多喜の方は、静かに家斉の前に坐った。
面を伏せ、両手をつかえているが、襠《かいどり》の前は妊《みごも》った腹を庇うように合せている。
「多喜か、これへ来い」
家斉は細い眼でさし招いた。多喜は膝を動かして少しすすんだ。
「その方の詠んだ和歌は、さすがに佳《よ》い出来じゃ。見事なものじゃな」
多喜の方は、低い声で、
「恐れ入りましてございます」
と礼を云った。
艶々と結い上げた髪が重たげに見えた。もとより、華奢《きやしや》な身体つきだった。垂れたうなじが熟《う》れ切らぬ果実のように蒼白い。家斉の眼がそれを鑑賞した。
「まず、盃をとらす、これへ」
家斉が盃を出すと、多喜の方は素直ににじり寄った。介添の中臈が、盃を取次ぎ、酒を注ごうとすると、
「真似ごとでよいぞ」
と家斉はこまかい注意を与えた。妊った身体を気づかったのである。
美濃守は、自分の列に戻って、それを眺めた。今ごろはお美代の方がどんなに憤怒《ふんぬ》していることであろう。殊に、こんなこまやかな情景は、いずれ彼女に報告があるに違いない。それを聞いているお美代の方の形相を想うと、怯《お》じ気が出た。
いずれ、その反動は自分に来るかもしれない。美濃守は、家斉の移り気と、夫人のお節介とが恨めしくなった。
そういえば、御台所は、と夫人の方をうかがうと、彼女の顔には先刻の険悪な色は消え、至極なごやかな表情が出ていた。
彼女は、やはり多喜の方が気に入っている。いや、お美代の方への憎さで、多喜の方にひいきしているのだと思った。
(やはり、夫人はお美代の方への対抗に、多喜の方を出した──という女中どもの陰口は嘘ではないな)
美濃守は、夫人の顔色をそっと眺めながら考えていた。
盃は、多喜の方から家斉に返された。
「何か、褒美《ほうび》を遣《つかわ》したいが」
と家斉は、思案していたが、
「まず、その前に」
と多喜の方の短冊を手にとった。
「今日の晴れに、その方の歌を、どこぞよい桜の梢《こずえ》に結ぶがよい。花もよし、歌もよし、それを眺めながらの花見も一段と風流じゃ」
家斉は、自分の思いつきに興じたように、にこにこしていた。
ほかの中臈が起ってその短冊をうけ取ろうとすると、
「いや、これは多喜に結ばせるがよい。多喜が詠んだ歌じゃ」
と当人の方に云った。
多喜の方は、短冊を頂くようにして家斉の前を退った。さすがにうれしそうなのは、その上気して赧《あから》んだ顔でわかった。
夫人がいなければ、家斉も起って彼女と一緒に庭に降りて行くところであろう。しかし、日ごろから勝手なことをしていても、やはり夫人が近くにいては牽制《けんせい》されるものがあるのか、気詰りそうな顔をして坐っている。
薄い雲がひろがって、陽射しがかげりはじめた。満庭の桜には、光の斑《ふ》が出来た。
夫人は桜の方を見て、傍にいる年寄と何か話をしていた。花曇りになったことについて興じているのであろうか。機嫌がよい。
そういえば、夫人はさっきから家斉と少しも言葉を交さない。家斉が入来したときは、さすがに出迎えたが、それも、
「ご機嫌うるわしく」
といった程度で、形式的な云い方だった。
あとは知らぬ顔で自分の場所に坐っていた。滅多に家斉と同席しないのだが、来たら、言葉を交さないことで、家斉に威圧を与えているようにさえ見える。視線は、いつも家斉から離れて、あらぬところに向っていた。
もっとも、さっき美濃守を叱ったのは、家斉大事とその威光を立てるように一応はみえるが、実は目当てはお美代の方への攻撃だった。それが成功し、彼女が晴れの場で敗北したのが心地よくてならぬ風である。美濃守を睨みつけたときとは打って変り、至極柔和な笑いで、一旦退いた多喜の方が庭に現れるのを待っているようだった。
本丸にいる現将軍の家慶は、おとなしいばかりで、万事、家斉に遠慮している。だから、大御所様思召しといって、西丸から本丸に家斉の意向が伝達されると、家慶は至上命令のようにそれに服している。
本丸老中は、水野忠成のあと、水野越前守|忠邦《ただくに》が登用されているが、家斉の眼の黒いうちは怪腕を揮うことは出来なかった。大御所思召しと称しても、その多くはお美代の方の吹き込みが多い。それは誰もが知っているが、抗議出来ないことだった。夫人のお美代の方への憎悪は、そんなところからも来ていた。──
座に、しずかなどよめきが起った。
多喜の方が庭へ姿を現して、桜の方に歩いていた。供も介添もない。たったひとりである。
白綸子の襠《かいどり》を片手でからげ、一方の手には短冊を持っている。自分の詠んだ短冊の上端には、枝に結べるよう銀の撚《よ》り糸をつけていた。
多喜の方は、よき枝ぶりを探すように、花を見上げながら、迷うように歩いていた。一同の坐っている場所から見ると、その臈たけた姿は、花に浮かれた天女か妖精のように映った。
家斉は、うっとりと眺めた。
多喜の方は、よい枝ぶりをと歩いて行く。
花一色の中を、さまよっているあでやかなその姿は、たとえば舞台の上をひとりで踊っている晴れ姿にも見えよう。
それは家斉の居る滝見茶屋からだけではなく、お美代の方の坐っている花壇茶屋からも、八重、るりの方などの居る鳥籠茶屋からも望見されるのだ。
いまや茶屋といわず、奥女中の屯《たむろ》している幔幕の内といわず、多くの眼が、多喜の方の姿一つに集っているのだ。無論、その中には、羨望の眼ばかりはない。嫉妬も、憎悪も複雑にくるまっている。
心ある者が観察したら、お美代の方のいる花壇茶屋のあたりからは、見えざる黒い炎が上っているようにも思われよう。
当日は、「お締り」と称して、日ごろ警固の男どもも一切木戸の外に追い出されている。それでも、この華麗な遊びをのぞこうと、垣の外に声を殺してひしめいているのだ。
その何百人という眼を集めながら、迷うように逍遥していた多喜の方の姿が、ある地点でぴたりと停った。
白い顔は上の梢を見ている。気に入った枝ぶりがあったという様子である。
しかし、その姿には新しい迷いがはじまっていた。彼女の頭と、上の梢の距離があまりに遠いのである。華奢《きやしや》な多喜の方は、背も高い方ではない。
多喜の方は、一旦、諦めて別な梢を探すように見廻していたが、やはりその枝が一番気に入っているとみえて、未練気に、また眼をもとの枝に戻して見上げていた。
瞬間、あたりが、さらにしんとなって静まった。どうするつもりか、との気遣いと興味で息をつめた感じだった。
このとき、ひとりの奥女中が突然、庭に現れた。みなが眼を見はっているうちに、その女中は何か両手に抱えて小走りに、多喜の方に近づいた。多喜の方の傍に来ると、一礼して跼《ひざまず》いて持った物を置いた。
踏台だった。
その女中は、お末の者であろう。若いし、無論、襠もなく、着ている衣裳も美しくはなかった。彼女は踏台を置いたことで任務が済んだように、さっと小走りにもとの方角へ走った。
「機転の利いたお女《ひと》じゃ。すぐに踏台を間に合すなどとはな」
「どこのお部屋の者であろう?」
「さあ、ここからは、よく顔が分らなんだが」
見物の女中どもが云い合った。
多喜の方は、思わぬ助けを借りたという風に、うれしそうに見えた。
だが、誰もが夢にも予想せぬ珍事がそれから起った。
踏台は、長局《ながつぼね》で使うのだから、赤|漆《うるし》で塗って、高さ一尺ばかりのものだ。
多喜の方は、気に入りの梢の下の位置にその踏台をおいた。一応、安定を確めるようにして、しずかにその上に足をかけた。綸子に金糸縫取りの菊模様の襠が、ふわりと台の上に立つ。
皆は眼を見はって凝視していた。
春昼、花下にひとりの臈たけた御殿女中が立って、和歌の短冊を花の枝に結びつけようとしている。──
「とんと、錦絵が生きているようでございますなア」
「いえいえ、多喜の方さまの気品は、倭絵《やまとえ》にたとえた方がよろしゅうございます」
見物の女たちの間には、小さなささやきが漣《さざなみ》のように起っていた。
大御所、夫人をはじめ、西丸奥女中数百人の凝視を集めて、これほどの晴れ姿はないのだ。観ている者の眼には、金銀の砂子が、花と人の上に撒かれているかと思われた。
多喜の方は、枝に手を伸ばし、両の指で短冊の紐を結びつけている。微風に短冊が光って揺れている。
が、揺れたのは短冊だけではなかった。金糸大輪の菊がゆらりと大きく揺れた。
息を呑む間もなかった。多喜の方の身体が妙な傾き方をすると、襠の菊は空に舞って、彼女は踏台を蹴って、地上に転び落ちた。
誰も、すぐには声を上げなかった。突然のことなので、嘘のようにぼんやりしていた。
が、騒ぎは、二、三秒の後に起った。倒れた多喜の方をめがけて、女どもが乱れて走り寄った。
「多喜の方様」
「しっかりなされませ」
口々に叫ぶ声は、多喜の方の倒れた場所に集った輪の中から起った。茶屋や幔幕のかげから走り出てくる女どもで、輪は広がるばかりである。
家斉は、半身を浮かして、脇息をつかんでいる。夫人も顔色を変えていた。
「美濃」
家斉は叫ぶように云った。
「常春院、常春院」
「はっ」
美濃守は、広縁から足袋《たび》のまま庭にとび降りて、走った。こんなことには敏捷だった。
「鎮まれ、御前であるぞ。鎮まるがよい」
彼は騒いでいる女どもを先ず叱った。それから前に出て、多喜の方を見ると、仆《たお》れた彼女は、身動き出来ないで横たわっている。血の気のない顔は、眼をむいたまま悶絶《もんぜつ》していた。
美濃守は、心の中で思わず笑いが出た。
その日の夕刻、奥医師中川常春院が長局から退出してくるのを、水野美濃守はお広敷で待ちうけた。
「常春院殿、多喜の方様のご容体は如何ですな?」
顔には心配そうな表情を出しているが、眼つきは偵察である。
「されば」
と常春院は正直に心配そうな顔をみせた。
「ここしばらくが大事でございますな。手前も今夜からほかの医師三名と、ずっと宿直《とのい》いたす所存です」
「ほう。それほど悪いか?」
美濃守は眼を思わず大きくした。
「いや、今のところ、お生命には別条ございませんが、なにしろ、お身重《みおも》なお身体を転倒なされましたでな」
「と、申されると?」
「お気の毒ながら、ご流産でございます」
「ふーむ」
美濃守は声を呑んだが、心では光明のようなものが、瞬間に射した。
「いや、まことに悪い時にお転びなされたものでございます」
医師は美濃守に見舞を云うように頭を下げた。
「それで、常春院殿。多喜の方様のお身体には心配はございますまいな?」
「いやいや、それがまるきり楽観もいたされませぬ。何しろ、あのように華奢なお身体つき故、このまま出血が多量なれば油断がなりませぬ。それで心痛いたしている次第です」
常春院は、実際に心配そうに眉をひそめた。
「で、ただ今のご容体は?」
「お気はつかれましたが、激しい下腹の痛みで先刻まで苦しんでおられました。ただ今、煎薬《せんやく》を召し上ってから少々は落ちつかれた様子です。けれども、貧血のために、お顔色が悪く、意識もはっきりせず、お脈もよろしくございません。今夜か、明朝あたり、ご容体が急変せねばよいが、それのみを案じております。……美濃守様。今日のお花見がとんだことになりましたなア」
「まことに」
と美濃守は相槌《あいづち》を打った。
「災難はいつ突発して来るか分りません。それでは、常春院殿、大御所様も大そうお気遣いゆえ、お手当はくれぐれもよろしく」
常春院と別れて美濃守は考えた。
まことに一寸先は闇だ。花下に立って、満座の注視の中に胡蝶のような晴れ姿を見せて誇っていた多喜の方が、一瞬に転落して、この大事になろうとは!
(待てよ)
美濃守は、或ることに気づいて、眼がぎょっとなった。
騒ぎの直後、あの踏台が無かったことに気づいたのである。
美濃守は考え込んだ。
多喜の方が不意に踏台から仆れたとき、女中どもが大勢でかけよった。みんな仰天して、多喜の方の介抱に一生懸命であった。そこへ、医者を呼ぶ。多喜の方をみなで抱えて長局のお部屋へ運ぶ。しばらくは蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
そのあと、花見の行事はつづけられたが、大御所も、夫人も、早々に西丸にお帰りになって、大そう白けた花の宴となった。つまりは、あの思わぬ一事で滅茶滅茶になったのだ。
それは、まあいいが──あの騒動の直後に踏台が其処にあったような記憶がない。そのときは、さすがの美濃守も多喜の方に気をとられて、踏台に注意しなかったが、残っていたら当然に眼に入った筈なのだ。
(見えなかったのは?)
誰かが片づけたのか、とにかく、踏台は無かったことになる。
踏台はなかった!
そのことの重大さに美濃守は思い当った。無いのは誰かが持ち去ったのだ。何故か。人に見られてはいけないものが、踏台に細工されていたのではなかろうか。
今までは、多喜の方の足が踏台から辷《すべ》ったか、或は踏台の安定が悪くて傾いたかと思い込んでいたのだが、そんな自然の現象でなく、もし、踏台そのものに人為的な工作がなされていたら──
(そうだ、そうなると、人目に触れてはいけないから、誰かがすぐに運び去った)
誰か──なにしろ、あの場所には女どもが、わっと寄って来て、しかも、後から後から人数がふえて、ひどい混乱だったから見当がつかない。また、それだから気づかれずに持ち去られたのだが。
すると、美濃守の眼にはあの不意の出来事が決して不意ではなく、ちゃんと何びとかによって計算された一幕のように映った。
そう思うと、あの場合、踏台を早速に間に合せた女が不思議である。
一体、花見となると、女どもは、追羽根、凧《たこ》上げなどして遊ぶから、とかく木に縺《もつ》れやすい羽根をとったり、糸をはずしたりするため、踏台はかねて近くの場所に用意してある。あの女中は機転を利かしてそれを持って来たものとばかり思っていたが、
(もしや、その女中が)
という疑惑が美濃守に湧いた。
一体、あの女中は何者か、どこの部屋の女か。
美濃守は、奥女中総取締の年寄に会って、その身許を知ろうと思い立った。
「お坊主」
と彼は使いを呼んだ。
御広敷に待っている美濃守の前に出て来たのは年寄|樅山《もみやま》であった。
「これは美濃守様、今日のお花見はとんだことでございましたなア」
樅山は美濃守が花見の準備に骨折ったことを知っているので、気の毒そうに云った。
「まことに思わぬことが出来《しゆつたい》しました。折角のお女中衆のお楽しみが散々でしたな」
美濃守は云った。
「女中どもの楽しみも、さることながら、一番お気の毒なのは多喜の方様、わたくしもあの晴れ姿が瞬《またた》き一つの間に、ご不運なことになろうとは、今でも夢のようでございます。多喜の方様のお部屋は、大そうな騒動でございます」
「手前もお見舞申し上げなければなりませぬが、なにしろ男子は出入りが叶《かな》わぬ所、よそながらお気遣いしております」
「美濃守様」
と樅山はうすい眉をひそめた。
「勿体ないことながら、多喜の方様はお腹様を失われたそうにございますな。ちょっとしたはずみが何とも申し上げようもないことになりました。お上《かみ》にもご落胆でございましょう」
樅山は普通に云っているが、大御所が落胆しているだろう、というのは、もっと深い意味の拡がりがある、と美濃守は思った。
お中臈でも、お腹を生むと生まぬとでは勢力に大そうな違いがあった。多喜の方が仆れて流産したのはそれだけ将来の勢いを削《そ》がれたことになるのだ。競争相手にとっては、何よりの喜びの筈だ。
のみならず、身体を打って流産したとなると、どうしてもその無理が容色に響く。大御所の失望は、単に己の子を失ったというだけでなく、当人の花の色香の褪《あ》せようにも向うのではないか。殊に、病身となれば、家斉の寵愛もしばらくは遠のくことになる。誰かが、すかさず、その空隙を狙えばよい。いや、もう、それは始まっているかもしれない。
踏台一つが転がったことで、えらい成行になった。しかも、もしその踏台に何かの仕かけがあったとすると──?
「ところで樅山どの。今日、多喜の方様に踏台を差し上げたのは、何という名のお女中でしょうな? あなたに訊ねると、分ると思いましたが」
美濃守は、ようやく彼女を呼んだ用事にふれた。すると樅山は彼の顔をじっと見て、
「美濃守さまには、何ぞ、そのことでご不審でも?」
と云ったので、彼は、
「いやいや、機転の利いたお女中ゆえに、ちょっと伺いたくなりました」
と澄まして云った。
「その機転の利きようが、思わぬ災いとなりましたな」
と樅山は何も知らぬげに云った。
「多喜の方様に踏台をさし上げねば、あのようなことにはなりませなんだものを」
「まことに、人間、どこに災難があるか分りませぬ」
と美濃守は、さりげなく相槌を打っておいて、相手に余計な警戒心を起させぬようにして、
「それで、あの女中は何と申しますな?」
ときいた。
「はい、登美《とみ》と申します。お末の者です」
「登美……ですな?」
「はい、今年十九、去年よりご奉公に上りました」
樅山は答えた。
お末というのは、お目見得以下の身分の低い奥女中で、風呂、膳所の水汲みなど、すべて水仕《みずし》の業《わざ》をとったり、御台所やお代参の高級女中のお供をしたりする。時には、諸国の簾中が登城して大奥の御台所に拝謁のときには、お座敷からお三の間までの乗物をかつぎ入れるなど、陸尺《ろくしやく》の役目もつとめた。だから日ごろから駕籠をかく稽古もしたものだ。要するに、そんな雑用をつとめる女中である。
「それで、その登美の請《う》け親は、どなたでございますか?」
美濃守は、訊いた。
「これは、美濃守さまのご念の入ったこと」
と樅山は笑った。
「お旗本、島田又左衛門殿でございます」
奥に奉公する女中は、それぞれ保証人として請け親をこしらえなければならない。登美の請け親は島田又左衛門なる旗本というが、美濃守には未知の名であった。
「ところで、美濃守さま」
と樅山は彼の顔を見て云った。
「登美のことを訊かれましたのは、あなたさまがお初めてではございませんよ」
「ほう、どなたが?」
「お美代の方様、お申しつけで、さる方より訊かれました」
「なに、お美代の方様に!」
美濃守は眼をむいた。
「して、登美は、ただ今、どうして居りますか?」
「登美は、お末の部屋には、もう居りませぬ」
「なに?」
「先刻より、お美代の方様のお声がかりで、中年寄菊川殿のお部屋附となりました」
美濃守は、その早業に、あっと思った。
菊川はお美代の方の気に入りである。多喜の方を転倒させた登美を、お美代の方は早速に庇《かば》うように引き取ったのだ。
家斉が、多喜の方の見舞に出向くという通告があったので、部屋に詰め合せた医者も女中たちもお成りを待ちうけていた。
多喜の方は、北の御部屋に寝かされていた。
この部屋は、御産所であって、御台所でも中臈でも懐妊五カ月目にはこの部屋に住み換えるのだ。
御台所も、側妾も、同じ部屋でお産をするというのは奇態のようだが、上様のお胤《たね》を宿した上は、中臈といえども正夫人と同格であるという理由からだ。
多喜の方は、まだ懐妊して四月であったが、不時の流産で、その手当のため、この部屋に収容したらしい。部屋の周囲には、いくつもの間がとり巻き、医師や見舞人の詰めるところ、次の間には産婦づきの女中の控えや、用具などが置いてある。
家斉は、年寄の先導で、北の部屋に入った。
居合す一同は平伏してお迎えする。病室にくると、年寄は敷居際でうずくまった。
純白の綸子の蒲団の中に多喜の方は横たわっていた。髪は解かれて、枕の上に流れている。家斉は、つかつかとその方に歩いた。
上からさし覗くと、多喜の方は眼を閉じていた。家斉が、ぎょっとしたことには、その眼のふちがくろずんで、隈どられている。
「ただ今、お睡《やす》みになっておられます」
横で、お医師常春院が申し上げる。
しかし、家斉が見ていると、それは睡っているというような平和な状態ではなかった。紙のように白い色をし、呼吸もせわしそうである。鼻梁も、頬も、蒼いかげがついて面貌を険しく見せている。睡っているとしても、極めて不自然な状態だった。
「容体は?」
家斉が、匍いつくばっている常春院に訊いた。
「は。ただ今のところ、お大切と存じます」
常春院は、額を畳にすりつけて云った。
「そうか」
家斉は、もう一度、多喜の方の顔に見入った。化粧も剥がれて、こうして蒼い顔でいると、眼の下のうすい雀斑《そばかす》も目立ったりして、顔の各部分の欠点がさらけ出されていた。
「大事にするように」
家斉は、そう云い捨てると、畳を踏んで、もとの方角へ引返した。一分間もそこには居なかった。
家斉は索然とした気持になっていた。何か裏切られたような心と似ていた。廊下を歩きながら、あれではもう用に立つまいと思っていた。
年寄を呼ぶと、
「美代に、今夜、参るように申せ」
と云いつけた。
家斉は、久し振りだから彼女から厭味を聞くだろう、とひとりで苦笑した。
家斉は、夜に入って、御小座敷に向った。
この御小座敷に行くまでの道中が、かなり長い。御座《ござ》の間と称する自分の居間を出て、南の廊下を次の間の前でつき当り、南に曲って、お鈴廊下を歩む。この廊下が十八間もある。
大御所の前には、お坊主といわれる頭をまるめた女が、燭をささげて立ち、後には女中が随う。すでに大御所が御小座敷お成りのことは通告してあるが、いよいよ出向くときには、お鈴番が廊下の鈴を鳴らす。その音色が、しんと静まったあたりに響いた。
十八間の廊下の突き当りが、一構えの御小座敷で、これは大奥の西南隅に当っていた。その模様は、「十二畳敷にて高麗縁《こうらいべり》なり。西の床は間口九尺、奥行三尺にて板畳を敷く。床柱は檜の糸柾《いとまさ》、違棚は欅《けやき》のタメ塗り、上の袋戸棚の襖《ふすま》は縁《ふち》黒、雨中漁舟の墨絵を描きたる下は、極彩色に海棠《かいどう》に雀なり。南東北に建て廻したる襖は、六玉川《むたまがわ》を極彩色にて描き、天井及小壁は地白に銀泥の菊唐草形なり」とある通りである。
つまり、このような部屋で大御所はお手つきの中臈と夜を語り合うのである。
すでに、入口には、お美代の方が、総白|無垢《むく》の衣服に、髪を櫛巻きにして、大御所をお迎えしていた。傍には、年寄と御用の中臈が控えている。
(美代と会うのも、久しいな)
と家斉は、ちらりと美代を見て、床を背にして坐った。
お美代の方が、見上げて、
「ご機嫌うるわしく、祝着に存じます」
と云った。眼のふちに衰えはあるが、充分に美貌の冴えは残っていた。また、灯影で見る彼女の表情には、うれしさがこみ上げているように見える。
家斉は、多喜もよかったが、この女の好さを改めて認識する思いだった。
「美代、そちと語り合うのも、しばらくぶりだな」
家斉は眼に皺をよせて笑った。
「まことに」
と美代は、唇を綻《ほころ》ばせた。
「お気に入りの、どなたさまかとばかり夢中におなり遊ばして、美代には、もはや、御用のないことと諦めておりました」
家斉は、返事をしないで、眩《まぶ》しい笑いを洩らした。
(妬《や》くと、女の眼は、やはり異ってくるな。うるんだ色になる。頬にまで艶が出てくるものか)
と思いながら、手でさし招いて、
「美代、これへ来い」
と云った。
年寄、お三の間などのお附の女中が、黙ってお辞儀をして退いた。
上段の間には緞子《どんす》の夜具が二つならべられ、障子の外に置いた真鍮製四つ足の行灯《あんどん》の淡い灯影に、眼のさめるような色彩が映し出されている。
たとえ中臈でも、大御所の御寝に御用の女は御台所と同じ待遇で、夜具すべて正夫人なみであった。
家斉が常服を脱ぎ捨て、鼠羽二重の無垢に、白羽二重の襦袢を着ると、美代が手伝って、柔かい緞子の帯を二重廻しに前で結んでやる。お添番のお清《きよ》の中臈が、脱ぎ捨てた家斉の衣服をたたみ、黒塗り金紋の御召台の上に重ねて東の方へ置く。その上から紫|縮緬《ちりめん》の袱紗《ふくさ》をかけた。
年寄も、お附の女中も去ったが、このお清の中臈だけは残っている。お清というのは上様のお手がついていない中臈の名で、一晩中、同じ部屋に臥《ふ》すのである。
鴛鴦《えんおう》の秘めごとに他人が傍に寝ているというのは奇怪なことだが、添番の中臈は実際に上様の睦言《むつごと》の逐一を、背中を向けて聞いているのである。一晩中、寝もやらず、全身を耳にして聴くと、翌朝、これを別室に当直している年寄に、
「昨夜は、格別のおうち融けにて、かくかくのお戯れがありました。また、御用の御中臈よりは、これこれのお話を申し上げました」
などと、詳細を報告しなければならない。
この奇妙な風習は、添寝の中臈が寵愛に甘えて、上様に慮外なおねだりをすることを封じたのである。すべて男というものは、このような場合、前後の分別も思慮もなく、女の囁きに溺れて、どのような願いごとでも訳もなく、うなずき勝ちであるから、傍に添番して掣肘《せいちゆう》しようというのだ。
ついでに書くと、これは五代綱吉のとき、柳沢|吉保《よしやす》が己の通じた女を将軍に献じ、宵の御寵愛の折に百万石のお墨付を頂かんものと図って以来、この制度となったという。
──雨中漁舟の墨絵も、海棠に雀、さては六玉川の極彩色など四周の襖絵は、朧夜の月影のような淡い照明に沈んで、時々は家斉の咳《しわぶき》と、枕元に置いた蒔絵の煙草盆に金無垢の煙管《きせる》を叩く音がしていたが……
傍に臥している因果な添番のお中臈の耳には、背中の大御所とお美代の方のささめきがいやでも耳にきこえた。いや、これを聴き取るのも役目である。
「……美代、そのほう、少し肥えたようじゃな」
「いいえ、痩せております。肥える道理がございませぬ」
「そうかな、わしには、少し顔が肥えて、若くなったように見えるが」
「上様のお口のお上手なこと。それにご覧あそばせ。痩せたのが肥えたとお眼にうつるほど、上様は、美代を永いことお呼び下さっておりませぬ。美代はこの世をはかなんでおりました……」
添番のお中臈が背中で聞いている家斉とお美代の方のささめ言は、まだつづく。
「いやいや、それは、そなたのひがみじゃ」
と家斉の声はやさしかった。
「何でそなたのことを忘れていよう、やはり、わしにとって第一に可愛い女じゃ」
「いえいえ、そのお言葉には、すぐには乗れませぬ。それなら多喜様へのご寵愛は何とお申し開き遊ばす?」
美代の声は甘えた抗議をした。
「仔細《しさい》もない。あれは一時の気まぐれじゃ。やはり、そなたがわしの心を捉えている」
「お口ばかり」
「これよ、よう聞け。総じて男には、これと定めた可愛い女はひとりじゃ。また、その女は心を打ち込んできてくれている。たとえば、そなたのような」
「あれお憎らしい」
「男は、それで、安心している。だがな、安心しているから、ときには移り気も出る。そこが男じゃ、一つのところにはやはりじっとしておれぬ」
「それごらん遊ばせ」
「まあ待て。それは一時だけのこと。飽くのは当り前じゃ。云うてみれば、少々そこらを歩いてみたが、初めから戻るところは元の場所と決めている。だから、こうして、そなたのところに戻って参った」
「あれ、何やら云いくるめられそうな」
「ごまかすのではない、これがわしの本心じゃ」
「そのようなお気持は、美代は嫌いでございます」
「はて」
「美代はやはり大御所様のご寵愛をたった一人で戴きとう存じます。数あるほかのご中臈方はまだ眼をつぶりますが、あのお方だけは我慢がなりませぬ。美代は泣いておりました」
「多喜のことかな?」
「はい」
「もう申すでない。多喜のところへはもう行かぬ。あれは、もう駄目じゃ」
「何と仰せられます?」
「もう役には立つまい。身重で転んだのが不仕合せじゃが……」
「ほんに、お気の毒な」
「今もあれの顔をのぞいて来たが、血の色はなく、日ごろのとりつくろいが、みな剥《は》げて見られたものではない。わしはだまされていたような気がした」
「いまに美代もそのような」
「これ、そなたには変らぬと申すに……」
──突然、お廊下の鈴が鳴り出して、このむつ言を妨げた。
大御所が御小座敷に入ったら誰も寄りつけないが、緊急不時の場合だけ、お鈴を鳴らして入ることが宥《ゆる》されるのだ。
お鈴廊下を踏んでくる慌《あわただ》しい足音が聞えた。
廊下の鈴が鳴り渡ったときから、添番の中臈は起き上った。
一旦、御小座敷に入った家斉に、不時に会いに来るのはよほどの重大事に違いなかった。鈴の音を聞いて、次の間に宿直《とのい》をしている年寄も出て来た。
美代も起きる。家斉も褥から身体を起した。
廊下に聞えた急ぎ足は、御小座敷の入口で停った。
「申し上げます」
という女の声も、慄えを帯びていた。
年寄が、そこまで出て行った。襖際に坐ると、
「何じゃ?」
と訊いた。
「はい、多喜の方様がただ今、ご危篤になられました」
襖の向うで声が答えた。
「なに、多喜の方様が!」
年寄がびっくりした。
家斉が聞いて、あっ、というような顔をした。それに、年寄が進んで来て、
「多喜の方様、ご危篤の由を知らせて参りました」
と取り次ぐ。この声も慄えていた。
家斉は、黙ってうなずいた。しかし、すぐ行くとも行かぬとも云わぬ。黙って考えていたが、
「煙管を」
と美代に云った。
「まあ、ご悠長な」
美代が非難するような眼をして、
「お早く、お出ましを」
と云った。が、彼女の声だけは慄えていなかった。
「多喜様、ご危篤なれば一刻も早うお見舞に渡られますよう」
「うむ」
家斉は、美代に火をつけてもらった煙管を手にして一服した。
「恐れながら、知らせの者には?」
と年寄が伺ったが、家斉は、うむ、と口の中で云って、煮え切らなかった。
年寄は、それを見て、襖際に戻って行き、
「言上いたしました。左様伝えるように」
と云うと、廊下を帰って行く足音が遠ざかった。
「上様」
美代が云った。
「ほかの場合ではございませぬ。何卒、一刻も早う多喜様のお傍にお越し遊ばしませ。美代へのご遠慮はご無用に。いろいろ申し上げましたが、上様の思召しを承り、美代は安心しておりますほどに」
「それでは、ちょっと見舞ってやるか」
「はい。お帰りをお待ち申して居ります」
と云った美代の顔には、勝利者の表情が晴れ晴れと出ていた。
家斉は着更えると、廊下を少し急いで歩いた。
北の間近くまで行くと、騒動の模様が響いてくるように分る。女の泣き声まで交っているようだ。
つかつかと枕元まで行くと、みんな慌しく平伏していたが、年寄の一人が、
「多喜の方様、お命が……」
と身体を起し、伸び上るようにして云った。
法印常春院はじめ四人の医師が、多喜の枕元を蔽うようにして集まり、うなだれていたが、家斉が来たので少し退った。
常春院だけが脈をとっている。
家斉が、年寄の運んできた厚い座蒲団の上に坐り、多喜の顔をのぞきこんだ。
一目見て、これはいけない、と思った。
眼は相変らず閉じたままだが、蝋のような顔は、眼のふち、鼻の下などに黒ずんだ色が濃くなって、死相が出ている。鼻翼《こばな》だけがせわしげに動いて、浅い息を吐いていた。
「常春院、どうじゃ?」
脈を診ていた常春院が、そのまま身体を折るように平伏して、低い声で、
「恐れながら、もはや、ご恢復のお見込みは……」
「駄目か?」
医師は黙って、さらに頭を下げた。
家斉も、多喜の顔を見ているうちに不愍《ふびん》を催してきて、
「多喜、多喜」
と連呼した。
常春院が、傍から云った。
「恐れながら、お耳には達しませぬ」
意識不明で、このまま死ぬのか、と家斉は思った。
「どれくらい保《も》つかな?」
「まず……明朝、明け方までと存じまする」
家斉は、そんなに早く死ぬのか、と思った。人間の生命ほど脆《もろ》いものはない。この若さで可哀想な。たった今日の昼には花見などして短冊をもって桜の下を歩いていたが。──
(身重な身体で転んだのが生命とりだったか。どこを打ったか知れないが、流産とは恐ろしいものだ。そうしてみると、男というものは気楽なもんだな)
そんなことを思っていたが、意識の無い病人の枕元に坐っても、話が出来る訳ではなし、手持無沙汰なものだった。
家斉は、そろそろ退屈してきた。美代が待っていて、あまり時間がかかると、また厭味を云われそうだった。
(可哀想だが、仕方がない)
家斉は、起ち上る前に多喜の顔をじっと見た。
(今生の別れかも知れないな)
と思い、手で乱れた多喜の髪を撫でてやった。
多喜附の女中たちが耐えかねて、袂《たもと》を噛んで泣き出した。
多喜の方は死んだ。
大奥では、しばらくはその話でもち切りである。女中どもは長局で寄ると触ると、互に顔を寄せ合って、ひそひそと話を交す。
「おきれいで、お若いのに、お気の毒な」
というのは、死者に対しての一致した同情だが、
「これで、お美代の方様も、ほっとご安堵でございましょうな」
と、こっそり囁き合った。
「そういえば、大御所様には昨夜も、お美代の方さまを御小座敷にお召しになりました」
「まあ、昨夜も。それでは二晩つづけてでございますなア」
「大御所様も、現金な。あれほど多喜の方様ばかりご寵愛でございましたが、手のひらをかえしたようにお美代の方様にお傾きでございます。お美代の方様の御部屋は、まるで春が帰って来たようでございます」
「死んだ者が損でございますなア」
「大御所様もちとお薄情に存じます。これでは多喜の方様も浮ばれますまい」
「なにせ、あの花見の時の踏台がご懐妊の多喜の方様の命とり、お美代の方様の福の神でございました。聞けば、あの踏台をさし出したお末の者は、菊川様のお部屋附となり、お美代の方様に大そうお目をかけられているとか……」
「それは、そのくらいのことはあってよいはず。お美代の方様にとっては恩人でございます。いわば、憎い多喜の方様を殺してくれたも同然……」
「あれ、お声が高うございます。滅多なことを口に出されますな」
女中達の間でも、多喜の方の死は、お美代の方を立直らせ、今までの勢力を安泰にさせたことになる。それで、誰が考えても、結果的にはそのお末の女中が、美代のために多喜を殺したようにとれる。
しかし、その登美というお末の女中は、美代の勢力下の女ではない。その影響の中に入らぬくらいの下級女中だった。だから、美代のためを図って、多喜を転倒させたとは誰も思っていない。
あれは、やはり不運な偶然のなせる出来事だった──と思われている。
だが、その直後に、お美代の方が、気に入りの菊川へ登美を預けたのは、その偶然の功を感じたからであろうが、一つは夫人側の憎しみから守ってやったのであろう。
だが、登美という女に、何となく不安な予感を感じる男がいた。
水野美濃守忠篤だ。
美濃守は、登美の請け親である「島田又左衛門」なる旗本を、武鑑《ぶかん》をとりよせて、調べてみた。