島田又左衛門は、寺社奉行の脇坂淡路守をその役宅に宵から訪ねて対談していた。
部屋には二人だけで、人払いがしてある。
淡路守は疲れた顔色で役所から戻ったのだが、又左衛門が来ていると聞いて、夕食を後廻しにして、すぐにこの部屋に通したのだった。
近侍の者がくんできた茶は、両人《ふたり》の間に、とうに冷えている。屋敷の庭の草むらからは、早くも虫の声が聞えていた。
「一番に出たのが、三盛橘、次が横木瓜、並鷹羽、杏葉竜胆……という順だな」
淡路守は、又左衛門の言葉を口の中でくり返した。
「左様。林肥後守、美濃部筑前守、瓦島飛騨守、竹本若狭守、という順でしょうな」
又左衛門は答えた。
「うむ」
淡路守はうなずいて、
「まず、それに間違いあるまいが、その連中が宵に揃って石翁の屋敷に集まった目的は何だろうな?」
と深い眼つきをした。
「手前にも、それがよく分りませぬ。しかし、お美代の方の、いや、石翁の息のかかった歴々が揃いも揃って参会するのは、ただごとではないような気がします」
「うむ」
淡路守は遠い眼ざしをしていたが、
「一人足らぬが……」
「左様、一人足りませぬな。水野美濃守が足りませぬ。しかし、これは大御所様のお傍から離れられぬのではございませぬか?」
「それもある。聞くところによると、大御所の御病気は、また重くなられたそうな」
「世上にも聞えております」
又左衛門は引き取った。
「将軍家が日に三度もお見舞に西丸に成らせられるとか、御典医は全部大奥に禁足だとか、ひそひそ噂しております」
「まさかそれほどでもないが……」
淡路守はかすかに苦笑した。
「しかし、いくら洩れぬようにしても、世間というものは、いつの間にか何でも心得ているようじゃ、諸人のカンは怕《こわ》い。実を申すと、大御所様のご大漸《たいぜん》は近い、とわれらも考えている」
「やはり、そうでございましたか」
島田又左衛門は淡路守の眼を見つめた。
「淡路様。これは手前のカングリかも存じませぬが、石翁が林肥後以下を俄かに呼び集めたのは、大御所様ご容体に係りのあることではありませぬか?」
「うむ。わしも同じことを考えている。それに、不参の水野美濃守がご病床の脇から、これに一役、加わっていそうだな。いや、案外、かれが、その参会の真の主人かも知れぬぞ」
石翁邸の集会の真の主人公は、重態の家斉の傍に附き切っている水野美濃守であろう、という淡路守の言葉は、又左衛門に或る暗示を与えて彼の顔を緊張させた。
「すると、美濃めが、ご容体にことよせて、何か画策でも致しましたか?」
「その辺のところだろう」
淡路守は、うなずいた。
「いや、わしは、もっと重大に考えている」
「重大と仰せられると?」
「まず、大御所様より、お墨附ぐらいは頂戴したかもしれぬ」
「えっ、お墨附?」
又左衛門は愕いて淡路守を見つめた。
「うむ。石翁が腹心の輩《やから》を俄かに集めたのは軽々しいことではあるまい。美濃がそれを手に入れたので、林肥後あたりが持参し、一同で拝見したものかもしれぬな」
淡路守が重い口調で云った。
「しかし、淡路様、もし、左様なことが事実なら、お墨附の内容によっては、容易ならぬことでございましょう」
「うむ、これは、わしの当て推量だが、大御所ご遺命として、前田犬千代君を西丸に迎えよという一条ぐらいは書いてあろうな」
「左様なことが、美濃の奏請で出来ましょうか?」
又左衛門は半信半疑の面持ちでいた。
「出来る」
と淡路守は断言した。
「ご病気以来、美濃は寝食を忘れてお傍で看護している。ご病間に詰めるのは、美濃とお美代の方、ただ二人と聞いた。余人は誰も寄せつけぬ。公方さまのお見舞も、美濃の計らいでなければ自由にならぬそうな。まして、本丸の老中、若年寄共が目通り叶うはずがない。いわば、ご病中の大御所様は、美濃に操られている子供も同然じゃ。左様なお墨附を頂くぐらい、さほどむつかしくはあるまい」
「うむ、そう承ると、うなずけぬことはありませぬが……」
又左衛門は興奮して顔が赭くなっていた。
「しかし、それは一大事。もし、真実にそのようなお墨附が、向う側に渡っていると、大御所様ご他界後でも彼らの勝手放題、ご遺命を楯にどのような野望でも遂げられるわけですが」
「うむ、一応その通りだが」
淡路守は、かすかに首を振った。
「しかし、大御所様ご他界になれば、たとえお墨附なりとはいえ、さほどの効力は持つまい。恐れながら権現様ご遺命とは格段に違う。その辺のところは石翁も知っているであろう。されば、かれらの考えているのは、大御所様ご存命中に、本丸にこれを確認させ、前田犬千代君の西丸入りを実現させたい肚《はら》であろう。これは、かれらは動くぞ」
家斉の寿命が短いとみて石翁一派が活溌に動く、と淡路守は云った。
「しかし、こちらにも方法がある。その前に叩き落すことだが」
島田又左衛門の不安げな顔を見て、淡路守は半分慰めるように呟いた。
「例のことでございますな」
又左衛門は身体をすすめた。
「何か、よいお目当てでもつきましたか?」
「うむ」
と、これは渋い返事だった。
「お美代の方の鼻息をうかがう女中めが、近ごろはいい名目を見つけおっての、大御所様ご不例平癒の祈祷を、諸所の法華寺《ほつけでら》に頼みおる。そこで女中共が何をしおるか、およそ分るが、残念なことに、未だ実証が手に入らぬ」
「実証……でございますか?」
「うむ。表向きはご平癒祈祷であり、なかには中臈の代参もあるので、いかにわが支配とはいえ、むやみと寺に踏みこむ訳にもゆかぬ。みすみす判っていながら、何とも手を下すことが出来ぬ。何か、実証さえ掴めば、すぐに処分が出来るのだが、わが配下には、それを探索して掴んでくるだけの腕の立つものがおらぬでの」
淡路守は無念そうだった。
「一つの例を申そうなら、あの菊川と申す大奥女中の死体の移し場じゃ」
「おお、そのこと、あれは如何なりました?」
又左衛門は膝をすすめた。
「分らぬじまいじゃ」
「え、分りませぬか?」
「御府内の寺にいちいち当らせたが、さらに手がかりがない。いずれの寺も、改葬の覚えがないと申し立てている」
「はて」
又左衛門は額を押えた。
「それも徹底しては洗えぬのじゃ。わしには、それだけの配下が居らぬでな。それさえも出来ぬとは、寺社もつくづくと情ない。さればと申して、南北の町奉行所も、このことだけは一向に頼んでも力を貸してはくれぬ。石翁の挨拶が渡っているものと思う」
「やれやれ」
又左衛門は失望を見せた。
「菊川の一件が、一つの確証と存じましたのに、それが掴めぬとは無念でござる」
「まして、大奥と坊主の実証を握るのは、それ以上にむつかしい」
淡路守は吐息をついた。
「石翁の動きを封じるには、お美代の方の周囲から追い落すほかはない。その責めで、林肥後を失脚させ、美濃を落し、順次にお美代の方の手足をもいでゆく。わしの構想はそれだったが、肝心の実証が取れぬままでは、どうにもならぬ。……又左殿、貴殿の姪御《めいご》からは、その後、何も云って来ぬか?」
縫から何か情報はないかと淡路守に云われて、又左衛門は眉をひそめた。
「いまだ、しかじかとは云って参りませぬ」
淡路守は小さくうなずき、
「なかなか思うようには参るまい。なにせ、むつかしい仕事だ」
と云い、
「実は、姪御の働きをわしは心の恃《たの》みにしていた。藁《わら》でもつかむ気持だが、これは誤りであった。ほかに協力するものがあれば、ともかく、女ひとりで容易に出来ることではない」
と嗟嘆《さたん》した。
「そう仰せられると、拙者も面目ない」
又左衛門はうつむいた。
「性来、勝気な娘ゆえ、何とかやってくれると思いましたが……」
「又左衛門殿」
淡路守は、それを聞くと、屹《きつ》とした顔つきをした。
「はあ?」
「石翁の方が動くとなると、こちらの手段も急を要する。坐って待っているわけにはゆかぬ」
意味は、縫のことを云っているのだと又左衛門には分った。
「女中と坊主の不始末は、かくれもない事実だ。この確証を早く姪御に握ってもらわねばならぬ。これが第一」
「はあ……」
「その実証さえあれば、わしは徹底して叩ける。ついては、わしが不審に思うのは、女中どもの寺詣りだが……」
「………」
「代参と申しても、月に二度くらいがせいぜいじゃ。不義に狂った女中どもが、それだけで満足する筈はない。必ず、どこかに抜け穴をつくって出て行っていると思う。これを探って取り押えることが肝要じゃ。姪御に働いてもらいたいのは、これだ」
「なるほど……」
「それから、不義の証拠を集めて貰いたい。たとえば女中共から坊主に出した恋文、もしくは、坊主が女中どもに宛てた恋文じゃ。これも手に入れば、否応を云わせぬ実証となる」
又左衛門は、眼を輝かして深くうなずいた。
「とは云え……」
と淡路守は沈んだ表情でつづけた。
「姪御に、それがやすやすと出来る道理はない。この探索は生命《いのち》がけじゃ。それも、女の生命。これを賭けなければ、そこまでは踏み込めまい。女の生命を賭けてまで、それをやってくれとは、わしの口から云えぬので、今まで黙っていたが……、又左殿、事態が切迫した今だから、初めて申すのだ」
神田|馬喰町《ばくろちよう》に住む鳶職六兵衛が、島田又左衛門の訪問をうけたのは、日が暮れかかってからであった。
六兵衛は一仕事済まして、これから風呂に行くつもりでいるところへ、若い者が、
「親方、麻布の殿様がお見えになりました」
と報《し》らせてきたので、びっくりしたものだ。
あわてて、門口に迎えに出ると、実際に島田又左衛門が立っていた。
「おお、こりゃア」
と六兵衛は叫んだ。
「殿様でございましたか。ようこそ、おいで下さいました。きたねえところに、わざわざ恐れ入りました。さあ、どうぞ。……おい、おい、早えとこ奥の方を片づけろ」
六兵衛は、きりきり舞いをした。
「構わないでくれ」
又左衛門は六兵衛のあとから奥に通った。
狭い座敷だが、きちんと片づいている。主《あるじ》の性質が表われて、商売物の植木のならんだ庭も、塵一つ無いように掃かれてあった。
六兵衛は律義者らしく、着物を着替え、羽織まで被《き》て、改めて又左衛門の前に手を突いた。
「殿様。よくお越し下さいました。何の御用か存じませぬが、一口、声をかけて下されば、お屋敷にすぐにとんで参りますものを、わざわざのご入来は、全く恐れ入りました」
「急に思いついて来たのだが、騒がせて済まぬ」
又左衛門は会釈した。
そこへ六兵衛の女房が茶をもって挨拶に来たが、これは亭主の眼顔ですぐ退散した。
「六兵衛」
茶を一口すすったあと又左衛門は云った。
「わしは、今、芝口からの帰りだ」
「え、それでは脇坂様へ……?」
「うむ」
重くうなずいて、
「例のことで、淡路守殿も大そうな心配だ。わしも、いろいろと云われてきた。どうやら、ここらで奮発せねばならぬことになった。いや、奮発を頼むのは、縫のことだが」
「お縫さまに?」
「どうも、あれ以来、はかばかしいことを云って寄越さぬ。女ひとりで、容易ではないと思うが、事態は容赦なく切迫している。そこで至急に連絡をつけたいが、ここに、お文を呼んでくれまいか?」
「妹でございますか。へえへえ、そりゃ訳はございません。近うございますから、すぐに呼びにやらせます」
六兵衛は手を拍《う》って鳴らした。お文というのは、六兵衛の妹で、小間物屋である。
女房が障子の間から顔を出すと、
「おい、お文をすぐに呼びにやれ。何でもいいから、そのままで素っ飛んで来いと云ってやれ」
「六兵衛」
使いが出たと知ってから、又左衛門は云った。
「硯《すずり》と紙とを貸してくれぬか」
「へえへえ」
これは六兵衛が自分で起って取りに行った。
「ろくな筆はございませんが」
「手間をかける」
又左衛門が巻紙を手にとると、六兵衛は、そっと行灯を近づけた。
又左衛門は筆を紙につけた。長い手紙である。六兵衛は、その間、黙ってかがみ煙管《きせる》に火をつけていた。巻紙がとけていく音が、かすかにする。
かなり時間が経って、又左衛門は筆を措《お》いた。書き終った手紙を、巻き返し、封をした。
「終った」
と又左衛門は六兵衛を見て云い、
「お文に、これをことづけたいのだ」
と茶をのんだ。
「お縫さまにでございますね」
六兵衛は煙管をしまい、又左衛門の顔を見上げた。
「殿様」
「うむ」
「お縫さまも大変なご苦労でございますな」
「………」
「こりゃア手前などが申し上げる筋じゃあござんせんが、すこし、お可哀想な気がいたします。あの年齢《とし》ごろで、ちっと荷が重うはございませぬか?」
又左衛門は返事をしなかった。
「もう、お城に上られて、一年と半年は経っております。初奉公の辛さの上に、重い役目を云いつけられてどのように苦労をなされていることやら……」
「苦労は、当人が初めから覚悟していることじゃ」
又左衛門は、ぼそりと答えた。
「そりゃ、ま、その通りでございますが、なにしろ大奥のことは、こみ入りすぎて、若い娘御がひとりで何をやろうたって、たやすく出来る話じゃございません。いまだに目ぼしい報告《しらせ》が来ぬのも尤もでございます。それを、この上、お苛《いじ》めになるのは、お可哀想でございます」
「苛める、と申すか?」
又左衛門は、きらりと眼を光らせた。
「いえ、出過ぎた言葉を申し上げて、恐れ入りますが」
六兵衛は、古い職人らしく落ちついて云った。
「お可哀想と申し上げたのは、ほかでもございません。殿様も、脇坂様も、どうやらお縫さまだけをたよりになすっていらっしゃるように存じますが、それが、あの方にとって重い鎖となっております」
縫には、又左衛門の命じた役目が重い鎖となっていると、六兵衛は、はっきり云った。
又左衛門はそれを聞くと、眉の間にかげをつくった。
「六兵衛」
彼は沈んだ口調で云った。
「それは、そちから云われるまでもないことだ。縫ひとりにたよるのは心苦しい。いや、卑怯かもしれないが」
又左衛門は眼を閉じた。
「しかし、止むを得ないのだ。われわれの手ではどうにもならぬ。縫には重荷だが、それは、彼女《あれ》も覚悟をしている。もう、申すな。大事の前には、小さな心遣いは禁物だ。かえって、当人のためにならぬ」
六兵衛は何か云いかけたが、又左衛門の苦しそうな顔を見て、言葉を控えた。律義な男で、島田又左衛門を出入り先の殿様というより、主筋の人間のように考えている。
「殿様がその思召しなら」
六兵衛はうつむいて云った。
「手前などが、どう申し上げようもございませぬ。ただ、この上は、縫さまのお身をご大切に願うだけでございます。殿様、これだけは、きっと手前からお願いしとうございます」
「分っている」
又左衛門はうなずいた。
「六兵衛、そちの気持はありがたい。縫はわしにとって可愛い姪だ。危い真似をさせる筈はない」
が、その言葉と違って、又左衛門の顔色は冴えてはいなかった。瞳《め》が重くすわっていた。
「それを承って、手前も安堵いたしました」
六兵衛の挨拶も沈んでいた。
「手前のような者が、差出口を申し上げて、お宥《ゆる》し下さいまし。なに、お縫さまも、ご気性の勝った、確りした方でございますから、滅多なことはないと存じますが、やはり年寄りの冷水でございます」
この沈鬱な二人の間の空気を揺がせたのは、折から勝手口から聞えてきた女の声であった。
「嫂《ねえ》さん、今晩は。だいぶ凌ぎやすくなりましたねえ」
「おや、お文さん」
六兵衛の女房の声が迎えていた。狭い家だから、筒抜けである。
「さあさあ、早く。麻布の殿様がお待ちですよ」
「遅くなりまして」
と、これは六兵衛の坐っているすぐ後から聞えて、やがて当人がおずおずと姿を現した。
三十くらいの女房で、六兵衛によく似た顔だが、小股の切れ上った、勝気そうな女だった。
「殿様いらっしゃいまし」
お文が六兵衛の傍に坐って、丁寧に挨拶するのを、又左衛門は、
「邪魔している」
と気軽にうけた。
「いつも世話になって済まぬ」
これはお城の女中共に小間物を売りに行っているお文に、又左衛門がお縫との連絡係りをかねてから頼んでいる、その礼を云っているのだった。
「滅相もございませぬ、殿様」
お文は恐縮したように頭を下げた。
「まだ、何一つ、お役らしいお役には立っておりませぬ。そのお言葉を頂いて、かえって申し訳ございません」
「いやいや、それはそなたのせいではない。今も六兵衛と話していたところだが」
又左衛門は、六兵衛の顔と等分に眺めて、
「縫のほうに然るべき働きが無いからだ。が、いずれ、そのうちには何かそなたにことづけることに相成ろう。その節はよろしく頼むぞ」
「それは、もう」
お文は、剃ったばかりの青い眉を上げて答えた。
「おっしゃられるまでもございません。兄が永い間、お世話になっているお殿様のお云いつけでございますから、わたくしの身に代えましても、一生懸命に努めさせて頂きます」
「ありがたい」
と又左衛門は、また礼を述べた。
「そなたたち兄妹の好意は忘れはせぬ。わずかな縁で、それほどまでに思ってくれる気持は、わしは過分にうけとっている」
「とんでもございませぬ、殿様」
六兵衛が口を出した。
「そのご斟酌《しんしやく》は、どうぞご無用にお願い申します。殿様が、それほどお考え下さるほどのものじゃございません」
「本当でございますよ、殿様」
とお文も兄の言葉のあとについた。
「どうせ、わたくしどもがすることは大したものではございませぬ。ご遠慮遊ばさずと、ただ、ああしろ、こうしろ、とお指図下されば、精いっぱいに働かせて頂きます」
「うむ、その親切な言葉に甘えるが」
又左衛門は、ここで硯を借りて書いたばかりの封書をとり出した。
「実はな、これを縫に渡して貰いたいのだ」
「お登美さまでございますね?」
と、お文は、縫がお城で名乗っている名前を云った。
「よろしゅうございますとも。明日にでも、お城に参りまして、たしかにお登美さまに、こっそりお手渡しいたします」
「云うまでもないが、くれぐれも気をつけて、他人《ひと》に悟られぬようにしてくれ」
又左衛門は、真剣な顔で云った。
「これは、殊さらに、大事な手紙だ」
「ご免下さい、ご免下さい」
玄関の方で呼ぶ声がきこえる。
良庵の内弟子の弥助が起って、のぞいてみると、三十二、三の町人が小腰をかがめていた。
「どちらから?」
弥助が訊くと、男は丁寧に頭を下げた。
「わたくしは、紺屋町の糸屋の駿河屋から参りましたが、急病人が出来ましたので、先生にすぐにお来《い》でを願いたいのですが」
「駿河屋さん?」
弥助は、客の風采を見た。めくら縞の単衣《ひとえ》に角帯という野暮な恰好だったが、どこか遊び人のようなところがある。男は、それをつとめて殺しているような風だった。
「たしか、お初めてのようですね?」
「へえへえ」
男は頭を掻いて、腰を折った。
「申し訳ございません。いつも、お呼びしているかかりつけの先生が、折悪しくお留守なものですから、なにしろ急病のことゆえ、寸時も待ったが出来ず、こちらの先生にお願いに来たような訳でございます」
「それは、お気の毒」
と弥助は云った。
「あいにくですが、こちらの先生もただ今、お留守でございますよ」
「へえ、そりゃ、運の悪いことで」
男は途方にくれた顔をした。
「いつごろお帰りか知りませんが、少々のことなら、ここでお待ち申し上げたいと存じますが」
「お待ちになっても無駄ですよ。とても間に合いません」
「そんなら、先生はどこかご遠方にご他出でも?」
「まあ、そんなところです」
弥助は曖昧に答えた。
「それは、困りましたな」
男は困惑した顔を大げさにみせた。
「こちらの先生の評判を伺って来たのですが、それでは、今晩遅くか、明日にでもお迎えに上ってもよろしゅうございますか?」
「いやいや、それは当てになりませんから、どうか、よその医者を探して下さい」
「左様ですか」
男は、いよいよ当惑した顔をしたが、上目で、じろりと弥助の顔を見た。その眼つきが素人でない。
「それでは、諦めます。どうもお邪魔をしました」
男は、おじぎをすると、素直にひき退った。弥助は急いで帰るその後姿を見送った。
男は、往来に出ると、もう一度、良庵の家を眺め、それから五、六間先の軒の下に佇《たたず》んでいる与力の傍に近づいた。
「下村様、良庵は家に帰っていねえ様子です」
その岡っ引は低声《こごえ》で報告した。
「そうか」
下村孫九郎は、岡っ引の報告をきいてうなずいた。
「良庵が家に戻っていねえのは本当だろう」
「すると、あの藪医者は、何処にもぐっているんでしょうねえ?」
岡っ引は下村孫九郎の意を迎えるようにその顔を見上げた。
「うむ、およその穴は分っている。これから、そこへ廻ってみよう」
「あの医者を引き上げるんですかえ?」
「藪医者にはもう用はねえのだ」
孫九郎は唾を吐いた。
「それから手繰《たぐ》って、別な男を突きとめるのだ。おめえも臀《しり》に埃をあげさせて気の毒だが、まあ、おれと麻布までつき合ってくれ」
「へえ、ようがす」
神田から麻布までは、かなりな道のりであるが、両人は半刻ばかり歩きつづけ、鼠坂を上ったときは汗をかいていた。
「おい」
と下村孫九郎は、顎で島田又左衛門の屋敷を岡っ引に示した。
「ここだ、ここだ」
「へ?」
岡っ引はその屋敷を眺めた。
「こりゃア旗本屋敷で?」
「旗本に愕いていちゃ、おれたちの仕事は出来ねえ。なに、無役《ぶやく》の貧乏旗本だ。おめえが尻ごみするほどのことはねえ」
「すると、この屋敷の内にあの藪医者がいるんですかねえ?」
「たいてい、そんなところだ。おめえ、近所を小当りに当ってみろ」
「へえ」
と云ったが、岡っ引は途方にくれた顔をした。近所といっても、あたりは武家屋敷とお寺ばかりである。
「おめえも知恵がねえぜ」
と孫九郎は岡っ引の顔を見て嗤《わら》った。
「ここからいちばん近え酒屋を探して、尋ねて行くのだ。近ごろ、島田様のお屋敷に酒をどれくらい入れているか、以前より殖えているかどうか、聞き込んでくるのだ。藪医者は酒好きだそうだからな、野郎がいるとすれば、きっと酒の注文が多い筈だ」
「なるほど、旦那は相変らず眼はしが利きますね」
「おめえにお追従云われてもはじまらねえ。早いとこ聞いて来い」
「合点です」
岡っ引は駆け出した。
その間、下村孫九郎は、ゆっくりと近くの寺の門前に歩いて移り、門の廂《ひさし》の下にしゃがんで、陽蔭で一休みしている恰好をした。
直射の日光の下を歩いていると汗が出るが、こうして蔭のところにいると、ひやりと涼しい。やはり秋が来ているのである。
しばらくして岡っ引は、下村孫九郎の休んでいる場所に戻った。
「やはり旦那は眼が高え」
と岡っ引は云った。
「そこの酒屋で訊いたんですが、島田の屋敷では、三、四日前に酒を三升取り、昨日も二升注文したそうです」
「うむ」
下村孫九郎は、しゃがんでいるところから腰を上げた。
「大方、そんなところだろうと思った」
「やっぱり、あの医者が居るんですねえ。旦那、もう少しほじくって見ますかえ?」
「それには及ぶめえ。それよりも、あの屋敷に、新之助という若い男が一緒に居るかどうか、もう一度、近所を当って確めてくれ」
「新之助という男ですね?」
「島田の甥というのだがな。二十四、五くらいの侍だ」
「承知しました」
岡っ引は、また駆け出した。
それから彼が大急ぎで戻ってくるまで、小半刻とはかからなかった。
「旦那分りましたよ」
岡っ引は汗をふいた。
「ご苦労、どうだったえ?」
「へえ、隣屋敷の折助《おりすけ》が出ていたので、これ幸いと訊いてみたんですがね、島田の屋敷は主人と雇人だけで、そんな若え男は居ねえそうです」
「そうか」
下村孫九郎はうなずいて腕組みした。
このとき、彼の視線が、ふいに前方を向いた。島田の屋敷から、一人の老爺がひょっこり往来に出て来たところだった。
「おい、高助」
と孫九郎は岡っ引の名を呼んだ。
「あれを見ろ」
「へえ」
「島田の雇人に違えねえ。おめえ、うまく引っかけて、新之助という男の巣が何処か探って来てくれ」
高助という岡っ引が見ると、その老爺はひとりで用ありげに歩いているところだった。
「承知しました」
「おい、へまな訊き方をするな」
「合点です」
岡っ引はあとを追った。
「もし、父《とつ》つぁん」
岡っ引の高助は、島田の屋敷から出た年寄りの雇人に追いすがった。
雇人は呼びとめられてふり返った。かれは吾平であった。
「なんだ、わしのことかえ?」
吾平は怪訝《けげん》な眼で相手を見た。見知らぬ男はにやにやと愛想笑いをしている。
「そうですよ。父つぁんが島田様のお屋敷から出たのを見たので、追っかけて来たんだが、足が速くて元気なのにはおどろいたな」
「お前さんは誰だえ?」
吾平は咎めた。
「あっしは、市ヶ谷の合羽《かつぱ》坂下にいる良太という者だが……」
岡っ引は口から出まかせを云った。
「うむ、その良太さんが、何の用でわしを呼びとめなすった?」
「新之助さまにお目にかかりてえと思いましてね。丁度、ご門のところまで来たら、父つぁんが出て来たので、ついでにお取次を頼みてえと思いついたので」
「なに、新之助さまに?」
吾平は不審そうに男の顔を見た。
「新之助さまと、お前さんとは、どんなつき合いだえ?」
「いや、あっしじゃねえ」
高助は手を振った。
「あっしは使いを頼まれて来たのだ。新之助さまのお友達でね、高木栄之進さまというお方が新之助さまに急用があるとおっしゃって、あっしは手紙をここに預かっている」
高助は空《から》の懐を上から叩いた。
「そうか。そいつは困ったな」
吾平は正直に眉をしかめた。
「新之助さまは、この屋敷には居なさらないのだ」
「このお屋敷の甥御だと聞いたが?」
「甥御だ。ご一緒には住んで居なさらぬ」
「なるほど。そんなら、新之助さまのお住居を教えて貰いてえ。一っ走り、そこまで手紙を届けに行こう」
「それが、よく分らねえでな。何なら、わしが預かっていて、今度、こちらに見えたときに渡してもいいぜ」
「いけねえ、いけねえ」
岡っ引は、また手を大仰に振った。
「これは、じかにお渡ししてくれと高木さまに頼まれたのだ。それに急用らしいからな、折角だが、父つぁんに頼む訳にはゆかねえ。と、どうだろう。新之助さまのお住居は、どの辺か、およその見当もつかねえか?」
「お友達からの急用なら、早いとこお手に届いた方がいい訳だな」
吾平は、完全にひっかかった。
「わしも詳しいことは知らねえが、新之助さまは、何でも下谷の富本節の師匠のところに居なさるという話だ」
「下谷で、富本節の師匠の家に居るというのだな」
下村孫九郎は、高助の報告を聞いて眼を光らせた。かれの脳裡には、船宿の二階で新之助と一緒に居た女の顔が泛んだ。
「うむ、あれが情婦《いろ》だったのか」
「え、旦那はご存じだったので?」
「いや、なに」
と孫九郎は言葉を濁した。
「洒落た真似をしやがるということさ」
「意気なことをするもんですねえ、侍でも」
「当節の旗本の次三男にはありそうなことだ」
孫九郎は吐き棄てるように云った。
「下谷で、富本節の師匠といや、探すのにそう手間はかかるめえ。高助、ご苦労だが、これから下谷までつき合ってくれ」
「へえ」
「気の無え返事をするな。今度は辻駕籠ぐらい、はずんでやらあな」
吝嗇《けち》な男で与力仲間に通っている下村孫九郎が、そこまで云うくらいだから、よほどこの一件の探索には力を入れていると岡っ引には思えた。
両人が辻駕籠を拾い、下谷のあたりまで来たときは、さすがに永い陽も落ちかかっていた。
「おい、どこかその辺に番屋があったらとめてくれ」
孫九郎は駕籠かきに命じた。
辻番所に孫九郎が入ると、老爺がぼんやり坐っていたが、孫九郎を見て、あわてて起ち上った。顔は知らなくとも、身なりで八丁堀の人間だと誰にも分る。
「この辺に富本節の女師匠が居るかえ? 心当りがあったら教えてくれ」
「へえ、へえ」
辻番は頭をひねった。
「二十一、二の、顔の細い、ちょいと渋皮のむけた女だ」
孫九郎は、船宿での記憶を手繰って、その人相を云った。
「ああ、そりゃア豊春という女です」
辻番は膝を打った。
「うむ、豊春というのか」
「へえ、ここから歩いてもそう遠くありません。そりゃ、佳《い》い女ですよ。若えが芸は達者だという評判です」
「そうか、土地っ子だけにおめえは大そう詳しいようだが、その豊春という女には、若い侍がくっついていないかえ?」
「よくご存じで」
と辻番は眼尻に皺をよせて笑った。
「なんでも、そんな噂ですが、あっしは見たことはありません。旦那、何か、その色男にご不審がかかりましたかえ?」
良庵は、小部屋で酒を飲んでいたが、吾平が帰ったのを見て、
「やあ、ご苦労、ご苦労」
と盃を出した。
「まあ、一杯飲みなされ」
吾平は、その盃の前で手を振って、
「先生、あっしゃ昼酒は駄目ですよ。それに殿様がお留守ですからね。そら、困ります」
「やれやれ、律義な男だな。それだから、ここの親玉に信用がある。わしなら、一ぺんにお払い箱だ。ときに、どうだえ、いい肴《さかな》があったかえ?」
「駄目ですよ。何にもありません。この辺に残りものなんざありゃしません」
「そうかえ」
良庵は、がっかりした顔をした。
「ここの酒は申し分がないが、どうも肴がまずくてな。どうだ、吾平さん、ここの家で猫を飼ったことがあるかね?」
「猫? そんなものは飼ったことがありませんよ」
「そうだろう。猫を飼ったら、すぐに逃げ出すことが分るぜ。大きな屋台を張っているが、侍というものは、無役となったら不自由なものだな」
「いえ、ここの殿様はもとから質素な方でございます」
「そうかい。お前さんも、よく辛抱したものだ。ここの殿様も無類にいい人だが、お前さんと同様に、律義すぎるのが玉に疵《きず》だ。ちっと、新之助さんとつきまぜたがいいかな」
良庵はいい顔色になっていた。首が、もうぐらぐら動いていた。
「あ、そうだ」
吾平は思い出したように云った。
「新之助さまといえば、さっき、この通りでお友達という方のお使いに会いましたよ」
「そうか、あの仁の友達なら、どうせ道楽者だろう。何と云って来たのだね?」
「何でも、急用があるとかで、手紙を持って見えました」
「どれ、その手紙をわしに見せてくれ」
「いえ、新之助さんがお屋敷にいらっしゃらないと分ると、そのまま手紙を出さずに帰りましたよ。何だか目つきのよくない、遊び人みてえな人でしたよ」
「ふうん。それで、黙って帰ったのか」
「いえ、いま、何処にいらっしゃるかと訊くから、下谷の富本節の師匠の家らしいと教えてやりました。こりゃ先生から伺っていたことなので……」
盃を口に運んで、うつむいた良庵が不意に顔をあげた。
「おい、吾平さん、お前、本当にその男にそう教えたのか?」
「へえ……」
「いけねえ」
良庵の酔った眼が光った。
「吾平さん、お前、えらいことを教えてやったね」
良庵は、酔って赤くなった顔で、吾平を見据えていた。
「え、い、いけませんでしたか?」
その眼が尋常でないので、吾平は訳が分らず、うろたえた。
「いけない、いけない、そいつア、にせものだ」
「え、何ですって?」
「第一、新之助さんの友達なら、この屋敷に居ないことぐらい、とっくに心得ていらあな。そいつを知らないで、わざわざここに訪ねて来るなんざ、真赤なにせものだよ」
「あっ」
吾平は思わず口中で叫んだ。
「失敗《しくじり》ました。迂濶《うかつ》なことを……」
「迂濶迂濶」
良庵は、うなずいて、
「見事にひっかかったのだ」
「で、ですが、先生」
吾平は、さらにあわてた。
「そいつは、一体何ものですか?」
「犬だろうよ」
「へえ?」
「それ、お前、眼つきがよくねえ男だと云ったろう。岡っ引かなにかの類《たぐい》に違いなかろう。新之助さんの居場所を探りに来たのだ」
「そりゃ、ほ、本当ですか?」
「間違いあるまい。お前をおどかしても仕方がないからな。まず、按ずるに、そいつが来たのは、わしのことから起ったに違いない」
「先生に?」
「うん、石翁の邸から長持の中に入れられてわしが出るところを、向島堤で、ここの大将と新之助さんが助けてくれた。これが序幕で、中幕は、それから探索が始まって、船宿で新之助さんが与力を川の中に投げ込んだ一件よ。それからこの屋敷が目をつけられたのだ。だが、瘠せても枯れても、天下の旗本屋敷だ。そう無闇と踏み込む訳にはゆかぬ。そこで、お前をちょっとひっかけたって寸法だろう」
「こ、こりゃ、どうしたらいいでしょう?」
吾平は蒼くなった。
「なに、そうあわてても仕方がないさ。今ごろは、下谷の三味線師匠のところへ行ってるだろうからな」
「それじゃ、よけいに困ります」
「まあ、落ちつきなされ。相手は新之助さんだ。何とかうまく捌《さば》くだろう」
「………」
「おい、吾平さん、ここの大将はまだ帰らないかえ?」
「へえ、今夜は遅くなるかもしれないとおっしゃってお出かけでした」
「だいぶ話がこみ入って来たようだな。どれ、ゆるりとここで養生さしてもらったから、ぼつぼつ腰を上げずばなるまい」