きますと、鼻の先に犬の顔が見えました。一匹の犬がクンクン言いながら一郎君にすりよっているのです。
オヤ、変だなと思いながら、寝たままで遠くの方に目をやりますと、何だか見なれぬ青々とした木が立ちならんでいます。お部屋ではないのです。
「じゃ僕は原っぱで寝ていたのかしら」
しかし原っぱでもありません。体の下には白い砂がギラギラと光っています。その砂っ原をズーッと目でたどって行きますと、白い波頭が見えました。ドドン、ドドンとうちよせている波です。
「ア、海岸だ、それじゃあ……」
一郎君は、やっと頭がハッキリして来ました。
「なんてのんきなことを考えているんだ。お家なもんか。僕は南洋の海でおぼれ死んだんじゃないか。でも、死んでしまった僕が、どうしてこんな海岸に寝ているんだろう。ア、わかった。助かったんだ。気を失っているうちに、あの恐しい嵐が、僕をどこかの海岸へ運んでくれたんだ。……それじゃ、哲雄君や保君はどうしたんだろう」
そこまで考えた時、うしろに犬の吠える声が聞えました。ハッとして、いそいでその方へ首をねじむけますと、そこに一艘のボートが横倒しになっていて、二人の少年が、ボートの腰かけ板に体をしばりつけたまま、グッタリとしているのが目に入りました。むろん哲雄君と保君です。
「それじゃ、僕と犬だけ縄がゆるんで、ボートの外にほうりだされたんだな。……早く二人を助けなくちゃあ」
一郎君は、いきなりとび起きようとしましたが、体中の力が抜けてしまっていて、思うように身動きも出来ません。やっとの思いで、ようやく上半身を起し、這うようにしてボートに近づき、二人の縄を解きはじめましたが、すると、うれしいことには、保君も哲雄君も、死んでしまっているのではないことがわかりました。
それから長い時間かかって、二人を砂の上に寝かせ、いろいろと介抱しているうちに、二人とも次々に目を開き、口をきき、とうとうまったく正気にかえることが出来たのです。
しばらくすると、抜けていた体の力もだんだん元に戻って、三人とも立って歩けるほどになりましたが、すると、まず気がついたのは、のどが焦げるようにかわいていることでした。水が飲みたくてしかたがないのです。
水は目の前にあるのですが、海の鹽水ではしかたがありません。
「どこかに川か井戸がないかしら」
保君が、青々とした深い森の方を見ながらつぶやきました。
「井戸だって? どこにも人の家が見えないんだから、井戸なんてあるはずがないよ。……でも、いったいここは、どこの国なんだろうね」
哲雄君が、心細そうにつぶやきます。
「いやに淋しい海岸だね。一艘の舟も見えないし、家らしいものもないし、……やっぱり南洋のどこかの島にちがいないけれど……ひょっとしたら野蛮人の国かも知れないぜ」
保君はそういって、おそろしそうにあたりを見まわしました。眼もはるかにズーッとつづくでこぼこの岩と砂の海岸に、舟はもちろん、人の姿も動物の姿も見えず、まるで死にたえたように静まりかえっている様子が、何となくただならぬ感じです。
こんな荒れはてた土地に、もし人が住んでいるとしても、どうせ恐しい野蛮人にきまっています。もしかしたら、話に聞く人喰人種の国かも知れません。その上、あの深い森林の奥には、どんな猛獣がすんでいるかわからないのです。
三人はそこへ気がつくと、思わずおびえた目を見かわしました。日本にいる時、映画で見た野蛮国の猛獣狩のありさまなどが、マザマザと目に浮かんで来るのです。
森といっても、海岸に近いところは一面の椰子の林で、その向こうがズーッと山のように高くなり、その山全体が名も知れぬ大木の森で覆われているのです。
「ねえ、大丈夫だろうか。あの森の中には、何か変なものがいやしないだろうか」
チャメ公の保君も、あたりのただならぬけはいに、いつもの元気はありません。青い顔をして、ヒソヒソとささやくように言うのです。
「でも、どこかで水をさがさなきゃ、もうがまんが出来ないよ。あの森の中には川か泉があるかも知れない。それに、何か果物がなっているかも知れないぜ。勇気を出して、森の方へ行ってみようじゃないか」
一郎君はそういって、先へ立って椰子の林の方へ歩きはじめました。保君も哲雄君も、のどのかわく苦しさにはかえられませんので、気味が悪いけれど、そのあとにつづきます。それを見ますと、犬はにわかにはやりたって、いきなり三人を駈けぬけ、向こうの林の中へひじょうな勢で飛びこんで行きました。
三人はそれを見て、思わず立ちどまりました。今にも林の中から、けたたましい犬の声が聞えて来るのではないか、そして、なにか恐しい動物に追われて逃げ帰って来るのではないかと思われたからです。
しかし、しばらく待っていても、そんな様子はなく、犬は一度木立の中へ姿をかくしたかと思うと、又そこから飛びだして来て、さも「大丈夫だから早くいらっしゃい」と言わぬばかりに、はしゃいでいます。
「大丈夫らしいよ。行ってみようよ」
三人はいくらか安心して、林の中へ入って行きましたが、土地はすっかり乾ききっていて、泉らしいものも見あたらず、近くに川が流れている様子もありません。
「オヤ、妙なものが落ちているぜ」
保君が立ちどまって、靴の先で、フット・ボールの球を小さくしたような、茶色の丸いものをコロコロころがしたり、ふんづけたりしていました。
「こんちくしょう、これでもか、これでもか」
いくらふんでもなかなかつぶれません。
保君は、それがあまり固いのにすっかり腹を立てて、ポケットにもっていたジャック・ナイフを出して、グサッとつきさしました。すると、その中からドロドロした液体が流れだしました。そして、そこから何とも言えない甘い匂がただよって来ました。
「これ椰子の実だよ。ホラ学校の標本室にあったじゃないか。あれだよ、あれだよ。もう川なんか探さなくてもいいよ。あれをごらん、椰子の実がどっさりなっているじゃないか。あれをもいで、中のつゆをすえばいいんだよ」
何事にも頭の働きの早い哲雄君が、一本の椰子のてっぺんを指さして、うれしそうに叫びました。
「ア、ほんとだ。椰子の木があるのに、椰子の実に気がつかないなんて、僕たちどうかしているね。でも、これは何だかくさっていそうだから、やっぱり木になっている奴を取った方がいいね。三人の中で木登のうまいのは誰だっけ」
一郎君が保君の顔を見て、クスリと笑いながら言いました。たずねるまでもなく、木登といえば保君がその方の名人だったからです。
「ハイ、僕!」
保君は教室でするように、右手を高くあげて、それに答えました。でも、日本にある木とちがって、下枝というもののまったくない、まるで太い竿を立てたような椰子の木登は、さすがの名人にもちょっと自信がないらしく、小首をかたむけていましたが、しかし、すぐ何か思いついたらしく、
「ああ、うまい方法がある。ちょっとまっててね」
そういいながら、保君は一目散に海岸の方へ走って行きました。そして、しばらくしますと、一メートルより少し短い麻縄の両端をむすんで、輪にしたものをもって帰って来ました。縄は三人の体をボートの腰かけ板にしばったあの縄、ジャック・ナイフでそれを手ごろの長さに切りとったのです。
「この縄が木登の秘伝だよ。僕いつかお父さんに教わったんだ。見ててごらん。いいかい」
保君は得意らしく言って、靴をぬぎますと、その輪になった縄を、両足にはめて、そのまま椰子の木にとびつきました。そして、幹に抱きついて、グイグイと登って行きます。縄の輪を両足にはめて、それを力にしてふみこたえるのですから、すこしもすべり落ちる心配がありません。なるほどうまい考えです。保君が秘伝だといって、じまんするだけのねうちがあります。
保君は、見る見る高い椰子の木のてっぺんに登りつき、持って行ったジャック・ナイフで大きな椰子の実を切りとりました。
「いいかい。投げるよ」
と空からほがらかな声が響いて来ます。
「いいよ。サアここへ……」
下の二人は、椰子のてっぺんの保君の小さな姿を見上げて、両手をひろげました。
椰子の実は固くて、その上高いところから投げるのですから、ずいぶんひどい手ごたえでしたが、二人はうまくそれを受取ることが出来ました。一つ、二つ、三つ、大きな実ですから、三つあれば十分です。
保君は、凱旋将軍のような顔をして、スルスルと椰子の木をおりて来ました。そして、三人はそこに坐って、椰子の実にナイフで穴をあけて、そこへ口をつけて、まだ熟しきっていない肉の中の、甘い甘い汁をすするのでした。
南洋の土人なれば、そんな下手なことをしないで、実を手ぎわよく二つに割って、皮についたドロドロした白い肉をたべるのですが、少年たちにはそんな上手なたべ方は出来ません。でも、それで十分なのです。つゆだけでも胃袋が一ぱいになるほどでした。
「おいしいね。僕、こんなうまい汁、生まれてからはじめてだよ」
保君は、唇につたう汁を、手のひらで横なでにして、ベタベタ舌つづみをうって、感じいったようにいうのでした。
「ウン、僕も。椰子の実って、こんなにおいしいものとは知らなかったよ」
「まるで舌がとけるようだね」
口々にそんなことをいいながら、おなか一ぱい甘い汁をすってしまいますと、のどのかわきがとまったばかりでなく、おなかもくちくなって、すっかり元気を取りもどすことが出来ました。
「オヤ、犬はどうしたんだ。あいつもおなかがすいているだろうに」
一郎君はそれに気がついて、ふしんらしく言いました。最前まで、あんなにはしゃいで、三人のまわりを走りまわっていた犬の姿が見えないのです。
この犬にはまだ名がついていませんでした。もと海賊に飼われていた犬で、支那人の船員たちは何だか妙な名で呼んでいましたが、少年たちはこの可愛い犬を、海賊のつけた名で呼ぶ気にはなれないのです。やっぱり日本の国籍に入れてやって、日本の名で呼びたいのですが、いろいろな危難にあって、まだ犬の名をきめるひまもなかったのです。
「こまったな、あの犬、なんて呼んだらいいんだい。かまわないや、僕ん家の犬の名をつけちまえ。オーイ、ポパイ、ポパイ、ポパイ――!」
保君がおどけた調子でさけびました。保君のお家の犬はポパイという名だったのです。あの漫画映画の豪傑のポパイから取ってつけた名です。
「変なの。ポパイっていうのかい?」
哲雄君が、ちょっと不服らしくいいましたが、保君は耳もかさず、ポパイポパイとよびつづけています。保君にしては、ポパイはどんな相手にもまけない豪傑で、その上なんとも言えない親しみがあって、こんないい名はないじゃないかと考えているのです。
三人は犬を呼びながら、林の奥へ入って行きました。そして、椰子の林をぬけますと、そのへんからだんだん背の低い木が多くなって、それが向こうの山の大森林へとつづいているのですが、むろん道があるわけでなく、木のしげみが深くなるにつれて歩きにくくなり、むやみに入って行っては道に迷いそうで、もう進むことも出来なくなってしまいました。
しかたがないので、そこに立ちどまって、なおしきりと「ポパイ、ポパイ」と呼びつづけていますと、やがて、ガサガサと木の枝のすれあう音がして、三人の目の前に、ヒョッコリ犬が姿をあらわしました。
少年たちは「アア、よかった」と思いながら、犬の頭をなでてやろうと、その方へ近づいたのですが、ふと犬の口もとに気がつきますと、三人は「アッ」と声を立てて立ちすくんでしまいました。
ごらんなさい。犬の口から下顎にかけて、真赤な血がしたたっているではありませんか。それに肩のへんや足などに傷が出来て、そこから血がふき出しています。
一体どうしたというのでしょう。ポパイは何ものと戦って来たのでしょう。動物にはちがいありませんが、それはどんな動物なのでしょう。もしかしたら恐しい猛獣に出あったのではないでしょうか。そして、その猛獣に追われて逃げて来たのではありますまいか。
三人はハッと目を見かわしました。そして、今にも、その恐しい奴が、むこうのしげみの中から、ヌーッと姿をあらわすのではないかと、思わず身がまえました。