新之助が指をさして又左衛門に教えたのは土堤の方であった。
提灯が四つ、たてにならんで南から北へ向っている。
夜に馴れた眼で分ったことだが、黒い人影が七、八人、行列のように歩いていた。かれらは長持のようなものを二つ、棒にかついでいる。つまり、二人ずつが二つの荷をかつぎ、あとはその供という風にみえた。
「何だな?」
又左衛門はじっとそれを眺めた。見ているうちにも、提灯の火は北へ進んでゆく。葉の茂った土堤の樹木で、黒い人影は見えたり、かくれたりした。
「石翁のところへ、どこかの大名が音物《いんもつ》を運んでいるのではありませんか?」
新之助が想像を云った。
「うむ、そうかも知れぬ」
又左衛門はその意見にうなずいた。
「新之助、提灯の定紋は分らぬか?」
「さあ、しかとは……」
距離があるので、小さくてよく見えないのだ。新之助がそれを云うと、
「まあ、よいわ。賄賂運びの腐れ大名の名前を知っても詮ない話だ。馬鹿め。せいぜい今のうちに財布をはたいておくがよい。そのうち泣き面かいて地団駄踏むだけのことだ」
これは石翁の勢力をいまに没落させてみせるという又左衛門の意気込みから出た言葉だった。
しかし、古い樹のように根を張った石翁の勢力が、又左衛門の口吻《こうふん》のように、そう容易に没落するかどうか、新之助には疑問だった。かれは黙って長持をかついだ一行が石翁の屋敷の方角へ消えて行くのを見送っていた。
「新之助」
と又左衛門が呼んだ。
「肝心の、舟の方はどうじゃ。なかなか出て来ないな」
水路の方は暗い水がゆるやかに流れているだけで、なんの変化もなかった。
「もう、どのくらい経《た》ちましたかな?」
新之助が云った。
「うむ、ここへ舟をとめてから、一刻くらいにはなろう。もう、そろそろ、何か出て来てもよい筈だが」
「手前もそう思っております。昨夜、あれだけ騒がしたから、良庵を処置するなら、今晩が狂わぬところと考えます」
「啄木《きつつき》は木の裏から嘴《くちばし》でこつこつ叩き、空洞《ほこら》からとび出してくる虫を食うそうじゃ。そちが屋敷を騒がしたので石翁が何か動いてきたら、さしずめ啄木の戦法じゃな。いや、これは孫子の兵法にもある」
又左衛門はご機嫌だった。
「叔父上。涼しすぎて寒うございませんか?」
「なんの。夜明けまで居ても平気じゃ。いつまでも待つぞ」
それから半刻ばかり経ったとき、両人の眼が再び土堤の方に向いた。
土堤の上には提灯が二つぽつりと現れた。これは北から南に歩いている。黒い人影がそのあとに従っていた。それが先刻の一行だということは、担っている長持のような荷物でも分った。
「ははあ、音物を石翁のところへ届けての戻りとみえますな」
新之助が云った。
「うむ」
又左衛門は眼を凝らしていたが、
「新之助、もそっと舟を近づけてみい」
「はあ?」
「提灯の定紋を見てやるのだ」
はじめ、又左衛門の好奇心から出た言葉かと思ったが、新之助が櫓の音を忍ばせて、川岸の方へ漕ぎ寄せると、
「見ろ」
と低く云った。
「定紋は梅鉢じゃ」
新之助も見たが、なるほど、たしかにその通りだった。
「本郷から来たのか」
又左衛門が納得したように呟いたものである。勿論、前田家と石翁の特別な関係を知っての言葉だった。
「しかし、妙だな」
と云ったのは、木っ葉大名ならいざ知らず、前田家が今さらのように石翁に賄賂を贈るのがおかしいという意味だ。
新之助にもそれが分った。両人の眼は、相変らず土堤を歩いている一行に注いでいた。
「叔父上」
新之助が、何かに気づいたように云った。
「見られましたか? かついでいるのは、たしかに長持ですが、二つのうち、一つは空《から》ではなさそうです」
距離を縮めたため、今度は土堤の人間の姿、恰好まで分った。長持は二つだ。しかし、前の一つは軽々と人にかつがれているが、あとの一つは、いかにも重そうだった。それを肩にのせている二人の男の歩き方で中身の重量が想像出来た。
「新之助、舟を急がせて先廻りをしろ」
又左衛門が不意に命じた。
「うっかり欺されるところだったな。音物を運ぶと見せかけ、実は、逆に石翁の屋敷から品物を持ってかえるのだ。しかも、余計な長持を一つ添えて人の眼をくらまそうとしたところなど、よくも考えたものだ」
あとの言葉は、滑るように川下に向っている舟の中だった。
「そちの見込みの通り、石翁はたしかに匿していた品を出した。だが、舟ではない。舟を待っていたら、夜明けまで無駄に涼ませられるところだったな」
こちらの舟は、土堤を歩いている一行を追い越した。
「新之助、どこか、その辺に舟をつけろ」
櫓の音を消し、新之助は舟を土堤下につけた。
土堤の一行は足をゆるめず、急ぎもしない。歩調に変化が起らないのは、こちらの動作を気づいていない証拠である。
「新之助、長持の品をこっちに奪《と》ろう」
又左衛門が、黒い影を見つめてささやいた。
新之助はもとよりその気だった。しかし、叔父の方から云い出されて、その顔を見返ったものだ。
「叔父上。やりますか?」
「やれ」
叔父は短く命じた。
「それでは、手前が暴れて参りますから、叔父上はここで舟が流れぬように待っていて下さい」
この指図を又左衛門は不服にとった。
「何を申す。舟はその辺の杭につないでおけばよい。そちだけの勝手にはさせぬぞ」
「それでは、叔父上も?」
新之助が見上げると、又左衛門はもう裾をからげて支度をするところだった。
「見ておれ、まだ腕はたしかなつもりだ」
しかし、次には年長者らしく新之助に注意を与えた。
「斬るな。怪我ならよいが殺してはならぬぞ。長持の中を、こちらに貰うのが狙いだからの。後の一つだけが目当てだ。余計なことには構うな。品物をもらったら、すぐに舟に乗せて逃げるのじゃ」
手筈まで指図して、
「幸い、退き潮で水の流れも早い。好都合じゃ」
と川をふりかえって見る余裕があった。
新之助は舟が逃げぬよう、杭にしばった。それから、彼が先頭になり、土堤の草の上を這い上った。
行列はまだ気づかない。何やら私語しながら歩いている。
両人が伏せている頭の上を、提灯が通過した。はっきりと梅鉢の定紋だった。
つづいて最初の長持が来る。これも両人は黙って見過した。
「夜は凌《しの》ぎよくなったな」
「涼しい」
とか、人々の話が、頭の上を通った。
それから、二つめの長持が通過した。それにはっきりと重量があることは、かついでいる足軽二人の脚が地に重いのでも分った。そのあとを三人の士が従っている。
新之助と又左衛門が刀を鞘から抜いたのは、その後尾がわずかに過ぎてからだった。
「かかれ」
又左衛門が低く合図した。
新之助が草の中をとび出し、土堤に上って列のうしろに飛び込んだのは、その直後だった。
「狼藉《ろうぜき》!」
という叫び声が後尾の人数の中から起った。突風でも舞い上ったように人影が乱れた。
新之助が割って入ると、左右から包むように三、四人がとびかかった。一人が地上に仆され、一人が突きとばされた。
刃《やいば》を抜き、構えたのは輪をひろげた連中だったが、同時に先頭からも人数が加勢に駆けてきた。
「何者だ?」
宰領らしいひとりが、真ん中に立っている新之助を睨んでとがめた。
新之助は返事をしないで、刀を提げていた。人数が二人ふえたことと、二つの長持をかついだ足軽がすこし急ぎ足になったことを、かれの眼は確めていた。
「名乗らぬな?」
とがめた男が、また云った。それに威嚇がこもっていた。
「血迷うな。われらは……」
そこまで云いかけたとき、別な声がそれを遮断するように、
「止めろ」
と云った。主家の名を出したくないことがそれで分った。
「容赦するな。斬れ」
と叫んだのは、不覚に吐こうとした言葉を制《と》められた男だった。声が、苛立ち、逆上《のぼ》せていた。
新之助が構えを直すと同時に、二人が前にすすんだ。刀を落して一人が匍《は》い、一人が素早く後退した。切尖《きつさき》を新之助に向けているのは三人になった。
「油断すな」
と、その中の一人が味方に警報を与えた。彼らは、すすみもせず、足踏みだけをしていた。
又左衛門が、土堤下の草を匐《は》って、長持の方に迫ったのは、その間だった。
ものを云わずに、後の足軽の衿《えり》をつかむと引き戻した。長持が揺れ、先棒の足軽が身体をうしろによろつかせて、棒を肩から辷り落した。荷は地の上に響を立てて落ちた。
衿首をとられた足軽は、土堤下に転がり、前の足軽は膝をついて逃げようとしていた。このとき、先頭の長持をもっていた足軽が、荷を捨てて、又左衛門の方に向ってきた。その一人が、うしろの人数にこちらの危急を知らせた。
「叔父上」
と新之助が三人の前に立ちふさがるように身体の位置をじりじり廻して云った。
「ここは引きうけました。早く、荷を……」
又左衛門は刀で足軽を圧迫しながら、
「分っている」
と大声で応えた。
新之助と対峙している三人に焦慮がみえてきた。匐った男二人も、その輪の中に戻った。
新之助に向っている輪の中から、一人が抜けて前方に走ろうとした。これは長持の方が気にかかったからである。実際、その方からも足軽の加勢を求める声がきこえていた。
新之助が足を踏み出し、大きく動いた途端に、抜けようとした男は頭をおさえて身体を泳がせた。
隙を発見したのか、すぐに二人が新之助の背中に躍りかかった。新之助は身体を沈めたが、一人はつまずいた勢いで自力で三尺先に転び、一人は危く退いた。人数はまたもとの三人になった。
手ごわいと感じたらしく、三人は今度は容易に新之助の前に進まなかった。
このとき、又左衛門も足軽四人を長持から遠ざけていた。二人は草の中に転んでいたし、二人は棒や刀を構えたまま、やはり、攻撃出来ないでいた。
「やりおる」
又左衛門は新之助の方をふり返って笑った。
「叔父上。早く」
新之助が三人を抑えたままの姿勢で云った。
「分っている」
というのが又左衛門の返事だった。地面にすえられた長持に又左衛門の手がかかり、くくられた綱の結び目を解きはじめた。
さすがに耐《たま》りかねて、足軽の二人が棒と刀で近寄ってきたが、又左衛門が構えを直すと、また退いた。何度か、そんなことを繰り返した末、又左衛門は長持の蓋を開けることに成功した。
暗くて分らないが、黒いものが中にうずくまっていた。手応えで、人間だと分ったとき、又左衛門はその背中を抱え起した。その物体は動いてはいたが、力が無かった。
又左衛門が、それを肩にかつぐと同時に、足軽の一人が棒を打ち込んできた。又左衛門が動いて、それをかわし、刀が伸びて足軽の顔に届いた。斬られたと思ったらしく、足軽は叫びをあげて仆れた。
又左衛門の肩にすがった人間は、上体を扶けられて足を動かすだけの力はあった。又左衛門はひきずるように土堤下の草を下りた。足軽一人が追ってきたが、手出しはしなかった。
新之助も、三人の対立者も、又左衛門の行動が分っていた。新之助の方に余裕があり、三人はうろたえていた。
「あいや」
その中の太い声が急に云った。
「何か間違えられたのではないか? われわれは加賀藩中の者だが、われわれにとって、思いもよらぬ迷惑でござる」
切羽つまって藩の名を出したのは、悲鳴にちかかった。
新之助は答えを与えずにいきなり斬り込んだ。三人は動顛《どうてん》して散開した。そのまま新之助は一散に土堤へ走り下りた。
石翁は、妾に肩を揉《も》ませていたが、敷居際に手をついて述べる家来の報告をきくと、眉を動かした。
「なに、長持を襲った者が居たと?」
妾が遠慮して、肩から手をはなした。
「はい。さいぜんの加賀藩の衆が左様に伝えて来ました」
家来は、おどおどした様子で答えた。
「それで、内の医者はどうだった?」
「曲者に奪われたそうにございます」
「奪《と》られたのか?」
石翁は見開いた眼を据えた。
「埒《らち》もない。相手は何人で来たのじゃ」
「それが、二人だそうでございます」
「二人? たった二人できたのか」
石翁の眼に怒りが湧いた。
「仕方のない奴だ。それで、おめおめと医者を奪われるとは、加賀藩の奴も腑甲斐がなさすぎる」
「殿」
と家来が膝をすこし動かして云った。
「その二人組のうち、一人がどうやら昨夜、当屋敷を騒がした狼藉者のように考えられます」
「訊いたのか?」
「はい、加賀藩士に訊きますと、年齢、姿恰好、まことによく似ておりまする」
石翁はうなずいた。
「さもあろう。医者が当屋敷に潜んでいるのを知って入った奴だ。初めから、それを狙っている。しかし、今夜、外へ運び出すのを、どうして覚ったか」
「あの医者に由縁《ゆかり》の者でございましょうか?」
家来は恐る恐る伺うように見上げた。
「知れたこと、云うまでもない」
と不機嫌に一喝した。
「相手は、どう逃げた?」
と、また報告の残りを求めた。
「はい。大川に舟を待たせて置いたらしく、医者を連れ出すと、三人とも舟に乗り、川を下ったそうにございます。それで、急には追うことが出来なんだと申しております」
「無駄ばかりやる」
石翁は加賀藩の連中を罵《ののし》った。
「こちらから、人数をつけてやるべきだったな」
と、これは後悔らしかったが、
「しかし、どの筋から来た奴かな」
と眉を寄せ、考えていた。
「いま何刻《なんどき》じゃ?」
「かれこれ四つ(午後十時)にはなりましょうか」
「うむ、まだ起きている筈じゃ」
誰のことかと思っていると、
「本郷へ走って、奥村大膳にすぐ来い、と云え」
と、性急な声で云った。
「すぐだ。わしが火急の用事があると申せ」
前田家用人の奥村大膳が駕籠をとばして石翁の屋敷についたのは、半刻のちであった。
大膳は茶室に通された。これは母屋《おもや》からはなれ、密談には恰好な場所である。
大膳が待つ間もなく、石翁は現れた。
「ご隠居様」
大膳は石翁の大きな坊主頭に恐れるように平伏した。
「お使いを頂く前に、藩中の者が立ち帰って不始末を報告いたしました。何とも、はや、申し上げようもない次第で、ご隠居様にお目にかける顔がありませぬ」
「そちに詫びられても、仕方のない話じゃ」
石翁はむっつりと吐《は》いた。機嫌が悪い。
「恐れ入りまする」
大膳は頭をさらに下にすりつけた。
「はあ」
「そのほうに任すでなかった」
「………」
「医者のことよ。あれはやはりこちらの手で処断するのが本当だったな。当屋敷にはいろいろな傭人《やといにん》がいる。変ったことがあれば、外に出て誰に耳打ちしないとも限らぬ。それを考えてわしが医者の処断をためらったのが、かえって悪かった」
石翁は悔むように云った。
「それと、昨夜、得体の知れぬ者が当屋敷を騒がした。わしも、少々あわてて、そちの手に医者を渡したのだが……これほど、そのほうが腑甲斐ないとは思わなんだぞ」
「まことに、はや」
大膳は肥った身体を縮めるようにした。
「重々の失態、ご隠居様にどのようなお叱りを蒙っても、申し開きは出来ませぬ」
と云って低頭したが、すぐに頭を上げて、
「しかし、昨夜の曲者と、今夜の狼藉者とは、同じ人間でございましょうか?」
「同じ男だ」
石翁は苦り切った。
「大それた不敵な奴でございますな。ご隠居様のお屋敷を窺《うかが》うことさえ大胆至極でございますが、つづいての夜、当お屋敷から出た人数を襲うなどとは正気とはみえませぬ。藩中の者は、はっきりと藩名を申し聞かせたそうにございますが、返事もせず、薄ら笑いをしたそうでございます」
「昨夜は一人、今夜は二人だ。あの医者を狙って参ったのはたしかだ」
「しかし、それはどういう筋合から……?」
「たいていの見当は、わしについている。だが、これは当て推量でなく、夜が明ければ、実証が分ることじゃ。乱暴者が乗って逃げた舟を捜すのだ。どうせ、どこかの舟宿から借りたものと思う。前から、ここに出入りしている奉行所の与力を呼びつけ、誰に舟を貸したか探索させる」
「ご隠居様のお手にかかれば、曲者の正体も訳なく知れましょう」
奥村大膳は、石翁の機嫌をとるように云った。
「しかし、それは、どの筋から参ったのでございましょうな? ご隠居様には目星がついたように伺いましたが」
「敵じゃ」
石翁は、ぽつりと云った。
「は?」
「敵じゃよ。大膳、敵の現れ方も、これからは、はっきりとするであろうな」
「敵と申しますと?」
「まず、本丸大奥であろう。が、これはまだ恐れるに足らぬ。人物が居らぬでの。女中どもが陰でさわいだところでとるに足らぬ。手強《てごわ》いのは別の方角じゃ」
「それは、どの方面でございますか?」
「今に判る」
石翁は謎めいた微笑を洩らしただけだった。
「ただ、敵が躍起となってきた徴候は、例のものをこちらに頂戴したのを、うすうす感づいたのかもしれぬな」
「例のもの、と申しますと?」
大膳は、いちいち、問い返した。
「大膳、お墨附は頂いたぞ」
石翁は、大膳の顔を見すえた。
「え? それは、まことでございますか?」
大膳は眼をむき、次には顔いっぱいに喜色を輝かせた。
「水野美濃の働きじゃ。あの男は、どこまで利口か分らぬな。ちゃんと、わしの手元にお墨附は保管してある」
「おお、それなら万事大安心でございます。ご隠居様、おめでとう存じまする」
「手放しで喜ぶのはまだ早い」
石翁は、たしなめた。
「なるほど、お墨附は頂戴したが、大御所様薨去の暁には、これがどれほど役に立つかじゃ」
「しかし、ご遺命とあれば、どなたも……」
「ばかめ。人間、死んでしまえば、おしまいじゃ。大御所様ご威光は、大御所様が生きている間だけ。死んでしまえば、誰が懼《おそ》れようぞ。生きて残っている人間の方が勝じゃ。大御所様お墨附のご遺言も、生きている人間次第で、どうにでもなる」
「………」
「大膳、わしはな」
石翁は、妙にしんみりした調子で云った。
「大御所様が、まだ息のある間に、そういう人間を叩いておくつもりじゃ。亡くなられてからでは手遅れ、ご寿命のある間に手を打っておく。さすれば、お墨附が生きるでな。美濃はじめ皆は、この紙きれにたよりすぎる。反古《ほご》になるのも、看板になるのも、これからじゃ」
石翁の機嫌がようやく直った。
「ご隠居様のご慧眼《けいがん》、ただ恐れ入るほかはございませぬ。そこまでの見透しは、われら凡人には、とても及びもつきませぬ」
大膳はその上機嫌を煽《あお》るように云った。
「うむ」
石翁は、大膳を、じろりと見た。
「しかし、大膳、何が福になるか分らぬな」
何のことかと思っていると、
「わしは、あの医者を当屋敷に留め置いたのは失敗《しくじり》であったと思っていた。あれは、そちが菊川の係り合いで、あまりに恐れた故、連れ寄せたのだが、菊川が死んだあとは、もう心配はいらぬ男だった。大奥女中の妊《はら》み女を診《み》たと云い触らしても、菊川が死んで実証がなくなった今は、放してやって大丈夫だったのだな。わしも少しあわてていた」
石翁は、うすい苦笑を浮べた。
「それに早く気がつけば、とうに放してやったところだ。が、処分ばかり頭の中にあるから、いつかは斬るつもりで留めておいた。が、それが、かえってよかった。思わぬ餌になったのだな」
「はあ」
「敵をおびきよせる餌になったのだよ。昨夜、当屋敷に来たのが、その一人だ。今夜は二人にふえた。餌があれば、向うから来る。明日になれば、その乗った舟から足がつくというものじゃ」
今度の笑いは愉快そうだった。
「しかし」
大膳は疑問をはさんだ。
「あの町医者が、ご当家に留め置かれていることを、曲者はどうして知りましたかな? また、曲者と医者との間柄は、どのようなことでございましょう?」
「わしも、それがよく分らぬ。あの医者が、偶然《たまたま》、敵の廻し者としたら、あまりに話が出来すぎているでの。が、まあ、よいわ。今夜の曲者の正体が分れば、おのずと知れようというものじゃ。それに、曲者の後に控えている敵も分ることだ。いや、大膳、今夜の加賀藩の働きは思わぬ怪我の功名であったな」
「これは恐れ入りまする」
大膳は恐縮したように頭を下げた。
「ところでご隠居様、医者は逃がして、それでよろしゅうございますが、菊川の死体は、いずれに参って居りましょうか? 永代橋近くの寺に埋めた話までは存じておりますが」
「ふむ」
石翁は軽く笑った。
「なるほど、菊川はそちの、ひとときの可愛い女であったな」
と眼に冷嘲が出ていた。
「さる所に菊川は眠っている」
「は?」
「ははは、いくらそなたの可愛い女でも、今はそれだけしか云えぬ」
石翁の厚い唇から、菊川の死体をどこに移したか今は云えない、という言葉が洩れたとき、奥村大膳には、石翁の大入道が、気味悪く映った。敵に廻したら、怕《こわ》い隠居だと怖気《おじけ》が立った。
「大膳よ」
石翁は冷やかな眼をかれに投げた。
「菊川は、そなたを慕った女、満更、憎くはあるまい」
「はい、しかし……」
大膳は返事に詰った。
「わしは、菊川をそちからうけとり、殺した。そこの魚の刎《は》ねている泉水に顔を漬けての。むごい仕方と思うか?」
「いえ、決して……」
大膳は汗をにじませて手を突いた。
「悪う思うな。菊川はわれらの災いであった。とり除かねばならぬ。ただ、首を絞めたり、刀で斬ったりしたのでは、あとが面倒になる。町家の女が大川に投身した体《てい》に見せかけるには、池にも漬けなければならなんだ」
「はい……」
「それにしても、その死体の穿鑿《せんさく》をする者が寺をうろうろしていたそうな。これは町方が知らせてくれたが、それだから、油断がならぬのじゃ」
「まことに……。しかし、よく方々にお手が廻っておりまするな?」
「手当をしている。北も南も、奉行はわしの云うことをきいてくれる。ただ……」
石翁は、ここで、厚い唇をすこし歪めるような恰好をした。
「寺社だけは、そうはゆかぬ」
石翁の眼は、寺社奉行脇坂淡路守の姿を、そこに泛《うか》べて睨んでいるように見えた。が、それも、一瞬のことで、何を思いついたか、大膳に再び眼を戻した。
「そちは、わしが方々に手を廻していると云ったが、面白い男をひとり見つけたぞ」
「ほほう、それは、いかなる人物で?」
「西丸大奥の添番《そえばん》じゃ。落合久蔵という奴での」
「添番でございますか?」
「うむ、身分は低い。それ、菊川が寺にあの医者を呼んだとき、それを迎えに行った奴だ。ここにわしの家来が医者を連れて来たとき、当人かどうか、顔の実検に呼んだのだがな。そいつ、たしかに、この医者を手前が駕籠で寺に送ったと実証しおったよ。わしは駄賃に銭をやった。添番め、びっくりしおった。なにせ扶持《ふち》が安い」
石翁が少し笑って、
「落合久蔵と申すその添番め、何やら云いたげにぐずぐずしていたが、わしに向って、お為になる話を持ち込みましたら、御恩に与《あずか》れましょうか、と訊きおった。あいつ、何やら知っているらしい。そのうち何か報らせに来るだろう」
天気がいいだけに埃が立っている。
北町奉行所附の与力、下村孫九郎は、着物の裾を埃で白くしながら、駒形から柳橋、向う両国など、川沿いの船宿を、一軒一軒、ものを訊きながら歩いていた。
特殊な服装だけに、与力ということはすぐ分るし、下村孫九郎は、顔が広かった。料理屋とか船宿とかの客商売は、どこかに弱い尻があり、こういう役人は、何となく怕いのだ。下村孫九郎は、下手に扱うと意地悪く出られる役人の部類として、おそれられていた。
「これは下村の旦那、ご苦労さまでございます。お暑いのに、お疲れさまで」
下村孫九郎が入って行くと、どこの船宿も、お内儀《かみ》がとび出してていねいにおじぎをした。
「まあ、一服、おつけ下さいまし。二階が風通しがよく、涼しゅうございます」
「今日は、そうもしていられないのだ」
いつになく、下村孫九郎は、せかせかしていた。
「早速だが、昨夜、お前のとこで、侍二人に舟を貸さなかったか? いや、屋形ではない、猪牙《ちよき》だ」
「さあ」
どこの船宿でも愛想がいい。下村孫九郎が断ってもまあまあ、と二階に上げようとする。この厄介な男に酒肴を出して、なるべく笑わせて帰そうとするのである。
「いや、ここでいい」
いつもなら、そうか、とうなずいて二階に上る男が、
「どうだ、早く返答してくれ」
と、せっかちであった。顔つきまで真剣なのである。
「いえ、手前の方ではございません」
船宿では、その顔色をみて、あわてて返答した。
下村孫九郎は、この返事を次々に聞きながら、船宿を拾って歩いた。だんだん焦慮《あせ》っていた。
普通の事件ではない。中野石翁からのお声がかりであった。下村孫九郎のような下役人にとっては、雲の上のような権威だった。この間、上役に頼まれた菊川の死体始末の一件を無事に果したことから、今度は石翁の用人に直接呼ばれて、探索を頼まれたのである。
「仔細あって、正面から奉行には云わぬことにしてある。ご隠居様のご意向じゃ。手落ちなく働いてくれ」
用人は、向島の邸に下村孫九郎を呼び、そう頼んだ。
下村孫九郎は感激した。出世の蔓である。かれが真剣になるのは無理がなかった。
何軒かを歩き廻った末、下村孫九郎は、柳橋を南に下った、一軒の小さな船宿の表口から、ついと入った。
下村孫九郎の姿を見るとこの船宿のお内儀も、おはぐろの黒い口を笑わせて迎えた。
「いらっしゃいまし。昼間はなかなか暑さがおさまりません。旦那、暑い中を、ご苦労さまでございます」
「うむ」
むつかしい顔をして、
「お前のところで、昨夜、侍が二人、猪牙を出して向島まで行かなかったか」
「お侍さまお二人?」
お内儀は首を傾けて、
「いえ、昨夜はそんなお客さまはお見えではございませんが」
「確《し》かと間違いないか?」
怕い顔だった。下村孫九郎は、どの船宿でも、真実《ほんと》のことを隠しているように思えてならなかった。
「いえ、何で旦那に嘘を申し上げましょう。本当でございますよ。お侍さまお二人で向島までねえ……」
また首を傾げるようにしていたが、急に何を思いついたか、
「待って下さいまし。そうおっしゃられると、ひょっとしたら……」
「うむ?」
眼が輝いた。お内儀の唇に泛んだ意味ありげな薄笑いを見つめた。
「手前の店ではございませんが、和泉《いずみ》屋さんの舟が、何だかそんなお客を乗せたように、ちらと聞きましたが……」
船宿どうしは、いわゆる商売敵で内心では仲が悪い。与力が来て探索するくらいだから、悪いことにひっかかりがありそうだと、このお内儀は思ったらしい。
「おい、源公」
と男のような声を出して、裏の水の上で、舟の掃除をしている船頭を呼んだ。
「へえい」
船頭は鉢巻きを頭からとって近づき、お内儀とならんで立っている下村におじぎをした。
「お前、云ってたね。昨夜、和泉屋さんの芳公が向島で舟を下ろされ、歩いて帰って来ていたって?」
「へえ、そうなんで。あっしの舟に乗せて帰ってやりましたよ。お客はお侍二人で、酔狂なことをすると芳公はこぼしていましたよ」
それだ、と下村孫九郎は心で叫んだ。やっと見つけたぞ。今朝から暑い中を散々、歩かせられたが……。
下村孫九郎は、ふと眼に映るものがあって川の方を見た。屋形船が一艘、流れるように裏口をすぎたのだが、風のためか簾《すだれ》が舞い、乗っている客の姿が一瞬に見えた。着ている着物が派手な色だったので、眼を掠《かす》めたのだ。御殿女中一人と、男が一人、さし向いで乗っていた。
それが、西丸大奥づとめの登美と、添番落合久蔵だとは下村孫九郎が知る訳はなかった。
与力下村孫九郎は、その船宿をとび出すと、薄い夏羽織の裾を風に煽って、和泉屋に向った。目星がついて、急に元気づいたのである。
こういう場合の下村孫九郎は、自信がついて、態度もことさらに柔かいのである。餌のありかが分ったら、別にあわてることはないのだ。
彼のような役は、どこの水商売の家に行っても、笑顔で迎えられ、大事にされるが、帰ったあとは、その家から塩を撒かれることが多い。下村孫九郎はそれを知っているだけに、相手が相手なら、どうせ強面《こわもて》でおどしつけた方が得だと思っている。
「ご免よ」
と船宿、和泉屋の門口をやわらかい声でくぐったのは、胸に計算があってのことだった。
「おや、いらっしゃいまし」
ここでも、お内儀が、下村の顔をみて、愛想よく迎えた。
「暑いな」
と笑顔まで見せた。土間から二階に上れるよう、梯子段がついていたが、その下に男と女の履物がきれいに揃えてあるのを、下村孫九郎の眼はのがさなかった。
「こういう手合いは、近ごろ、よく来るのかえ?」
と眼で履物を指した。
「はい、ときどき、涼みにいらっしゃいます。二階は川風がよく入りますから」
「熱い仲だったら、少しは冷さぬともたぬだろうな」
下村孫九郎は、さっき見た屋形船の中の大奥女中の姿を思い浮べた。何となく面白くない。
「ご冗談を仰言います」
腰のものをはずし、上り框《かまち》に腰かけた下村に、お内儀は笑った。それから、うしろを向いて、眼顔で女中に知らせたのは、下村に出すものを命じたのだった。
「このごろ、商売は繁昌するかえ?」
下村は扇をつかって、気楽に訊いた。
「はい、夜がめっきり涼しくなりましたから、お客様の数も、がた落ちでございます」
下村は、そこに出された銚子の載っている膳をみて、
「こんなことをして貰っては、済まんな」
と素直に礼を云った。
「いえ、ほんの暑気払いでございます」
お内儀が頭を下げた。
「ところで、おかみ、いまの、夜の客が少いといった話だが」
盃を口に運びながら、
「昨夜、おまえのところの舟で、向島まで涼みに行った奇特な客はいなかったか?」
わざと相手の顔を見ないように下村は眼を盃に落した。
「侍、二人なんだがね。尤も、帰りは三人にふえたようだが」
お内儀の顔色が変った。