美濃守は、お坊主が御用部屋から持って来た旗本武鑑を披《ひら》いてみた。丹念に見て行ったけれど、登美の請け親である島田又左衛門と称する名は、役附のどこにも無かった。
彼は前年の分を取り寄せて見て探した。これにも載っていない。
彼は、その前の、その前のと、とり寄せさせた。武鑑は彼の膝のところに五、六冊積まれた。
すると、七冊目にやっと、
「御廊下|番頭《ばんがしら》 七百石 島田又左衛門。やしき あさぶいいくら片丁」
という文字が、ぎっしり詰った名前の中から出てきた。
(御廊下番頭だったのか)
さして軽い役ではない。旗本は千石以上を大身《たいしん》と呼ぶくらいだから、七百石なれば低い家柄でもない。
しかし、この武鑑によれば、六年前にお役を退いているから、現在は無役の小普請《こぶしん》組に編入されているのであろう。
美濃守は、しばらく考えていたが、どうも落ちつかない。彼は人さし指を栞《しおり》がわりにして挾んで持ち、表の祐筆部屋に行った。
「これなる島田又左衛門という人物を知っているか?」
祐筆は老人だったが、筆を休めて机の前から首を上げた。
「島田……」
と眼鏡の奥からじっと見て、
「ああ、それは」
と云った。この老祐筆は何十年とこの机に坐ってきた表役所の生字引であった。
「覚えているか?」
「はあ。そのご仁なら、六年前の秋に、お役をご免になりました」
「何ぞ、落度でも?」
「いえ、ご病気引籠りのため、その願い書を出されたのでございます。たしかに、それを書類の上で覚えておりまする」
よく覚えているだろう、と云いたげに老人の顔は自慢げであった。
美濃守は、そこからわが居間にかえった。島田又左衛門という七百石の御廊下番頭が、六年前に病気のためにお役を辞した。
それだけでは何でもない。よくある平凡な事実である。
(しかし……)
しかし、何となく気にかかるのは、その男が登美という奥女中の請け親だということである。──美濃守は眼を閉じた。
多喜の方を転倒させて、その偶然の功名が喜ばれて、登美がお美代の方に拾われた。どうも登美は機転が利きすぎるようである。機転が利きすぎるから、美濃守は彼女の請け親に関心をもったのだ。
それにしても、美濃守は一度その登美という女を見たいと思った。
聞けば、登美は、お末から拾われて、お三の間に出世したという。すべてはお美代の方の指図から出ているのだ。
菊川に話して、登美を見せて欲しい、といえば訳はないが、それには然るべき口実が立たぬ。まだ彼の考えは胸中だけのものだ。
それに、長局の女中が何の役目もなしに、大奥事務局ともいうべき御広敷に出てくる訳もない。大奥から此処に来る資格の女は、年寄を除けば、表使いくらいなものである。
「はてな」
と腕をくんで美濃守は、突然、眼をあけるとわが膝を打った。
「そうだ」
思わず微笑が浮んだ。大そういい知恵が浮んだ時の笑いだが、この表情には妙に複雑なものがまじっていた。
彼は奥御用人を呼んだ。
御用人は御広敷役人中の筆頭である。
「つかぬことを頼みたいが」
美濃守は云い出した。
「ははあ、何でしょう?」
御用人は側衆の美濃守にそう云われたので見当のつかない顔をした。
「長局のお見廻りは、今日はその番に当っているかな?」
「お見廻り? ご老中のですか?」
「いや、お留守居役のだ」
御用人は考えるような眼をしていたが、
「たしか、今日がその当番だと思いましたが」
「そうか」
美濃守は、少しためらうようにしていたが、
「どうじゃな、これは今日限りのことだが、某《それがし》を見廻りの中に加えてくれぬか?」
と云ったので、御用人がびっくりした眼をした。
大奥の長局は、女中の住居だが、三日に一度は留守居の見廻りがある。このほか、月に一度の老中の見廻りがあるが、これは長局までは行かない。留守居の時は七ツ(午後四時)を合図として、女人だけの世界を点検して廻るのである。
この留守居というのは、御広敷役人が退出したあと大奥の火の取締り一切を監督する役で、たいてい枯木のように古くなった老人が当っていた。女が見ても、男とは感じない年寄りなのである。
その見廻りの随行を美濃守が申し出たので、御用人も愕《おどろ》いたのだ。随分、変った志願をする人だと思って、眼をまるくしたのだ。
「いやいや、これには、ちょっと存じよりのあることで」
と美濃守も、さすがに少し赧《あか》くなって云った。
七ツの太鼓を合図にして、留守居役の見廻りは始まった。
案内の添番が先に立つ。これは奥役人の下役だ。次が表使いの奥女中、次が留守居役で、臨時の美濃守はその後についた。最後に御使番の女中が随った。
西丸大奥は、本丸よりやや規模が小さいが、それでも大御所の座所、夫人の御座敷、対面所、清の間、御小座敷、客座敷、新座敷、呉服の間、奥膳所、御広座敷、御使座敷、化粧の間、仏間など十数の間数があり、一番南の端に四棟から成る長局がある。
これらの間を廊下が縦横に走っているから、慣れない者が入ったら、まるで迷路に踏み込んだようである。
「お廻りでござる。お廻りでござる」
と添番が、時々、声をかけながら歩く。
老中と違い、留守居の見廻りは常時のことだから簡略で、別に中年寄、御客|会釈《あしらい》などが御錠口に迎えることもない。奥女中たちも常のままにしていればよいのだ。
夏などは、女中どもが老人の留守居を莫迦《ばか》にして、湯殿の戸口を開けたまま浴《ゆあ》みして揶揄《やゆ》したくらいである。
しかし、今夜は違う。
留守居のあとに、美男として聞えた御側衆、水野美濃守忠篤が従っていることが分ると、女中たちも意外な目つきをして畏っている。美濃守は女中どもに人気のある一人だ。
各部屋を一通り見廻って、いよいよ四百人からの女中どもの私室である長局に一行は向った。
奥御殿とこの長局とは六十間の長廊下でつないでいる。長い。まるで家の中を旅しているみたいである。
七ツを過ぎると、陽の加減も傾いて、お廊下は暗くなりかかっている。
「お見廻りでござる」
添番は、ようやく長局に達して声を上げた。
長局は四棟で、一の側から四の側まで、これまた四十間の長廊下でつないでいる。一棟には数十の部屋があり、年寄、上臈、中臈、中年寄などは一人ずつ部屋を貰うが、あとの女中は三人か五人の相部屋である。部屋の表には、名を記した紙が貼ってある。
留守居の老人は、廊下をゆっくり歩いたり、ちょっと停ったりして、各部屋を見廻っている。部屋の中では、女中どもが、御用から解放されて、しゃべり合っているのもあれば、菓子など食べているところもあり、さいころなどして遊んでいるところもある。日ごろ、さして気にとめぬ留守居役の見廻りの中に、今日は美濃守の姿を見て、あわてていた。
美濃守の眼が、或る部屋の入口の貼紙をみて、足をとめた。
美濃守の眼には、貼紙三人の名前の端に、
「登美」
という字が入った。
美濃守の足がとまったものだから、先に行きかけた留守居役が不審気に戻って、
「何かありましたか?」
と寄った。
「されば、これなる登美と申す女を、見たいものだが」
美濃守は低い声で云った。
「見たい、と仰せられると?」
「いやいや、ちと存じよりがあってな」
と彼は少しあわてて、
「別段、仔細《しさい》あってのことではない。それとなく当人を見たいまでじゃ。ついては、お手前から、登美という女に何か話しかけて貰えないか。この部屋に三人もいれば、どれが当人やら分らぬでな」
「ははあ」
留守居は半分納得が出来ないままにうなずいた。
「では、何となくものを申せばよろしいので?」
左様、と美濃守は応《こた》えた。この間にも、部屋の中では廊下に立ち止った見廻りに気づき、三人の女中が坐ったまま会釈していた。
留守居はその方に顔を向け、
「登美と申すのは?」
と云うと、
「はい」
と端に坐った女が手をつかえて顔を上げた。
美濃守は、留守居のうしろからじっと見た。その女は、まだ十九ときいているが、細い面《おも》をした稚《おさな》げの残っている顔であった。が、黒い瞳《め》が大きく開いてきりっとした感じをうけた。
「その方が登美か?」
「はい」
声にも気丈なものを感じさせた。
留守居はそれ以上に云うことがないから、
「その方、お三の間に上のぼったそうな。新参なれば、万事、先役に見習って粗忽なきよう務めるがよい」
とお茶を濁した。
「はい。ありがとう存じます」
登美は頭を下げた。
留守居役は美濃守を顧《かえり》みた。このくらいでよろしいか、という意味である。美濃守は眼でうなずいた。
(あれが登美という女か。若いが、確《しつか》りもののようだ。よし、覚えておこう)
美濃守が歩き出すと、留守居役の老人がささやいた。
「美濃守様。あれなる女に、何ぞ大御所様のお思召しがかかりましたかな?」
苦笑して美濃守は首を振ったが、そう云われてみると、なるほど登美という女は美しい顔をしているな、と思い当った。
一つの城郭のような大奥のことだから、夜に入ると森閑として陰気な静寂があたりに籠る。昼間の女たちのざわめきとは打って変るのである。すべての声はひそみ、屋台が大きいだけに底に引き入られるような気味悪い暗黒な寂寥が支配するのである。
だから、よくあることで、怪しげな話がよく伝わるのである。
綱吉のときであったか、夜半、あたりが静まった丑《うし》の刻(午前二時)、御座の間の庭外で何十人と集った声で、流行謡《はやりうた》を唄う声が聞えた。綱吉が、誰か見届けて参れ、といったので、近侍が弓矢をおっ取り、雨戸を開け放って見渡すと、築山の繁る木の下蔭で、狐狸が多く群がって唄っていたという。
あるいは、やはり夜中に、どんと大砲《おおづつ》を打ったような響きが聞える。調べてみると、誰の耳にも入っているが、その聞えた方角が定まらなかったという。
あるいは、夜、長局の部屋の戸を叩いて、「おたのみします」という声がしたので、はい、と答えて出てみると、何者の影もなかったという。
あるいは、女中たちが用所(不浄)に入るとき、突然、黒髪を撫でるように切られるので、この用便所に入る前に、
「髪切りや姿を見せよ神国のおそれをしらば早く立ち去れ」
と三べんくり返して唱えると何ごともないという。
これらの怪異は、すべて紅葉山や吹上に棲む狐狸の仕業と思われていた。実際に、夜中にお廊下を遊んでいる狸を見た者も少くはなかった。
江戸城の庭はそれほど木立が深く、まだ武蔵野の名残りをとどめた深い繁みが少くはなかったのである。
しかし、そうと分っても、気持が悪い。わけて、寝静まった夜半の見廻りは、当番の女中にとってかなり度胸の要《い》ることだった。
火の番の女中は、宵の戌《いぬ》の刻(午後八時)からはじまり、一|刻《とき》おきに、暁方の寅《とら》の刻(午前四時)まで廊下を見廻って歩く。湯殿、台所を検《あらた》め、火消壺の蓋までとって見るのである。手ぼんぼり一つをもって、真暗な、深海のような大奥を巡回するのだから、気の強い、度胸の要る仕事である。
その晩も、お蝶という火の番が、丑の刻、詰所を出て巡回をはじめた。
一の側から四の側までの長廊下、それぞれ四十間を往復するのである。無論、どこの部屋にも灯かげはない。闇が、天井からも、横の杉戸からも、足もとの廊下にも起ち上って彼女を圧迫していた。
「お火の元、お火の元」
お蝶は、そう触れながら、二の側から一の側への曲り廊下に来た。
お蝶が、その廊下の角を曲ると、暗い中に白いものが立っているのが見えた。手にもっているのは、手燭の一種だが、手ぼんぼりというもので、明りは足もとを照らすくらいなものである。とても一間先まで照明は届かない。
夜廻りには慣れて気丈な女だったが、四囲の壁から闇が匍《は》い上って押しつつむような暗黒の中に、白いものがぼんやり立っているのを見ると、さすがに血を凍らせた。
彼女はしばらくそこに立ちどまって、先方を凝視した。実際は、足が前に動かなかったのである。こちらは、たったひとりという孤独感と、丑三刻《うしみつどき》という時刻を考え合せて、悲鳴を上げたくなるところだった。
闇の中の白いものは、立ちどまっているのではなくて、ゆらゆらと動いていた。お蝶が後に走り出そうとする前に、その白いものは大きく動いてこちらへ近よって来るように見えたので、彼女の足はまた釘づけになった。
進みも退きもならず、棒のように立って息を呑んでいるお蝶の眼に、その白いものが次第に一つの輪郭を整えてきた。それは顔も胴も無い、女中の着る襠《かいどり》だけがずぼっと立っているのだった。
「あっ」
と口の中で云って、危うく手ぼんぼりを落すところだった。膝がしらから力が抜けて足が慄えた。その間にも、襠の化物は、恐怖の眼をいっぱいに開けているお蝶の方へ吹かれるように寄って来た。
声を上げる前に、襠の化物がものを云った。
「お女中」
やさしいが、男のように嗄《か》れた声だった。
「御用所は、どちらで……」
お蝶は、咄嗟《とつさ》に指を上げた。まるで無意識に、命令されたようにそうしたとあとで云っている。黙ったまま、指だけ御用所の方に上げたのである。口が利ける道理がない。
襠は──何でも大柄な模様が付いていたように思うが、意匠も色もさだかでなかった。ゆらゆらと動くと、ふわりと離れるようにお蝶から遠のいた。
それがお蝶の足を解放したのか、彼女はくるりと身体をかえすと、もとの方へ廊下を走った。
闇はどこまでもつづいている。四十間の廊下の長さがこの時くらい遠かったことはあるまい。後から追いかけられるような戦慄が、彼女の足を何度も倒しそうにした。それでも、恐怖がまだ彼女の口を縛っていた。
ようやく詰所の障子の明りが見えたとき、安心がその呪縛を解くと共に、新しい怖れが身体中に湧いてきた。
お蝶は詰所の前で、はじめて声を上げて倒れた。
翌朝の長局では大へんな騒動である。お蝶をとり巻いて女どもの詮議がはじまった。
「お襠が動いていましてね、それが頭も胴もない、ふわりとしたものです」
お蝶は昨夜の幻覚を手真似で説明した。
「足は?」
と訊く者がいる。
「さあ、足は……」
とお蝶は考えて、
「足も見えませんでした。なにしろ、お襠だけが暗い中で、ふわりふわりと動いていて……」
「ものを云ったのですね?」
「はい、御用所は……」
「まあ、声まで似せて気味の悪い。今夜からこちらの御用所も怕《こわ》くて行けませんよ。どうして、また、化物が御用所を訊くのでしょう?」
「そこが狙い場なんでしょう」
といったのは別の者である。
「そら、髪を切られるのは御用所ですから」
「怖い」
と女どもは顔色を変えた。
「やはり、お庭の狐狸の悪戯《いたずら》でしょうか?」
「ここしばらくは出ませんでしたがねえ」
「あの……化物が人間の声を出すのでしょうか?」
と訊いたのはご奉公に上って間もない女中だった。
「そりゃあ自在なもんです」
とおどかすように云ったのは先輩の女中だった。
「戸を叩いて、今晩は、と云ったり、お頼み申します、と云ったり、歌を唄ったり、何でも人間なみに申します」
「でも、お蝶さん」
とほかの一人がきいた。
「お前さん、見たのはお襠だとお云いだったが、狐狸がお襠に化けるとは珍しいことがあったもの。お襠の模様はどんなだったか分りませんかえ?」
「それが、何か模様がありましたが、怕くて……」
「菊の縫取り模様ではございませんでしたか?」
「えっ」
と云って、思わず声を呑んだのは、それを聞いたまわりの女中たちだった。思わず、それを云い出した女中の顔を見ると、
「菊の模様のお襠は、先日亡くなられた多喜の方様。もしや、あのようなご最期で、御霊魂がまだお迷いなされているのでは……」
一同は、しばらく黙った。唇の色まで白くしたのは、たしかにその理由がないことではないからである。
「ねえ、お蝶さん。お前さん、見ていないというけれど、よく思い出してごらんよ。それは菊模様ではなかったかねえ?」
強《し》いて、興味的に問われると、お蝶も、
「さあ、よく分りませんが、そうおっしゃると……」
と曖昧に答えたものである。
火の番のお蝶が見た怨霊《おんりよう》は、多喜の方の襠だったという噂は、ひそかに拡がった。これはお美代の方の手前、あまり大きな声で云えることではない。が、怪談には誰でも目の色をかえて飛びつくものだ。わけて、話題に飢えている長局の女中どもが、抑えても黙ろうはずがない。
その日の昼には、この話を年寄の樅山まで、わざわざ届けた女中がいた。
「昨夜はお火の番が二の側の廊下から一の側に廻りますと……」
刻《とき》も丑三ごろだから、怪談の時間にしては符節が合った。樅山にその話をする女中は二、三人だったが、顔は怕そうにしかめているけれど、無論、興味でいっぱいだったのである。ところが、聞いている樅山の顔が次第に曇ってきた。それは怕いからではなく、何か気に入らぬ話でも聞いているようだったが、
「もう、黙るがよい」
と途中で遮った。その云い方が少し強すぎるようだったし、あきらかに険のある眉だったので、折角話をしていた女中たちが、びっくりしたくらいである。
「臆病者が、こわさのあまりあらぬ幻を見たのであろう。埒《らち》もないことじゃ」
臆病者の幻覚だと云い捨てられると、女中たちも少し物足りなく感じたが、
「いえ、そのお火の番は、わけて気丈なお女《ひと》だそうでございますが」
と註釈すると、
「お黙り。聞きとうないと申している」
と樅山は、ぴしゃりと叩くように云った。それから自分の癇《かん》の立った声に気づいたのか、
「大方、それはお庭の狐狸のいたずらかもしれぬ。久しく退治なされぬので、近ごろはまた殖えたとみえる。お庭番に申しつけさせ、近いうちに狩り立てるように致さねば」
と少し落ちついたように云った。
「では、昨夜のも、狐か狸の悪戯《いたずら》でございましょうか?」
「知れたことじゃ。上様ご威光のお城に、何で亡霊など出ましょうか。向後も、そのような白痴《たわけ》た話を持ち廻るでないぞ」
屹《きつ》と睨まれて、女中どもは首をすくめた。日ごろからきつい顔だけに、凄味が利いて、この方がよっぽど怕かったのである。
女中たちは樅山の前からさがって、わが部屋で叱られた話を朋輩にしていると、これに耳を傾けた女がいた。
細い顔だが、大きな黒い瞳に矢のように表情が走った。それがお三の間に取り立てられたばかりの登美だった。
そっと部屋を辷るように出ると、用事でもあるような顔をして、お廊下を西の方へ歩いた。
お火の番詰所は、その曲ったところの端にある。
「お蝶さん、居ますか?」
と、登美は火の番詰所に来て訊いた。
詰所では、二人の女中がいたが、登美の顔を見て、
「お蝶さんは、今日は非番で部屋におりますが」
と云った。なるほど、昨夜は勤番であるから今日は休みに決っている。殊に、あの騒ぎで肝を潰しているに違いないから、或は寝込んでいるかもしれなかった。
「お蝶さんに用事ですか?」
登美の困った顔を見て、その女中は云った。そうだと答えると、
「では、お呼びしましょう」
と気軽に云った。登美が当惑したように佇《たたず》んでいるのが気の毒になったのかもしれない。お半下《はした》部屋の方へ連れて行ってくれた。
御半下部屋は、七ツ口に接したところにあった。七ツ口とは、奥女中の宿下りや、内から外に買物するとき、或は外から呉服ものや小間物などを売りに来る商人の女房などの通用口である。
間口五間、奥行十二間という広い一間になっているのが御半下部屋で、身分の低い女中たちの雑居所になっていた。
囲炉裡にある鉄漿《かね》壺で歯を黒く染めていた女中が、
「お蝶さん」
と次の間に呼んでくれた。ここは二十畳の板敷き、次は同じ広さの畳敷きだった。
眼を腫《は》らした小柄な女中が出てきたが、彼女は怪訝《けげん》そうに、登美を見上げた。
「お前さまがお蝶さんですか?」
登美がきくと、
「そうです」
とお蝶はうなずいた。
「わたしはお三の間づとめをしている登美という者ですが、ちょっとお訊ねしたいことがありますの。少し、そこまで」
登美が誘うと、お蝶は素直についてきた。長局と奥との間は庭になっていて、両人《ふたり》はそこを歩いた。
植込みの蔭まで来て、登美はあたりを見廻した。どこにも人影は無かった。
「昨夜は、さぞびっくりなされたでしょう?」
登美が云うと、お蝶は、少し羞《はず》かしそうにうなずいたが、その顔はまだ平静が戻っていないのか、蒼かった。
「もう、お局のお女中の間では、その話でもちきりですよ」
「そうですか」
お蝶は眼を伏せた。
「でも、本当にあなたが見たのかどうか、疑っている者もありますけれど」
「いいえ、確かにこの眼で見たのです」
お蝶は、すぐに眼を上げ、強い調子で云った。
お蝶の抗議を登美は、微笑で受けた。
「お蝶さん。分りました。それで、あなたが見たのは、お襠だけだったのですか」
「はっきりとは分りませんが、そんな着物でした。ぼうと白いようなもので……」
「模様は?」
「それまではよく分りませんが」
「菊の模様ではなかったのですか?」
この質問の意味を知ってお蝶は曖昧に首を振った。
「そう訊かれた人もありますが……でも、本当はよく分らないのです」
「そうですか」
登美はうなずいて、次にはもっと低い声で訊いた。
「お襠は、どんな形をしていましたか?」
「どんな形?」
「お襠だけが、ふわりと宙に流れるように浮いていたのか、それとも、だらりと垂れ下っていたのか?」
「………」
今度は、その質問の内容が分らなかったので、お蝶が登美の顔を見つめていると、
「顔も胴体も無かったといったでしょう。でも、人間が頭からずぽりとお襠を被って、裾の方がだらりとたれ下っていた、そんな恰好ではなかったのですか?」
と、登美は低い声で訊いた。
お蝶は眼を宙に向けた。それは形を想い出そうとする努力だった。
「そう仰言《おつしや》れば」
と彼女は急に云った。
「たしかに、お襠をそんな風に人間が被った恰好でした。ああ、そうか。やっと思い当りました。お襠の上の方が、まるくなっていたようです。そうでした。いま、気づきました」
「びっくりなさったので、それは無理もありません」
と登美は利発らしい云い方をした。あたりを見廻して誰も居ないのを確めたのは、この会話が飽くまでも人に聞かれてはならないからである。
「それから、御用所は何処か、と訊いたのですね? 人間の声で」
「そうです」
「どんな声? いいえ、女の声か、それとも男の声のようでしたか?」
「しわがれたような太い声でしたが、女なら年を召した方の声でした」
ここで、お蝶は或ることに気づいて俄かに愕いた眼をした。
「お局《つぼね》で、男の声が聴けるものでしょうか?」
この反問に、登美は複雑な顔色をした。
「お蝶さん。そんなことをあなたが不審がってはいけませんよ。誰にも云わないことです。やはり、狐狸の悪戯《いたずら》でしょうね。狐や狸なら、どんな人間の声でもお得意のはずです」
登美はそう云うと、お蝶に、もう自分の傍を離れた方がいいと云った。
「ああ、それから」
と最後に念を押した。
「わたしがこんなことを訊いたとは、誰にも云わないで下さいましよ」
夜ふけの吹上の庭は闇の中に塗りこめられている。昼なかでさえ、森の中に入ると、深山幽谷の趣があるのだから、夜は黒い瘴気《しようき》が立ちはだかって凄涼さを覚える。
夜の警戒は、新御門の番衆が当るのだが、暮を過ぎたら、一刻に一度ずつ見廻りに出る。無論、広大な庭の全部を廻るのではない。御門の塀に沿っての内外、それと、滝見茶屋あたりまでがせいぜいの巡路である。魔性をひそめた暗黒の木立が、男でも奥へは寄せつけないように思えた。
暮から二番目の見廻りが済んだあとだから五ツ(午後八時)を廻った頃であろう。ひとつの人影が滝見茶屋から鳥籠茶屋の方へ走っていた。
夜のことで、茶屋には番人が居ない。天地間、人といってはこの動いている影だけである。顔は頭巾で包んでいるが、着物の搦《から》げ方や帯の締め具合は奥女中の身なりそのままであった。小さい灯がちらちらしているが、これは手にもった提灯を長い袖でかこったのが洩れていると分った。
真暗い中を、うすい灯が歩いている。獣の声の聞えそうな林が四囲に壁のように仁王立ちしている場所を女がひとりで動いているのだから、叢《くさむら》にひそんでいる狐か狸の化けたのかと思われよう。闇の中をほの白く見えるのは咲き誇った桜がしっとりと夜気に濡れているのである。季節も弥生《やよい》の半《なかば》で、姿も御殿女中だから、鼓《つづみ》でも下座から鳴りそうな有様だった。
女は鳥籠茶屋まで忍ぶように来ると、こっそり床下の柱に手をかけた。あたりをうかがったのは、人をおそれたのか狐をおそれたのか分らない。滝から流れ落ちる水音が高いばかりである。
女は床下の中に身を滑らせて入った。提灯の明りが足もとをまるく照らした。その円い光の輪の中に、贅沢な床下の造作の部分が映ってくる。この時代の将軍住居の建築として、すべて床が高く造られてある。女なら、少し背を屈むだけで自由に入れるのである。
提灯は床下の隅にすすんだ。井桁《いげた》に組んだ床組みが光にうつる。或る位置まで来ると、女は動作をやめた。そのまま動かなくなったのである。
提灯の光だけが、何かを捜《さが》すようにしばらく揺れていたが、それも無駄だったように止った。
「無い!」
女の口から、溜息のように洩れたのは、この一言だった。
遠くから知らない者が眺めると、茶屋の床下にぼうと火魂《ひのたま》のような一点がともり、あたりには暗黒の瘴気が流れているから、これも狐火と見たかもしれない。
風が出たか、黒い森が騒ぎ出した。