見渡すと、桜の樹間には厚板染の緞子《どんす》の幔幕が、あちこちに張りめぐらされてある。紫、萌黄《もえぎ》、空色、五色の縫合せある練綾《ねりあや》の綱を樹に結び、風に揺れる度にまくれた幕裾の隙から、女どもの衣裳の端が見え隠れした。
幔幕の内は女中どもの溜り場だった。皆は今にも無礼御免の宴《うたげ》のお声のかかるのを待っている。
家斉には、庭一面に立ちこめた女の香と抑えた声が今にも押し寄せる海嘯《つなみ》のように感じられた。
「美濃」
家斉は呼んだ。
水野美濃守が、その前に這いすすんで行き、
「はあ」
と手をつかえた。
「歌のことは、みんなに申しつけたであろうな」
「左様計らいましてございます」
家斉は軽くうなずいた。
「それでは、今より一刻ばかり花見など致させ、各々の詠んだ歌を予が手許にさし出すようにせよ」
「畏《かしこま》りましてござります」
美濃守は畳をすべって退った。
彼のその横顔を、大御所夫人は少し離れたところから、じろりと見た。美濃守忠篤は五十を出ている筈だが、十いくつも若く見える。鼻が高くて、冷たく見えるのが難だが、奥女中どもには人気のある佳い顔だ。
その容貌を眺めた夫人の眼ざしには露骨な軽蔑があった。
今より十年前に死んだ中臈に、|みの《ヽヽ》という女がいた。家斉の気に入った侍女の一人である。
この女が患《わずら》い、死の床にあって家斉の見舞をうけたとき、半身を起して手をつかえ、
「海山の御恩を蒙りまして、仕合せでございました」
と礼を云った。家斉が不憫《ふびん》に思い、
「その方の望みは何でも叶えてとらせるが、申し遺《のこ》すことはないか?」
ときいた。|みの《ヽヽ》が泪《なみだ》を流して、
「それでは、寅次郎をどうぞお取り立て下さいまして、末長く、わたくしに代りお眼をかけて下されませ」
と頼んだ。
家斉はその願いを聴き入れ、彼女の甥の寅次郎を呼び出して取り立てた。寅次郎が忠篤である。「みの」の名に因んで、「美濃守」に任官させたのである。
もとより家斉夫人の気に入る男ではない。
──しばらくすると、女どもの嬌声が、俄かにあたりにどよめいた。
吹上での花見の宴では、鳴物は禁じられていた。しかし、女中どもの今日を限りの晴れ衣は、色彩あざやかに乱れ咲いて花の下に映えて、集団的な動きが、色気を渦のように立ち昇らせている。
奥女中にとっては、今日が衣裳の見せ競べでもある。親にねだって新調するは勿論、それが間に合わぬものは染めに出す、古着の仕立直しをするという具合で、苦心惨憺であった。だから、この月は女中どもには大そうな物入りである。
女たちは、飲み食いや、口三味線の踊り、狐拳、遣《や》り羽根、鬼追いなどの今日の最大のたのしみは、一応あと廻しとなって、大御所の上覧に入れる和歌の工夫が先となり、桜を見上げては首を傾け、眼を閉じ、樹の間を仔細げに停っては歩いている。
二百人以上の女どもが彷徨《ほうこう》しているのだから、広芝一帯は色豆を撒いたようである。
「今日の一番のお歌には、何の褒美《ほうび》が出ましょうなア?」
と中には朋輩に訊く女中もあった。
「されば、大御所様のことですから、御紋つき、梨子《なし》地に金|蒔絵《まきえ》の御化粧道具を賜るかも分りませぬ」
「なかなか左様なことではありますまい。歌合せにて数多いお女中衆を抜きん出て、お覚えにかなった秀歌を詠むほどの女なれば、すぐにもお眼に止り、お中臈に出世なされるかも知れませぬ」
と横の女中が口を出す。
「それはまあ、大そうなこと。わたしもそれほどの三十一《みそひと》文字を詠みたいものでございます」
「おや、これは厚かましいお方じゃ。お気の毒じゃが、そなたが逆立ちをして天竺《てんじく》まで歩いたとて、かなわぬこと。お諦めなされませ。多喜の方様がおられます」
「ほんに、そうでございましたな。それでは、わたしは二番を狙いましょう」
「どこまでも、お気の強いお人じゃ。それも出来ませぬ」
「はて、何故でございます?」
「知れたこと。今日の歌合せは、お美代の方さまと、多喜の方さまの強《きつ》い競《せ》り合いじゃ。殊に、お美代の方さまは、多喜の方さまに負けをとってはならぬと大そうなお気の揉みようと承りました。何でも、こっそり表のその道の上手に頼み、二、三十首もお手もとに集められたとか、お末の者から聞きました」
「それは面白いことになりました。なるほどお二方とも負けられませぬな。これは歌をつくるよりも、その勝負を眺めた方が、ずんと面白そうでございます」
「あれ、あすこに、多喜の方さまが!」
その女中が眼顔で朋輩に逸早く知らせた。
吹上には、到るところに小さな丘陵があり、径《みち》がいくつもその間を縫っている。その一つの坂道を多喜の方は、ゆっくりと歩いていた。
旭染めの紋|縮緬《ちりめん》の合着に、菊模様を金糸で縫いとった白|綸子《りんず》の襠《かいどり》を前にからげていたが、見ようによっては妊《みごも》った身体を恥かしげにかくしているような風情である。が、何となくお美代の方に対して誇っているようにも眺められた。
多喜の方は、桜の下に歩いては立ち止り、佇《たたず》んでは歩を移していた。花の間を一匹の虻《あぶ》が忙しげに羽をふるわせている。春の陽が、花にいろいろな光と翳《かげ》を与えていた。
彼女は近づいて、花の一点を凝視したり、離れて、雪のような桜の群れを眺めたりした。それから眼を閉じて思案顔になる。一心に想いに凝っている顔はあどけないが自信が出ていた。彼女のすんなりした姿の上に、花の枝影が斑《ふ》をつくって変化した。
その周囲に、多喜の方つきの女中が四、五人添っている。無論、このようにして逍遥しているのは彼女たちのみではない。見渡す限りの丘や広場にさまざまな人間の色彩が動いていた。
「見事に咲きました」
「ほんに、よい眺めじゃなア」
近いところで、もう戯《ざ》れている女の声が聞える。これからの愉しみが抑えられず、大御所様仰せの歌合せの時間が待ち切れないのだ。どこかでは袂《たもと》を口に当てた忍び笑いがしている。
「お美代の方様、とんとお座には見えませぬが」
多喜の方のうしろで供の女中が眼をうろうろさせながら朋輩に云った。むろん、主人に聞かせる声である。
「わたしも先刻から探しておりました。どこで工夫を遊ばしているのやら、ちっともお姿が分らず、面妖なことでございます」
相手の女中も応えて、主人の横顔をうかがった。多喜の方は知らぬ顔をしている。が、唇のあたりには冷たい微笑が流れていた。
なるほど、お美代の方は少しも花の下を歩いてない。大勢のお供が附く筈だから、探さなくとも、すぐにそれと目立つのだ。だが、どの小径にも、芝生の上にも、丘の蔭にも、お美代の方らしい一行は無かった。
花壇茶屋の屋根が陽の下に静まって見えた。そこがお美代の方の場所である。彼女はそこから一歩も外に出て来ない。深い庇《ひさし》で陽を除《よ》けた暗い茶屋の奥で、お美代の方は懸命に秀歌を詠もうと工夫しているのか。花の下にわざと出て来ないのは、夫人と多喜の方に対することさらの意地のようでもある。そう思うと、花壇茶屋のあたりから妖気が立ちのぼっているみたいである。
冷たい薄ら笑いは、家斉の近くに坐っている夫人寔子の唇にも上っていた。
お美代の方は花壇茶屋から一歩も出ていなかった。出る必要がなかった。
一つは大御所夫人への意識である。夫人は滝見茶屋に坐ったままなのだ。それなら己も、という気持がある。ほかの女どもに混ってのめのめと庭が歩けるものかと思った。それは家斉の長い寵愛を一身にうけた彼女の見識だった。ほかの中臈づれと一緒にされて堪るか、という肚《はら》である。
同時に、多喜の方への面当てでもある。それは自ら正夫人に準じている彼女の貫禄と自負の誇示だった。
それと、自身で花の下に立つ用がないのだ。己が歌を詠むことはない。誰かにつくらせればよいのである。
誰かに──といっても、これは誰でもという訳にはゆかない。相手が多喜である。彼女の詠む歌以上のものをつくる上手を選ばなければならないのだ。
その人選を、かねてお美代の方に心を寄せている中年寄の菊川が周旋してくれた。
大奥では何か目出度ごとのとき、御台所《みだいどころ》が歌を詠むことがある。その場合、必ず心得の者がいて、お手直しを申し上げる。それは一人ではなく、数人いた。
菊川は、その中の、最も上手と思われる者二人にひそかに代作を頼んだ。それがさきほど三十首ばかり菊川からお美代の方の手もとに届けられている。
お附きの女中どもがみんなで集って、その歌稿を選んだ。その中で、五、六首をとったが、一首となると何とも決しかねている。
お美代の方には、選択力がない。しかし、多喜の方に怯《おく》れをとってはならぬと思うと、彼女も気の焦りがある。眼を庭に放つと、遥か彼方の小高いところに、多喜の方の白い襠《かいどり》の姿が小さく動いていた。思いなしか、まことに落ちついた動作だった。お美代の方の眼が思わず尖った。小癪《こしやく》な小娘と思うと、その眼は憎悪の光をおびた。
そこへ、ひょっこり姿を見せたのは、水野美濃守だった。いつも猫のように静かに歩いてくる男である。
「これは美濃守様、よいところにお越し遊ばしました」
と女中どもは、手をとらんばかりにして、彼を茶屋の内にひき入れた。
「お歌はお出来になりましたか。そろそろ時刻ゆえ、ご様子を伺いに参りました」
美濃守は、お美代の方に柔和な顔を向けた。近ごろ肥えて、色の白さが目立っている。
「それが、美濃守様、ぜひあなた様に選んで頂きたい歌がございます。わたくし共では迷っております」
女中の一人が云ったので、お美代の方が微笑した。
「もう、そのようにお詠みになりましたか。いつもながらお美代の方様の才智には恐れ入りました」
美濃守は口もとをすぼめながら、にじり寄った。女中どもが歌稿を三、四首見せて、
「いずれ劣らぬお見事なお出来ゆえ、一首を選べと仰せられましても、わたくし共にはとんと判断がつきませぬ」
と云った。
「はて、手前に判りますかな」
と云いながら美濃守はつつましく歌稿に見入った。彼は、この歌が誰かの代作であることを知っている。しかし、そんな色は塵ほどにも面に出さない。静かに眼を動かして歌稿を読み下して行った。
その様子をお美代の方は、無関心げに眺めていた。片頬には鷹揚な微笑が漂っている。下の間着《あいぎ》は緋の紋縮緬、上は、綸子に金糸で総縫いした源氏車の襠の裾を羽のように拡げて坐ったまま身動きもしない。外の陽ざしの反射を柔かに受けた顔が、年増ながらも匂い立つばかりである。
「美濃守さまは、大御所様の御気質をよくご存じの方、どのようなお歌を上覧に入れたら、お気に召しましょうな?」
お美代の方に仕えて気に入りの女中梅野が、神妙げに歌稿を黙読している美濃守の横顔を気遣わしそうに見て云った。
「されば」
と美濃守は、やがて恭《うやうや》しそうに紙を措《お》いて、首を傾《かし》げ、少しの間、沈思していたが、
「手前など、恥かしながら些《いささ》かの素養もござりませぬが、このお歌など如何でございましょうな?」
と指で軽く押えた。
「どれ、拝見」
とばかり女中どもの顔が集った。
「──吉野山|水無瀬《みなせ》の霞も何ならん、けふ吹上の花ざかりなる」
美濃守は、改めて、低い声でその歌を口の中で誦した。調子がうっとりしそうに耳にきれいである。
「まず、これは名歌と存じますが」
美濃守は、女中どもの顔を見廻し、ついでにお美代の方をうかがった。彼女のさり気ない顔に満足げな微笑がひろがっているのを彼は見のがさなかった。
「おお、なるほど、これは一段の秀逸でござりまするな」
と女どもは口々に云い立てた。
「いずれも見事なお出来栄えですが、さすがは美濃守さま、よくぞお抜き遊ばしました」
「これなら、多喜の方さまの鼻をあかすことが出来ましょう」
「なんの多喜の方さまが及びましょう。あの、小憎らしいお方のぺしゃんこになったお顔を見るのがたのしみでございますなア」
「水野どの」
今まで黙って坐っていたお美代の方がはじめて声をかけた。
「はア」
と美濃守は、改めて向き直り、手をつかえた。まるで御台所に対するような丁重さだった。
「その歌が佳《よ》いと思われましたか?」
彼女は含み声で云った。細くした瞳《め》は、黒い一筋の糸になって、さすがに艶がある。小皺が眦《めじり》に出たが、かえって男の心を揺れさせるものがあった。
「は。僭越ながら左様に──」
お美代の方は、聞いてうなずいた。
「やはり水野どのじゃな。妾《わらわ》もそれが気に入っていた」
平気である。臆した声ではない。その押し切った横柄《おうへい》さが、美濃守に、それらが彼女の自作のように錯覚させたくらいである。
「恐れ入りました。名歌には、誰にしもあれ、感じ入るものでござります」
美濃守はすらすらと応《こた》えた。
「ことにこのお歌は、吉野、水無瀬と花の名所を詠みこませ、優雅と大きな調べを二つながら兼ね備え、それにもまして吹上の桜の見事さを高くうたい上げたるあたり、恐れながら、君万代の目出度さを寿《ことほ》ぎ奉ったる佳作と存ぜられます」
彼は註釈まじりのお追従を臆せずに述べた。
それを女中どもが傍で聴いて眼を輝かした。
「なるほど、それを承って、わたくしどもにも歌の心がよくわかりました。左様な心得をもって拝読しますとますます名歌でございますな」
「これほどのお歌を詠むお方は、ほかに、どなたもございますまい。だれやら様が、さぞ口惜しがることでございましょう」
「ほんに、そのお方の高慢ちきなお顔が蒼くなるのを早う拝みたいものじゃ」
女たちは、多喜の方の歩いていた築山のあたりを見ながら云い合った。一様に眼が憎くて堪らぬといいたそうに光っていた。
「水野どの」
とお美代の方が云った。
「そなたには讃められたが、大御所様には、どうであろうな?」
その声音《こわね》に、やはりかくし切れぬ不安がのぞいている。対抗の多喜の方が心配なのだ。
「ご案じなさるには及びませぬ」
と美濃守忠篤は端正な顔でうけ合った。
「これほどのお出来栄えです。必ず大御所様のお気に召しましょう。他は、よもとるにも足りますまい」
暗に多喜の方のことを利かした。
お美代の方の顔には、はじめて安堵の晴れやかな笑みがひろがった。代作のことは、相変らず色にも見せなかった。
──一刻ばかり経《た》った。
家斉が盃を措きながら、首を廻し、
「もう、よかろう。美濃は居るか」
ときいた。すでに酔いが廻っていた。
美濃守が前に進むと、
「どうじゃ、歌は集ったか?」
と家斉は問うた。
「は。ただ今、手もとに揃いましてございます」
美濃守は答えた。
「どれくらい集ったな?」
「みなで、八十二首でございます。なれど、悉くを上覧に入れますと刻《とき》を移すばかりでございますし、稚拙な和歌もござりますので、奥|御祐筆《ごゆうひつ》組頭荒井甚之丞ならびに御歌学者北村再昌院の両名にて下撰りを致させ、十五首ほど選び出してござります」
「十五首か」
家斉は呟いたが、
「よかろう」
とうなずいたのは、その中に、多喜の方の歌があることを信じて疑わなかったからだ。
「それでは、これへ」
と家斉はあごをしゃくった。
長さ一尺五分、幅一寸八分の金|砂子《すなご》、雲砂子地の短冊が十五枚、函《はこ》のようにきれいに重ねられて、梨地金蒔絵の台の上に載せられた。
家斉は、それを覗きこんだが、眼が少し酔っている。ほかの者にも聞かせてやるつもりか、気を変えたように、
「美濃、そのほうが読んでくれ」
と身体を動かせて、脇息に凭《よ》った。
美濃守は短冊の方へ摺り寄った。家斉に頭を下げ、次に夫人の方へ一礼して、
「上意により、美濃守、詠進のお歌を朗詠仕ります」
と述べたが、夫人は会釈も返さず、冷たい顔で庭の方を眺めていた。午《ひる》をすぎた陽ざしは、一めんの桜の上に光を降りそそいでいる。その光を含んだ花が、反射のように輝いていた。
樹間に張られた幔幕の内からは、ひそとも声が洩れない。屯《たむろ》した女どもは、これから披露される歌合せの結果を、遠くから窺《うかが》っているのだ。太い吐息だけが、この春の昼の庭の上に、陽炎《かげろう》のように揺れているようだった。
お坊主が、にじり出て、美濃守の横に這いつくばった。
美濃守が、重ねられた短冊の上の一枚をとり上げると、雅《みやび》やかな口調で読みはじめた。きれいなことで、声には自信があるのだ。
「──よも枝にこもれる花にあらざらん、君がいでますよき日と思へば……」
家斉は少し考えていたが、首を左右に振った。
家斉が首を振ったのは、その歌の下にしるされた「詠《よ》み人」の名を聞いたからかもしれない。歌の出来は、さして拙くないが、といった顔つきである。
美濃守は、ちらりと家斉を見て、短冊を横のお坊主に渡す。それから次をとり上げた。
「──ながながし春の一日もみぢかしや、千代ともたのむ花をながめて」
ここまで朗詠調に云って、
「八重」
と詠者の名を少し低い声で云った。八重とは中臈の一人である。
家斉が何とも云わぬので、美濃守は、次をとり上げた。
「──まつ程の心づくしも惜しからぬ、花のさかりに今日あひにけり」
家斉は首を振った。
「──色も香も千代まで匂へ桜花、み代をことほぐ今日さながらに」
美濃守は、家斉の様子を見て、お坊主に渡した。
十五枚の短冊の山が次第に薄くなった。家斉は盃を口にふくんで黙って聞いている。黙っていたり、首を振ったり、どうも気に入ったものがない、といいたげな顔色だった。
この滝見茶屋には、大御所つきのもの、夫人つきのものが、奥役人、奥女中を合せて三、四十人は詰め合っていた。のみならず、それぞれの茶屋や屯《たむろ》から、こっそり様子をうかがいに忍んで来た女中どもが、その後の方にひしめいていた。いずれも、主人や朋輩の詠進した歌の運命を気づかっているのだ。
陽は相変らず、明るく照り、微風に花片が乱れ落ちるが、誰ひとりとして声を上げる者もなかった。うららかな春昼だけに、この息苦しさは異様だった。
「──花に飽かぬなげきぞけふのなげきなる、ながき春の日暮れずもあらなん」
「誰じゃ」
家斉が、初めて咎《とが》めた。
「|しの《ヽヽ》どのでございます」
美濃守が答えると、家斉は少し嫌な顔をした。|しの《ヽヽ》は中臈だが、もう数年前からお褥《しとね》から遠ざけられている。かつての寵愛の座から滑り落ちた女の嘆きと憾みがこの歌の意にこもっている。
家斉が不快な顔をしたのを、夫人はじろりと眺めて皮肉な笑いをうかべた。
「次」
家斉が云ったので、美濃守は急いで次を手にとった。
最初の一字が眼に入ったので、彼は緊張し、自然と声まで改まった。
「──吉野山水無瀬の霞も何ならん、けふ吹上の花ざかりなる……お美代の方様にございます」
家斉は、美濃守の澄んだ声をきいていたが、
「美代のか」
といって、しばらく黙っていた。考えているというよりも、気迷っている風にみえた。美濃守は、短冊を両手で捧げるように持って家斉の決断を待った。これになされませ、と促しているようでもある。
「まず、とっておけ」
家斉がぼそりといったので、美濃守はほっとした。無論、彼はそれをお坊主に渡さず、丁重に自分の傍に置いた。
美濃守は、次をとりあげた。
「──照り返すさくらのいろにつつまれて、人もうらうらかがよひて見ゆ」
家斉は興を示さない。
つづいて二首とも首をふった。
次の短冊を手にとって美濃守は、はっとした。雲形金砂子の上に流れるように書かれた文字は、松花堂流のあざやかなもので、眼が醒めるようだった。素早く、詠み人の名を見ると、「多喜」とあった。
彼は唾を呑んで、声を出した。
「──吹上の御苑《みその》に匂ふ花のいろに、衣染めてんのちのかたみに」
美濃守が、そっとお坊主の方に置こうとすると、家斉が身体をつと動かして、
「誰じゃな?」
と訊いた。
「は、多喜の方様にござります」
「待て」
家斉は手に持っていた盃を置いた。
「よい歌だな、とっておけ」
その云い方に、今までの気乗り薄な調子がはじめて消え、弾みのようなものが出ていた。
「はア」
美濃守は仕方なく、それをお美代の方の短冊の上に重ねた。いかにも仕方がないといった置き方だったが、美濃守の動悸は鳴り出した。
あるいは、という不安が襲ってきた。歌の出来もどうやら、こっちの方が優れているように思える。それに、心配なのは家斉の瞬間の動作だった。多喜の方と聞くと、急に顔の様子まで違ってきたではないか。
残りの四、五枚を彼は無意識のうちに披露したが、家斉は、そのどれにもうなずかなかった。
果して、残されたのは、お美代の方と多喜の方の二首だけであった。
「それで全部じゃな?」
家斉は念をおした。
「は。左様でございます」
「うむ」
家斉は脇息に肘をかけ直した。
「美代もうまいが──多喜が少し勝《まさ》っているな」
家斉が、多喜の歌が勝れているな、と云ったから満座が一瞬に|しん《ヽヽ》となった。
勝負はあった。それは歌の巧拙ではない。固唾《かたず》をのんだのは、その裁定の裏に流れた閃光である。お美代の方が音たてて転倒するのを人々は幻に見る思いがした。
美濃守の胸が慄えた。いつもなら、家斉の意見に容易に賛成するところだが、今度は違う。お美代の方の不機嫌がおそろしい。殊に、その歌を讃めて、今日の第一でござる、多喜の方も遠く及びますまい、と請け合った手前、この結果では面目が全く無い。
いや、それよりも、お美代の方にうとまれて、突放されるのではないか。今まで、とり入って来ただけに、その反動が怕《こわ》い。まして、現在の彼の地位に、反感と嫉妬を抱いている人間も多いことだ。一旦、傾くと、誰かに追い落されることは必定である。
「恐れながら」
と云い出した美濃守の声は少し上《うわ》ずっていた。
「大御所様のお鑑識《めがね》、恐れ入りましてござりますが、この二首はともに抜群の秀歌にて甲乙つけがたいところ、今しばらくご鑑賞のほどを願わしゅう存じまする」
必死の食い止めだった。彼の額には、うすい汗が滲んだ。
「よく考えろと申すのか」
家斉は脇息から身体を起して問うた。その声が少し不機嫌そうだったので、美濃守は顔が火のように熱くなった。
「はア」
と美濃守は平伏した。
家斉は黙った。考えているのは、さすがに相手がお美代だという心かららしい。
「これへ」
と手つきで、改めて見せろと命じた。美濃守が、二枚の短冊を捧げるようにしてさし出した。
家斉は、二枚を前に置いて、身体をかがめ、短冊の和歌に見入っている。比べるようにしていたが、
「どうも、多喜のがよいようだが」
と呟いた。
それを聞いて、美濃守が、
「多喜の方様のお歌、さすがに優雅に詠まれて結構に存じまするが、お美代の方様のは、格調の高さといい、規模の雄大さといい、また花の豪華なるを表わしたるところといい、さらに一段と絶妙に存ぜられまするが……」
と首筋に汗を出しながら云ったとき、
「美濃」
と鋭い声がかかった。
美濃守が、はっとして声の方を向くと、離れたところから大御所夫人がけわしい眼つきをして睨んでいた。
「そちは、いつからそのように和歌の嗜《たしな》みがあったのじゃ?」
美濃守は、額を畳にすりつけたまま急には返事が出来ない。不意に強襲を食らったかたちで言葉に窮した。
「どうじゃ、美濃」
夫人は追及してきた。
「そのほうの和歌の講釈ははじめて聞き及んだが、それほどの素養を誰について積まれたか知りたいものじゃ」
「素養などとは──」
美濃守は口ごもった。彼が衝撃をうけたのは、夫人がはっきりと多喜の方に付いて、彼を攻撃してきたことである。その裏には、無論、お美代の方を嘲《あざけ》ろうとするすさまじい気魄《きはく》があった。
「ただ、手前の感じたるところを申し上げたまでにござります」
「感じたと申せば、それ相応の心得がなくてはなりませぬ。さなくては、大御所様の思召しに、とやかく口出しは出来ぬ筈。妾《わらわ》も後学のためじゃ。そなたの和歌の講釈を聞こうではないか」
夫人は嵩《かさ》にかかってきた。
「なかなか、もちまして」
美濃守の首筋には汗が流れた。
「左様な心得など手前にございましょうや」
「屹《きつ》とそうか?」
「はあ」
「異なことを聞くのう。心得が無いものが、どうして上意を矯《た》めるのじゃ?」
「これはしたり、矯めるなどとは──」
美濃守は色を失った。次第に夫人の言葉の魔術にひっかかって来そうである。
「黙るがよい」
と夫人は叱咤《しつた》した。
「大御所様は多喜の歌が御意に叶っていると仰せられている。それを、その方が、何と申したか、格調が高いの、何が大きいの、といろいろならべて、申しくるめんとしているではないか。心得なき者が左様なことを云い立てるのが奇怪な話。美濃、その方は不忠者じゃな。それとも、何か下心があってか──」
「決して──」
美濃守は平|ぐも《ヽヽ》のようになった。言い訳をすればするほど絡《から》まれてくる。彼は夫人の鋭い眼と語気の前に降参した。
「もうよい」
と家斉が、眩《まぶ》しそうな顔で助け舟を出した。
「美濃とても、他意があってのことではない。そうであろう?」
「は」
美濃守はさらに背を低くした。
「よい、よい。とにかく、これは多喜の勝ちじゃ。美濃、多喜をこれへ呼べ」
家斉の言葉を、美濃守は頭上で遠雷のように聞いた。
夫人が皮肉に嗤《わら》っていた。