六兵衛が女房相手に酒を飲んでいると、若い者が入って、
「親方」
と呼んだ。
「島田さまというお侍がお見えで」
「島田?」
六兵衛は、たった今、島田又左衛門が帰ったばかりのところなので、眼をむいた。
「なんだ、麻布の殿様がお立戻りになったのか?」
「いえ、そうじゃありません。まだ若いお方で」
咄嗟《とつさ》に、それは新之助であると分った。
「そうか、それは、それは。すぐにこちらにお通し申せ」
急にそわそわして、女房を門口に出迎えにやり、自分は若い者に云いつけて、その辺を素早く片づけさせた。
「まあ、若様。お珍しい。さあさあ、こちらへ」
と女房の声が門口で聞えていたが、やがて新之助の姿が座敷に現れた。
「おう、こりゃア、若様」
六兵衛が両手をついた。
「よくいらっしゃいました。お久しゅうございます。さあ、どうぞ、こちらへ」
「六兵衛。暫らくだな。相変らず元気で結構だ」
新之助は微笑しながら、それへ坐った。
「どうも、用事があるときだけに、時を択ばずに来るようで、敷居が高いが」
「何をおっしゃいます。いつでも、お越し下さいまし。たった今も、麻布の殿様がお見えでございました」
「なに、叔父貴が来ていたのか?」
「はい。若様と、たった一足ちがいでお帰りでございました」
「ほう、叔父貴は、また何でここへ来たのかな?」
「はい。脇坂様からのお帰りだとかで、久しぶりだからと、ちょいとお立寄りでございました」
六兵衛は詳しくは云わなかった。
「そうか」
六兵衛の女房が酒を運んで来たので、構ってくれるな、と会釈しておいて、
「叔父貴も、よく動くな」
と呟いた。
女房が、おじぎをして、
「お一つ、どうぞ」
と酌をしたので、新之助は、それを二、三杯、うけていたが、六兵衛は逸早《いちはや》く、女房を眼顔で去らせた。
「若様。今夜は、また、どういう風の吹き廻しで、神田あたりにお見えになりましたので?」
六兵衛は話をひき出した。
「うむ、実はな、六兵衛、急にお前に頼みがあって来たのだ」
「そりゃ、もう、何かは存じませぬが、若様のお頼みとあれば、早速、お伺いしようではございませぬか?」
六兵衛は云った。
「それはありがたい。実はな、六兵衛。お前でなければ、ほかに頼むところのない用事だ」
新之助は切り出した。
「これは大そうなお言葉でございます。で、手前でなければ勤まらぬ御用と仰言いますと?」
六兵衛は新之助の顔を見上げた。
「うむ。六兵衛、お前、仕事の係り合いで、向島の植木屋ともつき合いがあるだろうな?」
「へえ、それは、無いこともございませんが……」
「中野石翁の邸に出入りしている、あの辺の植木屋は何と申すのだ?」
「中野石翁様の……?」
六兵衛が急に注意深くなった。
「それは、いろいろございますが、手前が心安くしているのは、小梅の甚兵衛という奴でございます」
「うむ、その甚兵衛というのは、石翁の屋敷では重宝がられているのか?」
「甚兵衛は、俗に植甚と申しまして、その道では名人でございます。それで、植木道楽の中野の御隠居さまには大そう可愛がられていると、当人が自慢話をしておりました」
「そうか、そりゃア、いい」
新之助が膝を叩いた。
「その植甚に、お前から、ぜひ、頼んで欲しいことがあるのだ」
「へえ、そりゃ、頼むのは訳はございませんが、一体、どういう御用なんで?」
「ちと、云いにくいがの」
新之助は、軽い笑いを浮べて、
「石翁の邸に、女中をひとり世話して欲しいのだが」
「お女中を……?」
六兵衛が眼を瞠《みは》った。
「これは、おどろきました。一体、それは、どこの女子衆《おなごしゆ》で?」
「訳は、段々に話す」
新之助は笑って、
「とにかく、ひとり、石翁の邸に世話してくれと頼んで貰えぬか。当人は、ひどく、奉公したがっているでな。どうじゃ、あれほど贅沢で、広大な石翁の邸だから、気に入りの植甚の口添えがあれば、女中の一人や二人は、何とかなりそうに思えるがの」
「へえ、そりゃ、そうかもしれませんが」
六兵衛は新之助の顔を見まもった。
「若様。久しぶりにお目にかかると思いましたら、そんな御用でございますか?」
「うむ。いい用事だろう。こんな用事でもなければ、お前のところには来ない。一つ、気を入れて世話してくれ」
「若様」
六兵衛の眼が、きらりと光った。
「その女子衆というのは、どういうお方で……?」
「それだ」
新之助は、ぐっと盃を干して、
「なかなかの容貌《きりよう》だぞ。色が白くて、小股が切れ上っている。立居振舞の行儀もよろしい。それに遊芸が出来るから、石翁の邸で客があったときは、芸者を呼ばなくても済む。なかなか、この界隈には無い玉じゃ」
「いえ、若様とは、どういうご関係でございますか?」
「いろいろ穿鑿《せんさく》するの。それは、つまり、おれの色女《いろ》じゃ」
と云って新之助は笑った。
六兵衛は、黙ったまま、暫らく新之助の顔を見詰めていたが、
「今夜は、妙なお頼みばかりを持って来られます」
と低く呟いた。これは、先刻帰った島田又左衛門のことを思い出したからであった。
「何か云ったか?」
「いえ、こちらのことでございます」
六兵衛は深い説明はせずに、
「よろしゅうございます」
ときっぱり云った。
「やあ、引きうけてくれるか?」
新之助が叫んだ。
「へえ。植甚に話を持って行くことだけはお請合いしました」
「それは有難い」
新之助は頭を下げて、
「当人が喜ぶだろう」
「そりゃア若様ではございませんか?」
と六兵衛は、素早く切り返した。
「なに?」
「いえ、お喜びになるのは若様だろうと申しているのでございます」
「そうかもしれぬ」
新之助は軽くうけ流した。
「なにしろ、おれの色女だからな」
今度は、六兵衛が急に笑い出した。
「ははは、そのように承知しておきましょう」
新之助と六兵衛とは顔を見合った。が、どちらも何も云い出さなかった。が、その二人の眼は或る問答を交していた。
新之助の方が、先に眼を相手の顔から外《はず》した。
「願いごとが済んで、すぐ帰るのも悪いが……」
と新之助は腰を浮かせた。
「今夜は遅いから、これで戻らせて貰う。六兵衛、くれぐれも植甚にはよろしく頼むぞ」
「へえ」
六兵衛は、うなずいて、自分も一緒に起ち上った。
「若様、手前も一緒に、そこまでお送り致しましょう」
門口までで、引返すのかと思ったら、六兵衛は、そのまま、新之助の横にならんで歩いた。
外は暗い。つい、この間まで涼みに出た連中も影をひそめて、通りには、人ひとり歩いていなかった。完全に夏が去ったのである。空の星が光を増して見えるのも、秋になった証拠だった。
「六兵衛。どこまでついてくるのだ? もういいから帰ってくれ」
新之助が云うと、
「なに、あっしは構いません。駕籠のあるところまでお見送りいたしましょう」
六兵衛は落ちついて答えて、
「実を云うと、若様。お久しぶりにお目にかかったので、ちょっと、若様から離れにくいんでございますよ」
と、すたすたと歩く。
「色女《いろ》との別れぎわみたいに云うぜ」
新之助は、わざと笑った。
親父の代から出入りの古い職人だった。新之助も子供のときに、この六兵衛の背中に負ぶさった記憶がある。その父が亡くなってからも、絶えず気にかけて、何くれとなく足を運んで世話してくれたものだった。普通の人間では出来ないことである。律義《りちぎ》で、人情の篤い、下町の職人であった。
新之助を、まだ子供のように思っているらしく、こうして心配そうについてくるのである。が、六兵衛の今の心配は、単に暗い夜道を新之助に歩かせるということでなく、別のところにありそうだった。
「若様」
六兵衛が、それを云い出した。
「あまり、深いところにお入りにならない方がよろしゅうございますよ」
「なんだ、女のことか?」
新之助は笑い声を立てた。
「へえ、そりゃ、それもございますが」
六兵衛は真面目であった。
「そのことは、いずれ申し上げようと思いましたがね。が今は他《ほか》のことでございます。つまり、向島の方角には、あまり、お近づきにならない方がいいんじゃございませんか」
「………」
「麻布の殿様にしても、そうだが、あのご気性だから、こりゃア手前どもから申し上げようもございません。が、その道づれになるお縫さまが、お可哀想でございます」
「お縫さんが、どうかしたのか?」
新之助の声には、どきりとしたものがあった。
「へえ、いよいよ、奥知れぬところにお入りになるようでございます。これは、麻布の殿様のお指金でございますがね」
「奥知れぬところに……」
新之助は、その言葉を、茫乎《ぼうこ》として呟いた。
「左様でございます。お縫さまは、ひとりぼっちで、奥の知れぬところに参られるようでございます」
六兵衛は、呟くようにつづけた。
「お可哀想なお方、手前は麻布の殿様をお恨み申したいときがございます」
「何故だね?」
新之助は問い返した。
「むつかしい理屈は手前どもには分りません。でも、お縫さまだけを危いところに遣《や》って、ご自分はうしろに居て腕を組んでいらっしゃるようなやり方が、手前にはどうも納得出来ません」
「六兵衛」
やはり歩きながら新之助は云った。
「女には女の役目でな、これは残念だが、大の男がどうにもならぬことだ。お前がやきもきしても始まらぬ話だ。おれに文句を云ってもどうにもならぬ。早い話が、おれの可愛い色女を中野の隠居のところへ世話を頼むのも、云ってみりゃ麻布の叔父貴と同じことだ。男は案外役に立たぬ代物《しろもの》だと悟ったよ」
右手には、高い塀が長々とつづいていた。暗くて見えぬが、この塀と道の間には、三間幅の堀が、黒い水を湛えている筈であった。いわずと知れた、これは大伝馬町《おおてんまちよう》の牢屋敷で、二人は話しながら、いつかこの辺まで歩いて来たのだった。
「しかし、そりゃアお縫さまとは、ちっと違うと思いますがね」
六兵衛が云った。
「どう違うというのかね?」
「若様。お縫さまは、れっきとした武家のお嬢さまです。それを……」
「卑しい三味線の師匠づれとは一緒にならぬというのか。ははは、困った。おれの色女だ。それを聞いたら可哀想に泣くぜ」
「しかし……」
六兵衛が何か反対しようとしたとき、
「待て」
と新之助が手で制した。
暗い闇の中を、前方にぽつんと提灯のあかりが現れたところだった。新之助の足が停ったのは、それを見たからである。六兵衛も注意されたように、前を眺めた。
その提灯が出たのが牢屋敷の門だというのは、場所の位置ですぐに分った。門は低くて小さい。俗に不浄門と呼ばれる不吉な出入口であった。
よく眼を凝《こ》らして見ると、提灯を先頭に二人の男が棒に何かを吊って歩いていた。この連中が、たった今、牢屋敷から出たことは、門がぎいと軋《きし》って閉まる音でも知れた。
「ご牢内で病死した者が出たのですね」
六兵衛が見ながら低い声で云った。
牢内で病死した科人《とがにん》は、検死の上で、非人によって外に出される。死骸は、|もっこ《ヽヽヽ》に入れられ、二人の非人に担がれて、夜中、不浄門を出るのだ。提灯を持った男が、非人の頭分とみえた。
六兵衛の言葉に、新之助はうなずいた。
「いやなものを見ましたな」
六兵衛は舌打ちして云った。
「若様、さ、早く参りましょう」
「何処に行くのだ?」
「え?」
「いや、あの死骸の行き場所だ」
新之助は提灯の動くのを、じっと見ていた。
「へえ、あれでございますか?」
六兵衛も、じっと見送って、
「ありゃ小塚《こづか》っ原《ぱら》でございますよ」
「うむ、小塚っ原か」
「へえ、牢屋で死んだ者はたいてい小塚っ原に、ああして運ばれて棄てられてしまうのでございます」
「棄てるのか?」
「へえ、考えてみれば、死んだ者は浮ばれない話ですよ。仏の扱いじゃございません。とんと犬猫の死骸でございますな」
「しかし、身寄りの無い人間の話だろう?」
「どういたしまして」
六兵衛は、打ち消した。
「ちゃんと身内の居る者でも、一旦、ご牢内で息を引き取ると、家の者には死骸を引き渡さない掟になって居りますよ。大きな声では申せませんが、ご政道も、こんなところは、あんまりご慈悲があるとは思えませんね」
「………」
「そうじゃございませんか、死んだ者は仏でさ。仏になってしまえば、罪も科《とが》もねえ。それを、野っ原に抛り出して捨て、雨露に打たせて骨にするなんざ、ちっとばかりむごい話でさ」
「家の者が嘆願しても、引き渡して貰えぬのだな?」
新之助は、まだ提灯の火の行方を見つめながら訊いた。
「そうだそうでございますよ。こりゃア手前だけの考えですが、ご牢内には無実の罪で入れられた者が多いそうでございます。それに、新入りは、先牢の者に随分と痛めつけられるそうで、お裁きをうけるまでに牢死する者は、たいていそのためだそうです。なかには同牢の者に憎まれて殺される者もあるそうでございますな。いや、聞くだけで、いやな話でございますよ」
「六兵衛」
新之助が急に大きな声を出した。
「その死骸の始末をする支配は誰だ?」
「牢屋敷お出入りの非人頭でございましょうな」
「どこにいるのだ?」
「さあ、手前もよく存じませんが」
六兵衛は首を傾けた。
「千住《せんじゆ》の方じゃございませんか?」
「はてな」
歩き出した新之助が、ふと、また立ち止って云った。
「六兵衛、見ろ、提灯の火が消えたぜ」
今まで、寝静まった町中を歩いていた向うの提灯のあかりが、急に消えて闇となっている。
「どうしたんでしょうねえ。風にでも吹き消されたのでしょうか」
六兵衛も、その方を注視していた。
「それほど強い風も吹いていないが」
近くまで行って様子を見よう、と云い出したのは新之助であった。六兵衛はあまり気乗りがしなかったが、それに従った。
提灯の火が消えたところとは、一町ばかりの距離があったが、軒の下を伝うように歩いて行くと、闇に慣れた眼に、五、六間向うに、六、七人の黒い人影が動いているのが見えた。
新之助と六兵衛とは、それをこちらから窺った。
|もっこ《ヽヽヽ》をかついだ三人が立っているが、一人が消えた提灯を手に持っている。火を点《つ》ける様子は無く、軒下にかたまっている三、四人連れの男たちと、小さな声で話を交していた。それもその中の一人が、提灯をもった頭分の男に、くどくどと頼んでいるような恰好であった。
やがて話はまとまったらしい。その男が、頭分に何かを渡した。頭分はそれを懐に入れ、|もっこ《ヽヽヽ》をかついでいる男二人に低く命令した。すると、二人は棒を肩から下ろした。
三、四人の男連れは、総がかりで、|もっこ《ヽヽヽ》から何かを抱え上げている。南無阿弥陀仏と唱えている声がここまで聞えた。それに交って泣き声が起ったが、これは誰かが叱っていた。抱いているのは死人であった。
男たちは戸板を用意して来ていて、死人はその上に寝せられた。一人が上から蒲団をかけている。
三人の方は、これは全く知らぬ体《てい》で歩いて去った。提灯の火は、もう点かなかった。次に四人連れが戸板をかついで別な辻を曲って去った。
「牢死した者の身内が、金を出して引き取ったんですな」
目撃が終って、六兵衛がほっとしたように云った。
「そういうことも出来るのか?」
新之助が訊いた。
「表向きでは、厳しい掟でございますが、やはり、万事、金の世の中でございますな。裏みちは、ちゃんとついております」
二人は軒の下を出て、元の方角へ歩き出した。
「でも、同じ裏の抜道でもこういうことは結構ですな。こんなことでもないと、仏は浮ばれません」
新之助は、それには答えず、歩きながら黙って、何かを考えていた。
小塚原仕置場は、浅草|山谷《さんや》から来て、泪橋《なみだばし》を渡り、千住大橋に出る途中にある。
仕置場は、本所|回向《えこう》院の所属で、往来に向って仕置台があり、いつも首が二つや三つはならんでいた。罪状を書いた高札が立っているが、胆の細い旅人は眼を塞ぎ、念仏を唱えて、この前を走りすぎた。
ここを少しすぎると、小塚原の埋葬地で、恵日院、浄泉寺、正行院、安楽院などという小さな寺が、一郭の内にならんでいる。だが、この陰惨な区画も、も少し過ぎると、今度は長さ六十六間の大橋の袂にかかり、千住宿場の茶屋町になっていた。左右にならんだ茶屋|旅籠《はたご》は、江戸岡場所の一つで、小塚原は地獄と極楽とが隣り合っている。
新之助は、ひるをすぎたころ、その町中の小さな小料理屋へ入って、ひとりで酒を飲んでいた。表に、縄のれんが下っているが、その隙間から往来を歩く者が眺められた。
街道だから、旅人が多く、馬子や駕籠《かご》かきが通る。昼間だから、嫖客は無いが、通行人の中に、非人の姿がちらちらと見えるのは、さすがに場所柄であった。
非人といっても、物乞いをして歩く無宿浮浪の野非人と、行刑の使役に雇われている抱え非人とがあった。この抱え非人は牢屋敷に出入りして、病囚の加療、刑罰の手伝い、牢屋見廻りなどを仕事とした。
非人に落されるのは、常人で財産を潰したもの、心中未遂で生残ったもの、近親私通の罪に問われた者が多かった。しかし、これはあとで相当の金を出すと、再び常人に復籍できた。
抱え非人については、岡本綺堂の説明がある。
「これには一定の収入があった。のみならず規律があって寸毫《すんごう》も犯すことは出来なかった。……非人の表向きの役というのは南北の溜《たまり》の番をすることで、溜というのは、囚人の病監のことを言うので、南の溜は南品川、北の溜は浅草千束町にあった。それから諸官庁の雑役、道掃除、引廻しや死罪についての雑用に当っていた。又一説によれば、非人は一種の兵、つまり徳川幕府の軍務の雑役夫で、非常の時には召集されることになっていたというので関八州に約一万の非人がいて、まことに秩序整然としていたそうである。このように上《かみ》の御用を勤めるので、非人には一つの特権が与えられていた。それは各町家の間口に応じて一定の金を取立てることである。……それから変死を片づける場合の手間賃なども非人の収入になっていた。……こういう風に一定の収入で生活をしていたので、頭や小頭《こがしら》などは別として、少しいいところになると、月一両ぐらいの生活が出来たというから、大したものである。」(岸井良衛編「岡本綺堂・江戸に就ての話」)
「亭主を呼んでくれぬか」
新之助は、新しい銚子を運んできた小女に云った。
「へえ、これはいらっしゃいまし」
四十がらみの亭主が腰をかがめて新之助の傍に来た。
「お前が亭主か?」
「へえ、左様でございます。何ぞお気に召さぬことでも?」
相手が武士だから、亭主も丁寧であった。
「いや、そんなことではない。まあ、一杯やれ」
「へえ、ありがとうございます」
「少し、ものを訊きたいのだ。立っていないで、落ちついてくれ」
「へえへえ」
亭主は新之助の前に仕方なしに坐った。彼は新之助が出した盃を器用に干して、返盃した。
「で、お訊ねとおっしゃるのは何でございましょう?」
「うむ、お前はこの辺の非人のことに詳しいか?」
「へえ、そりゃ土地がらで、少しは知っております」
「そうか。実は、わしの雇人の縁者が、ふとしたことから伝馬町に入牢《じゆろう》したが、病死したのだ。雇人が嘆いている」
「それは、お気の毒なことでございます」
「雇人は、せめて縁者の亡骸《なきがら》を引き取って供養したいと申しているが、入牢中に死んだものは身内に引き渡さずに、この小塚っ原に非人の手で捨てられてしまうそうな」
「その通りでございます」
「伝馬町の不浄門からここに運ばれたのは昨日のことだ。そこで、雇人のために、わしがその仏を引き取ってやりたいと思い、ここまで来たが、さて何処でそれをかけ合ったらよいものか、とんと見当がつかぬ。見たところ、非人の通行する姿もあるようだが、誰彼なしに掴まえて訊くわけにもゆかぬ。しかるべき頭分があるに違いない。それを教えてくれぬか?」
新之助の云うことを亭主は聞いていたが、
「それなら、嘉右衛門にお話しになったらよろしゅうございましょう」
「嘉右衛門というのが頭分か?」
「この辺の小屋頭でございます。非人は町内のどこに住んでも構いませんが、やはり牢屋敷に出入りして処刑人や病死人を扱っているのは、この近くの寺の空地に小屋を建てて住んでいるのが多うございますな。そういう連中に睨みを利かしているのが、嘉右衛門でございます」
「それは、どこに住んでいるのか?」
「この先の縄手に浄念寺という寺がありますが、その墓場の横に小屋がございます」