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かげろう絵図(上)~闇

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  闇 その夜、向島の中野石翁の邸では客があった。乗物が立派な割に供人の数が少い。どういうものか、乗物は玄関まで行かずに
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   闇
 
 
 その夜、向島の中野石翁の邸では客があった。乗物が立派な割に供人の数が少い。どういうものか、乗物は玄関まで行かずに、凝ったかたちで置いてある飛び石の途中で地にすわった。
 乗物の主はそこで、待っていたこの邸の家来に案内されて、別の方角へ歩いてゆく。
 客は、これ一人ではなかった。ほとんど、間の時間を置かずに、乗物が、一つずつ到着した。供数も少く、提灯も一つか二つなのである。
 判っていることは、これらの客が、石翁に急に呼ばれて茶会の集りに来た、ということだった。
 茶会だから、客たちの坐った座敷は狭い。四畳半に客四人と主人が詰めているのだから、ほとんど身体が隣客とつき合っている。
 亭主役の石翁は、例の十徳まがいのものを着て、風炉《ふろ》の前に坐っている。今、茶を点《た》てて客に出したところだった。
 夜の茶会は、あまり無いことだ。大きな燭台が一つ立っていて、亭主と客の、双方の半顔を照らした。
 上座の正客が、西丸老中林肥後守、次が御側衆美濃部筑前守、瓦島《かとう》飛騨守、竹本若狭守の順でならんでいた。
 末座の竹本若狭守が、黒楽《くろらく》を両手でかかえて啜《すす》り終ると、作法通りに、すこしにじり出て、結構なるお点前《てまえ》、と亭主に挨拶して納めた。
 石翁は茶碗に湯をそそぐと、大事そうに膝に置いて拭いた。
「さて、方々」
 石翁は茶碗を廻しながら、
「急な参会で、まことに申し訳ない。しかし、一刻も早く、方々にお眼にかけたい珍物が手に入ったことと、とかく、昼間は人目が煩《うる》さい。されば、ご不自由を承知しながら、かくは、今宵、お集り願った次第でござる」
 と、半分は詫びるように静かに云った。
「ご隠居様の左様なご斟酌《しんしやく》は恐れ入ります。なんの、われらとしては、一時も早く、その珍重な名物を拝見したい気持で、宙をとんで参りました」
 瓦島飛騨守が云った。うすうす、珍品の内容を承知しているような弾んだ声だった。
「左様か、それはご奇特」
 石翁は、口辺に微笑をのぼらせた。
「それでは、肥後殿」
 隠居は、林肥後守に眼くばせした。
 林肥後守が、うなずいて、己の脇に置いた帛紗《ふくさ》づつみを解きはじめた。細長い桐箱が出た。
 石翁は、それをうけとると、両手で持ち、箱に向って恭《うやうや》しく敬礼した。
「方々に申したい。この珍物は、本日、水野美濃守殿が西丸大奥にて掘り出されたものでござる。左様、お心得あるように」
 一座から、かすかな笑いが洩れた。
 石翁は、桐箱から奉書をとり出した。
「各々、ご覧あれよ」
 と、「上」と記した封をとって、なかをさらさらと披く。
 四人は膝をのり出し、眼を凝らした。
 一、大納言右大将、将軍職に被成候跡は加賀宰相斉泰嫡子松平犬千代丸を被成養子、成人の暁は右大将跡目と定め候様可然事
[#地付き]家斉(花押) 
 文字は乱れて、判読に苦しむくらいである。震える家斉の文字は、しかし、四人の眼には筆勢躍動しているようにさえ映る。
「なるほど、これは珍品でござる」
 林肥後守が、まず唸るように云った。
「苦心した」
 石翁が笑った。
「いや、美濃も難儀であったろうな。しかし、その甲斐があって、安堵した」
「何ぶん、めでたい」
 肥後守のあとについて、他の三人も、
「めでたい、めでたい」
 と口々に云いそやした。
「各々、かような珍品をお目にかけた以上、まずは安堵なされるがよい」
 石翁が、奉書を折りたたみながら云った。
「これさえあれば、本丸の大奥よりどのようなことを申そうと、われらにとっては蚊ほども痒くはない。大御所様御遺命とあらば、公方様も敵《かな》わぬ筈じゃ。方々、お気を強く持たれよ」
 その言葉に、来客の四人は、一様にうなずく。どの顔にも喜色が溢れていた。
「これからは、方々が心を一つになされ、加賀家より犬千代様を西丸に迎える工夫に力を尽されよ。これは、心得までに申し上げたいが──」
 石翁は声を低くした。
「典医常春院よりひそかに聞くと、大御所様のご寿命は、すでに先が見えているとのことでござる」
「折々のご様子で、ご衰弱は増しているようにお見うけしたが、医師は、はっきりしたところを、どう申しました?」
「まず、永くて、あと五、六十日」
 石翁は云った。一同は顔を見合せた。
「ご案じなさるに及ばぬ。たとえ、大御所様ご大漸の暁にも、この紙一枚がものを申します。ご遺命とあらば、何びとも逆えぬ道理でござる。ただし、これにたより過ぎて、手放しの安心は禁物でござるぞ」
 石翁は、大きな眼を、順に四人の顔に移し、戒めるように云った。
「どこから、いかなる敵が現れるかもしれぬ。油断はならぬ。すでに、その気配も、うすうすは見えている。充分に、心されよ」
 石翁は、墨附を桐箱に納めると、
「この品物は、当分、わしの手元で、珍重いたします」
 と道具を所蔵するように云った。
 
 闇が、この辺りを包んでいる。向島のあたりは、昼間でも寂しいところだ。田圃ばかりだし、この辺に多い植木屋の庭が、森のようになっている。
 新之助が、石翁の屋敷の前に佇んだとき、丁度、門の中から提灯が出てくるところだった。新之助は、誰にも見えないようにかくれた。夜だから楽である。
 提灯一つで、せいぜい二人くらいの連れかと思っていると、黒い駕籠《かご》が出てきたのは意外だった。人数も四、五人である。
 闇に馴れた眼で見ていると、武士ばかりで、駕籠を守るようにして土堤の方へ歩いて行く。こっそりとした行列である。
(なるほど、噂には聞いていたが、こうして夜でも音物《いんもつ》を運ぶものか)
 新之助はそう思った。石翁の邸に、出世病にとりつかれた大名どもが、賄賂《わいろ》を持ちこむという風聞は高い。それを眼前に見たのである。
 ひそかな駕籠の一行は、品物を届けた帰りであろうか。新之助が提灯の定紋を見ると、「|三盛橘」(みつもりたちばな)であった。
 どこの大名か、新之助には、咄嗟《とつさ》に心当りがない。いずれ、小藩に違いなかった。
 すると、間もなく、また門の中から、同じような駕籠の一行が出て来た。これも提灯が一つ、いかにも、あたりを憚った恰好である。定紋は「横木瓜《よこもつこう》」だった。
 大名に、横木瓜の定紋は二、三心当りがある。これも小藩だ。前の駕籠につづいて出たから、賄賂運びが、偶然に鉢合って、その帰りか、と思った。
 ところが、次に同じような駕籠が門から出てきた。この提灯の定紋は、「並鷹羽《ならびたかのは》」である。この一行も、土堤の方へ上って行く。
 おや、と思ったものだ。音物運びが、三家行き合うとは珍しい。それとなく、次を待っていると、それに応えるように、新しい提灯が門から現れた。定紋は「杏葉竜胆《ぎようようりんどう》」という珍しいものである。
 これも黒い駕籠を中心にして、四、五人の供侍が足音を忍ばせるようにして歩いて行く。
 それきりである。あとはそれで切れたことは、門の外まで見送っていた屋敷の者が、引っ込んだのでも分った。
 これは賄賂運びの使者でないことは、新之助も、はっきりと分った。何かの会合が、この屋敷の内で行われたのだ。四人の客は、その帰りなのである。
 客の素姓は分らない。低い身分でないことは、石翁の邸から乗物で出て来たことでも分る。
「三盛橘に横木瓜、並鷹羽、それに杏葉竜胆か。よし、覚えておこう」
 あとで武鑑《ぶかん》でもひけば判ると思った。
 新之助は身体を出して、石翁の邸の門を見上げた。
 
 島田新之助は、石翁の屋敷の中に塀を越えて忍び込んでいた。
 地面に降りたところで、しばらく立っていた。植木の茂みの中だし、発見されることはなかったが、そのかわり、こちらも邸内の様子がはっきり分らなかった。ただ広い面積にわたって、樹林と石とが、いやに多いことだけは、闇の中で判別できた。
 空の星が見えないのは、曇っているからではなく、立っている場所の上に、樹木が繁っているせいである。
 声も、音もしない。木の匂いがするだけである。
 新之助は、木蔭を出た。いくつもの棟が、黒い屋根となって配置されているが、どのような地理になっているのか見当がつかなかった。
 これも黒い地面に、ほそ長いかたちで小石が敷かれていた。この庭園は廻遊するように出来ているらしく、小石を敷詰めているのは、その道のようである。音がするのを避けて、新之助は道の脇を歩いた。土は柔かい。
 暗い中に、うずくまったり、立ったりしているかたちに見えるのは、石翁が好きで集めた石組みであった。それが、はてしなく続いている。
 小さい水音がした。魚のはねる音で、池が近いことが知れた。眼を凝《こ》らすと、石組みの間から、水がほの白く光っていた。
 新之助は岸辺まで行き、しばらく水面をながめていた。夜気が冷たいのは、秋のしらせである。
(菊川に水を飲ませたとすれば、この池よりほかはない)
 新之助は考えていた。人が立っていると知ってか、足もとに鯉が集っているようだった。小さな水音が頻《しき》りとする。
(良庵は、どこに居るのか)
 新之助が、いま考えているのはそれだった。
 菊川と同じ運命になったとは思えない。気をつけているが、その後、水死体が上ったという噂も事実も無いのである。敵は同じ方法を二度くりかえす愚はしない筈だった。
 では、別の方法で処分されたか、あるいは、生きて何処かに閉じ込められているか、である。
 この屋敷に良庵が連行されたことには確信があった。心配なのは、その後の消息である。一万坪以上のこの広大な屋敷内は、全く役人の眼からも世間の眼からも隔絶されている。何が起ろうと分らないのである。
 新之助は池をはなれて歩き出した。
 樹も、石も、家も、夜の暗黒の中に動かずに沈んでいる。新之助ひとりだった。
「誰だ?」
 不意に、うしろから声がかかった。
 そこは、特別に樹が多い径《こみち》であった。
 声は暗い木立ちの中から突然にかかったが、島田新之助は答えないでそのまま歩いた。
 当然に、こんな場合は予期されたから、新之助にかくべつの狼狽《ろうばい》はなかった。
「止れ、何者か?」
 声の主は木の葉を騒がせてうしろから出てきた。この屋敷を警戒している士《さむらい》の一人らしい。咎めても、相手が停止しないので、追ってきたようだった。
 それでも新之助は足をとめなかった。急ぐでもなく、ゆるめるのでもない。
「何者だ?」
 声がすぐうしろで鋭くなったとき、新之助は足の位置を斜めに変えた。
 相手はそこまで追ってきて、黒い影が不意に身体を開いて止ったので、ぎょっとしたようだった。
「だ、誰だ!」
 声が俄かに大きくなった。これは、はっきりと怪しい人物とみてとったから、その興奮と、屋敷の誰かにも事件を聞かせるためだった。
 新之助は、暗いところで笑った。
「無断で恐縮だが」
 おとなしく云った。
「お庭を拝見に参った者です。名前を申し上げても、とても内へは入れて貰えぬ身分ですからな」
「やあ」
 士は上ずった声を上げた。
「こ、断りもなく、夜ぶんに!」
「無断で参ったとは申し上げた。中野石翁殿のお庭はあまりに高名、一目拝見したいとかねて念願していましたが、まともにお願いしても、とても望めぬところ、諦め切れずに夜ぶんながら推参いたしました。失礼は重々承知、さりながら数寄者の気持をお察し下さい」
 警戒の士が呆気にとられたのは、相手が中野石翁の屋敷と承知して忍び込んで来たことである。声から判断すると、若い男らしいが無知なのか不敵なのか分らなかった。
「名乗れ」
 士は命じた。
「名乗ってもお役には立ちますまい。それよりも、夜のお庭を、もそっと拝見仕りたい。どうかお許しを」
 新之助はそれだけ云って歩こうとした。
 横着な曲者と士にはじめて分ったらしい。
「おのれ」
 と呶鳴《どな》ると、うしろから襟首《えりくび》のあたりを掴んだ。
 新之助の身体が低く沈み、士の身体は宙を舞って地面を叩いた。そのとき足音が逃げた。
「曲者」
 士は這い起きながら叫んだ。
「曲者でござる。方々、お出会いなされ」
 士は闇の中を連呼した。
 新之助は逃げる足をとめた。
 便利のいいことは、この屋敷が樹林のように木の多いことである。隠れる場所にはこと欠かなかった。
 耳を傾けるまでもなく、屋敷の内に騒動がひろがっていた。
「曲者だ、出会え、出会え」
 と呼ぶ声がしきりとする。
 方々に雨戸を開ける音がして、
「どこだ、どこだ」
 と騒ぎながら出てくる人々の声が入りまじった。
「明りだ、明りをつけろ」
 甲高い声だった。
 間もなく、提灯の火がいくつもつきはじめた。新之助がひそんでいる黒い木立ちから、それは絵のように眺められた。
 提灯の群がかたまっているのは、何か捜索の相談をしているらしい。ひとりの声が何か性急に喋《しやべ》っていた。
 すぐに提灯のかたまりは二つに別れた。一手は横に流れて行き、一手はこちらに向ってきた。
「まだ若い男のようでした」
 新之助に投げられた男の声が説明していた。
「人相や風采は分らぬか?」
 太い声が訊いている。
「それが、なにぶん暗いので」
「たしかに、こっちの方へ遁《に》げたのだな?」
「そうです」
 提灯をもった男たちを先に立て、七、八人の影が探索に来ていた。槍を抱いた者もいる。
 広い屋敷だから、二手に別れたのであろう。別働隊の提灯が木の間から動いてみえた。捜しながら、中心を包囲するつもりらしい。遠くの方にも人声がしている。
 新之助のひそんでいる場所は、すぐに危険になった。一隊が近づいてきたからである。が、これは新之助がほかの場所に移ることで当分は安全だった。
 しかし、姿を見せないで、匿《かく》れるだけが新之助の本意ではなかった。妙な勇気からではなく、或る計画があったからだ。
「よく、明りを照らして見い」
 こっちに来る人数の中で、太い声が指図していた。提灯は横列になって散開していた。
 新之助は、木の影から出て行った。それが提灯の灯の真正面だった。
「あっ」
 と声を立てたのは、相手の方だった。提灯は棒立ちになったものだ。つづいて六、七人の人間が、はっとしたように動きをやめた。
 姿だけを見せておいて、新之助は背中を返すと一散に木立ちの中に逃げた。
「曲者」
「居たぞ、こっちだ、こっちだ、追え」
 それからが騒動である。提灯が乱れて動き、激しい足音が地面にひびいた。
 
 石翁は眼をさました。遠くで騒ぐ声がする。年寄りだから眼ざめが早い。
 客を送り、寝ついたばかりだった。石翁は暗い中で眼をあけ、耳をすませた。騒ぐ声は大きくなってゆくが、何が起ったか分らない。
 横にいる妾《めかけ》はまだ眠っていた。寝息がつづいている。
 石翁が最初に考えたのは、盗賊でも入ったのか、ということだった。番人に見つけられて、それで家来たちが騒ぎ立てているのかもしれない。
 そのうち、鎮まるだろうと思っていると、人声はなかなか止まない。庭の方を大勢で駆けている音さえする。
 はてな、と思っているとき、廊下を踏んでくる足音がした。
「お眼ざめでございますか?」
 襖の外で家来の声がした。
「何じゃ?」
 石翁は寝たまま答えた。
「怪しい者が忍び込みました。ただ今、皆でお庭の方を探しております」
 家来は襖越しに報告した。
「盗賊ではないか?」
 石翁がきいた。
「左様には思えませぬ。風体《ふうてい》から見て、武士のように考えられます」
 武士と聞いて、石翁の胸に咄嗟にきたのは、家斉の書状のことだった。今宵、四人の客に披露して喜び合ったお墨附を自分が預かっていることだ。それを狙って来たのか。
 しかし、これは、いかにも早すぎるので、自分で否定した。
 問答の声が耳に入ったのか、横に寝ている妾が眼をさました。
「お起き遊ばしますか?」
 妾が小さい声で石翁に訊いた。
「うむ」
 妾は起き上り、枕元の絹|行灯《あんどん》に火を入れた。女は、手早く、寝巻きの上から着ものを被て、石翁の身支度を世話した。
 石翁が襖を開けると、家来は廊下にうずくまっていた。
「曲者は、二人か三人か?」
 石翁はその頭の上から訊いた。
「一人のようでございます」
「一人……?」
 急にむつかしい顔になった。たった一人で、この邸内に踏み込んで来たことに侮辱を感じたようだった。
 黙って歩き、雨戸を開けたところから、外を見ると、闇の中に、いくつもの提灯が動いていた。
「左内、左内はおらぬか?」
 石翁は、そこにいる男たちの影に向って呼んだ。
 ひとりが走ってきた。
 新之助は逃げた。逃げては、地上にひそみ、捜索隊の行動を眺めては別のところに移った。
 屋敷が広いから便利である。
 それに、相手は提灯を持っており、多人数だから、移動がはっきりと分るのである。それを見て、こちらは立廻ればよい。ひとりだし、闇が身体を包んでくれている。
 新之助が、考えているのは、生きているとすれば、良庵がこの屋敷の何処かに抑留されていることだった。
 それを探し当てるのは、大へん困難だ。屋敷の地理にも暗い。この黒く沈んでいる屋敷の中のどこに見当をつけていいか分らない。
 しかし、良庵が匿されているとすれば、敵の側に何かの反応がある筈であった。得体の知れない人間が侵入した場合、敵の関心は抑留者の居る場所に向うはずだった。敵側の誰かがその防衛に走らなければならない。
 新之助は、新しく移った場所にひそんで、その起るはずの現象を待って、見まもっていた。藪蚊が耳もとで唸った。
 期待した様子は起らなかった。敵は、侵入者の捜索に専心していた。提灯と人数の動きはそれ以外にないのである。
 いつまでも此処にひそんでいることが、意味のないのを新之助は覚った。彼は建物の方へ歩いた。
 建物に向っては、小川のような恰好でとび石が道をつけていた。夜の暗い中に見るのだが、何もかも瀟洒《しようしや》に出来ている。奇怪な石は、到るところに置かれてあった。
 低い結垣《ゆいがき》があったり、こんもりした植込みがあったりする。提灯の灯《ひ》は、まだ離れたところを歩いていた。
 新之助は、突然、足に棒が挾まるのを感じ、危く前に仆れるところだった。そこへ背中に圧力を感じた。
「待て」
 組みついた男は力があった。
 新之助は引き倒されそうになったが、わずかな隙が、相手の力を利用する余地を生じさせた。技《わざ》をかけた瞬間に、大きな男は地上にもんどり打った。
「曲者」
 男は叫んだ。
 新之助は、わざと足音を高くして逃げた。
「曲者。曲者は、こっちだ。こっちだ」
 男は喚《わめ》いた。
 遠くの提灯が一挙に揺れてこちらに走ってくるのが分った。
「居たか! どこへ行った?」
 捜索隊は勢いこんで叫んだ。
 新之助は外塀の上に、よじ登った。星が何物にも妨げられずに、頭上いっぱいにあった。樹の多い屋敷の内では騒ぎがつづいている。
 新之助は、この屋敷を攪乱《こうらん》したことで満足した。
 
「面白い」
 島田又左衛門は、座敷で双肌《もろはだ》を脱ぎ、団扇《うちわ》を使いながら甥の話に笑った。西日が射し込んでくる座敷で残暑が厳しい。ろくに手入れもしない古い家で、雨が降ると、盥《たらい》を持ち出さなければならない個所もあるのだ。
「よく、ひとりで石翁の邸に入ったな?」
 片手を膝の上に立てて甥に云った。
 新之助は黙って笑っている。
「それで、医者の所在は、とうとうつかめなんだか?」
「分りません」
 新之助は首を振った。
「ただ、騒がせただけだな?」
「騒がせただけでいいのです」
 新之助は微笑を消さないで答えた。この意味を叔父の島田又左衛門は解さなかったらしい。
「どういう訳だ?」
「もし、良庵が石翁の邸に閉じ込められているとすると」
 新之助は理由を説明した。
「得体の知れない者が侵入したとき、まず良庵に係りのあることだと相手は思うでしょう。探しに来たか、奪い返しに来たか、とにかく良庵に関係のある男が来たのではないかと疑うに違いないと思います。すると、良庵を閉じ込めた場所を、もっと厳重にするか、あるいは、ほかに移すかするだろうと考えます。それを見張れば、良庵の安否が判断出来ます」
「見張る?」
 又左衛門は団扇の手を止めた。
「何処でだ?」
「石翁の邸です」
「また、行くのか?」
 又左衛門が眼をむいた。
「今夜です」
「昨夜《ゆうべ》の、今夜だぞ?」
「だから都合がいいのです。何か、あるとすれば今夜です」
「しかし、昼間かも分らない」
「昼間は、何もしないでしょう」
 新之助は、自分の推測を云った。
「邸の中でも、事情を知られてはならない雇人が大勢居ると思います。そういう意味で、良庵の生命は、まだ無事だと思うんです。まさか、白昼、邸内で人殺しも出来ないでしょう。石翁の体面がありますでな。また、死体の始末も考えねばなりませぬ。手前は、相手が処置を思案しながら、良庵をまだ無事に留め置いていると思います。だから、昨夜の騒ぎで早く片づけたいと相手が考えたとすれば、今夜あたりにその変化が起りそうです」
「うむ、面白いな」
 又左衛門が身体を乗り出した。
「新之助、今夜、おれも連れて行け」
 両国の舟宿に島田又左衛門の知った家《うち》があった。そこから小舟を出させたのは暮六ツを過ぎてからだった。
「夕涼みには、少し寒うござんせんか?」
 舟宿のお内儀《かみ》は、行先が向島までの川遊びときいて、真黒い歯をこぼして笑った。
 又左衛門と新之助がその舟から昏《く》れかけた川景色をおとなしく眺めていたのは吾妻橋あたりまでだった。
「その辺につけてくれ」
 と又左衛門が船頭に命じたのは橋をくぐってからである。
「少し用事があるので、気の毒だが、お前は陸《おか》から舟宿に帰ってくれ」
 又左衛門は船頭に云った。知った客だし、舟を貸すことに不安はないのだが、漕ぐ方が心配だった。
「旦那、これは?」
 と、船頭が櫓《ろ》を指すと、こいつが出来るのだ、と又左衛門は若い男の方をあごでしゃくった。
 船頭をそこで下ろし、新之助が櫓をにぎった。船頭が岸から見て呆れたのは、なるほど若い男は確かな腕なのである。訳もなく、舟を中流に出して行った。
 新之助が漕いでいる舟は、三囲《みめぐり》の森をすぎた。あたりは昏れて、わずかに空に残った明りが水の上にうすい光となっていた。
 向島堤の樹も、黒い影でしかない。舟の進行につれて、それはゆるやかに動いた。やがてこの辺には珍しい大きな屋根が見える。
「ここらで、よかろう」
 と、その屋根を見て又左衛門が云った。新之助は櫓を動かす手をとめた。
「まず、一服というところだな」
 又左衛門が呟いたが、気づいたように、
「いけない、莨《たばこ》の火も禁物だった」
 と苦笑した。
 屋根は石翁の屋敷だった。川から見ると、これもすべて黒い影だが、向うからこちらの存在を悟られてはならないのである。
「新之助、ここで見張って大丈夫かな」
 又左衛門は、屋根の方を見ながら、小さい声できいた。
「いや、良庵を先方が連れ出すとしたら、陸もあることだし、舟とは限るまいが」
 尤もな心配だった。川ばかり警戒していても、田圃道を駕籠で行く方法もある。敵が良庵を別な場所に移すことを予想して来たのだが、方法は必ずしも舟とは限らないのである。
「十中八九、舟を使うと思いますが」
 と新之助は、舟が流れぬように櫓に手をかけて云った。
「万一、陸の道をとりましても土堤の上を通ることになります。ここからなら、土堤もまる見えです」
 そうか、と又左衛門はうなずいた。
「さて、いつごろ、出て来るかな」
 日は急速に昏れてきて、あたりは完全に暗くなった。水面はただ黒い色だけに変った。もとより、こちらは灯をつけない。無灯火は法度《はつと》だが、知っての上だった。
「叔父上」
 櫓を握っていた新之助が云った。
「今夜はこうして夜中まで涼んで頂かねばなりませんな」
「分っている」
 叔父の又左衛門はすぐに答えた。
「いつまでも待っていよう。相手が出てくるまではな」
 眼を放って、肩を張った。
 石翁の屋敷の位置は、小さな入江になっていて、そこが屋敷までの水路になっている。石翁が常から用いる屋形船をはじめ、二、三艘の小舟が舫《もや》ってあるのだ。登城の際に乗るこの屋形船は、ぎやまんの障子を立てた自慢のものだった。
 暗い中で、水路の方を透かして見たが、まだ動いている影はなかった。
「今夜が駄目なら、明晩も出直して来る。一つ、釣竿でも提げてくるところだった。退屈しないようにな」
 新之助は闇の中で微笑した。
「明晩まで待つことはないでしょう。出る、とすれば必ず今夜です」
 そう云ってから、新之助は気づいたように、
「待つといえば、叔父上、あの水死体の返事はどうなりました?」
「それよ」
 と又左衛門は云った。
「早速に、脇坂殿に注進しておいた。淡路侯も、ひどく熱心になられての、配下の者をあつめて下知されたようじゃ。なに、ほかの寺に移送すれば、すぐに調べがつく筈じゃ」
 新之助は、それを聞きながら黙っていた。それから、何か考えていた。
「脇坂殿は申された」
 又左衛門はつづけた。
「それを押えれば、大奥女中の風儀を糺明する決め手の一つになると、よろこんでおられた。そうもあろう、西丸の中臈が身重で死んでいたとなれば、由々しき大事じゃ。誰か知った者を呼んで菊川を確認させ、動かぬ証拠になされよう。それから先は、脇坂殿の貂《てん》の皮の采配次第じゃ。いや、新之助、そのほうのお蔭で面白うなりそうじゃ」
 又左衛門が、ひとりでしゃべるのを新之助はおとなしく聞いていたが、
「叔父上、菊川の死体は果して別の寺の墓地に移したでしょうか?」
 ときいた。
「なに?」
 又左衛門が、どきりとしたように訊き返した。
「なんと云った?」
 島田又左衛門は舟に坐って反問した。
「菊川の死体が、べつの寺には行っていないって?」
「そういう気が、いま、ふと、したのです」
 新之助は櫓を軽く動かして云った。
「竜沢寺に仮埋葬したまでは確かです。しかし、それから先、どこかの寺に移したと思いこんでいましたが、すこし、違うかも分りませんな」
「ふむ」
 又左衛門は、身体を前に寄せた。
「それは、またどうしたことから、考えついたのか?」
「いまだに、寺社係りの方に、その届けが出ないからです」
「しかし、まだ日が経っていない。明日にでも、脇坂殿の手もとに報告が届くかも分らぬぞ」
 これに対して、新之助は、すこし黙っていたが、また口を開いた。
「寺社奉行所の仕事は、わたしにはよく分りませぬが、調べるとなると、二日も経たぬうちに、支配下の寺から分るのではありませぬか。寺社奉行の名で、寺院に触れを廻す。これは、すぐに届出があると思いますが」
「ふむ」
 又左衛門は考えたようだったが、
「しかし、広い江戸には寺も多いでな」
「お言葉ですが」
 新之助は遮《さえぎ》った。
「掘り出した死体を運ぶのです。竜沢寺を中心にして、そう遠くへは参りますまい」
「なるほど」
 又左衛門は考えるように黙った。すこし、不安になったようだった。
「新之助、すると、お前の考えは?」
「いや、そこまでは分りません。ただ、寺社方に未だに届出がないところから、そう思っただけです」
「一理ある」
 又左衛門は急に云った。
「細工に念を入れる敵のことだ。そりゃア分らんな。そうか、なるほど」
 ひとりでうなずいた。
「よし、万一、明日も届けが出なんだら、脇坂殿に知らせてやることだな」
 その言葉の語尾を、川面をそよぐ風が消した。
 堤の方に、一つ、提灯が動いていた。又左衛門も新之助も緊張したが、これは町人ひとりが歩いているようだった。
 新之助は、その提灯の灯を見ていたが、あることを思い出したように、
「あ、叔父上、早く申し上げたいことを失念していました」
「ほう、何じゃ?」
「昨夜、石翁の屋敷の前で、妙な定紋の提灯を見ました」
「妙な定紋とは?」
「石翁の屋敷に入る前でしたが、門の内から提灯が四つ出て参りました。見ていると、それが四つの駕籠なのです」
 新之助は又左衛門に説明した。
「四つの駕籠。では、提灯は別々のものなのか?」
 又左衛門は反問した。
「はい、隠密な一行ということは、供廻りの人数の少いのでも分りました」
「うむ、うむ」
 又左衛門は眼を光らせて聞いている。石翁の屋敷から出て来たというだけでも、身体を乗り出しているのだ。
「ところで、その提灯についた定紋ですが、先ず一番に出たのが、三盛橘と見うけました」
「なに、三盛橘?」
「はい、次が横木瓜、並鷹羽、杏葉竜胆の順です」
「三盛橘、横木瓜、並鷹羽、杏葉竜胆……」
 又左衛門は復唱するように云ったが、突然、膝を大きく叩いた。そのため舟が揺らいだくらいだった。
「うむ。三盛橘の定紋は西丸老中林肥後守じゃ。横木瓜は美濃部筑前守、並鷹羽は同じく瓦島飛騨守、杏葉竜胆はたしかに竹本若狭守だ」
 すらすらと云ったものだが、声は興奮していた。
「いずれも西丸の奸物ども、お美代の方の息のかかった連中じゃ。それが、隠密に石翁の邸に集まったのか。はてな、何のための会合だろう、それだけの人物が一どきに集まるとは」
 又左衛門は懸命に考えていた。
「いや、集まったのではあるまい。石翁が呼んだのであろう。そうだ、確かに石翁が集めたのだ。すると、待てよ、水野美濃守が一枚欠けているが、これは大御所様のご病床に附き切りだからお城を出られぬ。が、まず、同じ気脈を通じているとみてよい。何だろうな、その会合は。無論、密議には違いないが」
 又左衛門は頭を抱えた。
「はて、今ごろ相談とは……」
 新之助は考え込んでいる又左衛門に声をかけた。
「叔父上。世上では、大御所様のご容体がお悪いように噂していますが、もしや、その会合が、そのことにかかっているのではございませぬか」
「うむ、うむ。わしも今、それを考えていたところだ。しかし、何を思いついて集まったのか。これは大事じゃ。たしかに容易ならぬ企らみをしているぞ。脇坂殿にも伝えておこう」
 又左衛門のその言葉を、突然、新之助が遮った。
「叔父上。あれを……」
 と低い声で、何かを指さして注意した。
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