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かげろう絵図(下)~烈風

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  烈  風 西丸老中林肥後守忠英に、側衆水野美濃守忠篤が付き添い、家慶に目通りすることになった。「大御所ご遺訓により、
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   烈  風
 
 
 西丸老中林肥後守忠英に、側衆水野美濃守忠篤が付き添い、家慶に目通りすることになった。
「大御所ご遺訓により、言上《ごんじよう》致したき儀、これ有り」
 というのが前触れであった。
 家慶は、ことがことだけに、表では聴かず、「御休息の間」に両人を喚《よ》んで対面することになった。
 肥後守と美濃守とが、西丸より本丸に出かけるとき、石翁は、くれぐれも注意している。
「もし、余人がお墨附に対し異議を挾むときは、大声|叱咤《しつた》して不忠呼ばわりをなし、これを却《しりぞ》けること。これは水野忠邦あたりより出そうであるから、特に忠邦に対しては注意すること」
「将軍家に対しては、ご遺命の威光を示し、間髪を入れずに、承服せしめること」
「お墨附は、対手方がご遺命を承服せぬ間は決して渡さざること」
 この三つを、
「くれぐれもお忘れなきように」
 と云い含めた。
 肥後守も美濃守も、それは充分に心に入れた。両人の眉の間には決死の覚悟が現れている。伸るか、反《そ》るか、一生一代の賭《かけ》であった。
 見送る石翁の顔も、期待と不安で硬くなっていた。
 両人が本丸に到着すると、側用人堀大和守が出て来て、
「上様には、本日、御休息の間に、ご出座遊ばされます」
 と案内する。
 両人はうなずく。至極、尤もだと考えたからだ。
 長い廊下を歩いて、御休息の間に導かれ、両人はちょっと肝を冷やした。
 御休息の間は、京間で三十五畳敷き、南、西、北の三方は襖でたて切ってある。天井下は竪《たて》一間もあるが、欄間は無い。
 敷居、鴨居、長押《なげし》とも槻《けやき》を用い、襖には、極彩色の賀茂|競馬《くらべうま》図を描いて、いずれも黒塗の縁がついている。腰は襖つくりで、金砂子に秋草が彩色で乱れ咲いている。襖の引手は花葵形を楕円にし、まん中の凹んだところは滑かにして、周辺は七子《ななこ》地葵の御紋散らし、金具は金|鍍金《メツキ》である。
 天井は貼《はり》天井で、金砂子に切箔《きりはく》を置き、天井下の貼付は金砂子に金泥で雲形を描いてある。長押の釘隠しは、径三寸ばかりの花葵形で、これも金鍍金だった。
 上座から、老中水野越前守忠邦、同じく堀田備中守、同じく真田信濃守、若年寄本庄伊勢守、同じく堀田摂津守、同じく遠藤但馬守、これに、小姓、御納戸衆がずらりと居ならんでいる。
「これへ」
 という堀大和守の声で、両人は高麗縁《こうらいべり》の畳を爪先で踏んだ。
 警蹕《けいひつ》の声がかかって、家慶が出座した。蒼白い顔の将軍だった。
 一同が平伏する。
 側用人堀大和守が進み出て、西丸より林肥後守と、水野美濃守が御前に罷り出ていることを告げる。
 家慶は、うなずいたが、これは畳に頭をこすりつけている肥後守と美濃守には判らない。
 家慶は低い声で、大和守に何か云いつけていた。
 それが人払いだった。側衆と小姓どもが静かに起って行った。衣ずれの音が、しばらく、さやさやと鳴っていたが、それが鎮まると、もとのように針一つ落ちても、耳に入るくらいの静寂に返った。
 老中衆のならんでいる席から、風邪でもひいているのか、咳《しわぶき》が二つ、遠慮そうにつづけて起った。
 家慶が、また何か低く云った。両人の横にいる大和守がそれを受けて、
「御諚《ごじよう》でござる。御前へ近う」
 と小さな声ですすめた。
 林肥後守と、水野美濃守とは膝行して、少し進んだ。
 再度、「近う」と言葉があったが、それ以上にすすまぬのが作法だった。
「肥後か」
 はじめて家慶から声がかかった。
「はあっ」
 林肥後守につづいて、美濃守も低頭した。
「大御所様よりのご遺命があるそうな。予も早う拝見したい。これへ」
 家慶が云った。
「はあ」
 美濃守が持参のふくさに包んだ桐箱を出して、これに一礼した。
 大和守が傍に寄って、取次ごうとすると、
「あいや」
 と肥後守が遮《さえぎ》った。
「恐れ多くも、大御所様直々の御筆でござる。お取次ぎは憚り多うござる」
 肥後守は一生懸命だった。肚に力を入れていたが、声が少し慄えていた。
「尤もじゃ」
 家慶が声をかけた。
「予が、そちらに参る」
 家慶は座を起った。
 美濃守がふくさを解き、肥後守が捧持している前に、家慶は上段を降りてすすみ、三尺くらいの距離を置いて、ぴたりと坐った。
「拝見する」
 肥後守は声も無く、上体を折って、桐箱だけをさし出した。手が慄えていた。
 家慶は、頭を下げて受けとり、紅絹《もみ》で撚《よ》った紐を指先で解いた。細長い、瘠せた指だった。
 林肥後守と、水野美濃守の耳には、さらさらと、お墨附の紙が摺《す》れる音だけが聴えた。
 低頭している林肥後守と、水野美濃守の頭上に、家慶の披《ひら》く大御所のお墨附の紙が、さらさらと微かな音を立てている。それだけで、将軍家がどのような眼つきで見ているか、どのような表情をしているか、両人には分らなかった。
 家慶は読み下しているらしい。長い時間がかかった。何度も、繰り返して読んでいるらしいのである。
 肥後守と美濃守とは、激しい動悸が搏《う》っていた。額に、うすい汗が滲《にじ》んだ。
 将軍家が、
(大御所のご遺言ながら、承服できぬ)
 と云えば、屹《きつ》となって身を起し、その不孝を詰《なじ》って、捻《ね》じ伏せるのが、両名の使命だった。家慶が、否、と云うか、応、と云うか、両人の耳の中は、真空みたいになった。
 耳朶《みみたぶ》が燃えてくるのである。
 家慶が膝を動かした。それは畳に触れて袴《はかま》が鳴ったので分った。両人は、固唾《かたず》をのんだ。
 家慶は顔を横に向けた。そこには、側用人堀大和守が控えている。
「越前を」
 と家慶は微かな声で云った。
 この声は、無論、肥後守と美濃守の耳に聴えた。両人は更に身体を固くした。越前が出てくる。忠邦が出てくる。
 越前守忠邦は老中のならんでいる列から、ひとり離れて膝行して来た。
「これを」
 家慶が、お墨附を見せた。
 忠邦は、一礼し、恭《うやうや》しくそれを両手にうけとった。それから、文字に眼を向ける前に、もう一度、押し頂いた。
 今度は、忠邦の番だ、と肥後守と美濃守は極度に緊張した。血が頭に逆上《のぼ》ってくる。この勝負は、忠邦との一騎打ちであった。忠邦さえ伏せたら、こちらの勝利であった。
 異議を唱えるか──両人は息を呑んだ。胸が慄えてくる。
 家慶のときよりは、もっと、もっと長い時間がかかった。何度も何度も読み返しては、思案しているらしい。
 肥後守も、美濃守も、この状態が永遠につづいたら、息が切れそうであった。眼が昏《くら》んだ。永い、永い沈黙の時間だった。
「恐れながら」
 細い越前守の声が聴えた。両人は全身を耳にした。
「大御所様のご遺命なれば、お従い遊ばされるがご孝道かと存じまする。また、天下のため、至極の仰せかと存じ上げます」
 肥後守と美濃守は、わが耳を疑った。空耳かと思ったが、これは夢のような現実であった。こう簡単に、すらすらと行くのか、と思った。
「ご遺言、たしかに拝読した。安心せい」
 家慶は、そう両名に云うと、お墨附をあっさり忠邦に渡してしまった。
「すぐ、承知されたのか?」
 石翁も、本丸から、いそいそと帰ってきた林肥後守と、水野美濃守の報告を聴いて、意外そうに訊き返した。
「はあ、それは、もう……」
 肥後守は、口辺から笑いを消し切れぬように、眼を細めながら、
「全く、他愛《たわい》ないくらいでございましたよ。こちらが、力んで行ったのが、おかしいくらいでございました」
 と声を浮かして云う。
「越前も……」
 石翁は、少しも笑わないで、厳しい眼で、両人の顔を交互に視た。
「越前も、たしかに、恐れ入った、と云ったのだな?」
 言葉つきも、念を押して、強いのである。
「左様です」
 今度は、水野美濃守が答えた。
「お墨附を拝見して一礼すると、大御所様ご遺命なれば、お従い遊ばされるがご孝道かと存じまする、と、これはもう、はっきりと、上様に申し上げておりました」
「上様は、何と仰せられた?」
 石翁は気にかかってならぬように訊《たず》ねる。
「は。ご遺言、たしかに拝読した、と仰せられました。それから、われらに向って、安心せいと……」
「まことに左様に仰せられたか?」
「それは、もう、確《し》かと、われらの耳に……」
「それにつけて、越前は、何と申し居った?」
「御意、有難き次第、とお答えしておりました。次に、もう一度、恭しくお墨附に一礼すると、箱に納め、手もとに取りました」
 肥後守が、その場の模様を話した。
 石翁の不安な表情が、はっと恐怖に変ったのは、それを聴いてからだった。
「なに、越前は、お墨附を手もとに取ったのか?」
「はあ」
 と云ったが、両人の方が怪訝《けげん》そうな眼つきであった。
「お墨附のこと、上様もご承引になり、越前も恐れ入りましたので、渡して参りました」
 その処置に誤りはない。
 石翁も、たしかに、対手が承知しない限り、お墨附は持って帰れと両人に云った。両人は、対手が承諾したから、お墨附を与えてきたのだ。当然の話で、誤謬《ごびゆう》は無い。
 が、あまりに、対手が易々と承知したのが心にかかるのだ。これにひっかかって、お墨附を越前の手に、あっさりと渡したことが、ひどい間違いを不用意に冒《おか》した気持になった。何か、ぽかりと取り返しのつかぬことをやったのではないか。
 石翁は、急に、足もとの穴に落ち込んだような恐怖に蒼褪《あおざ》めたのである。
 隠居は、俄かに脂汗を額に滲ませた。
 
 それから二十日あまりが過ぎた。
 何ごとも起らなかった。
 本丸が騒々しいのは、大御所の葬送の日どりが決まって、その準備に忙殺されていることだけであった。
 石翁は、向島から、谷中の寮に移っていた。向島を去ったのは、誰にも会いたくないからである。
 林肥後守、水野美濃守などは云うまでもなく、美濃部筑前守、内藤安房守、瓦島《かとう》飛騨守、竹本若狭守などの一党は喜色満面、身体も宙に浮いたという恰好で、
「われわれの世は安泰じゃ。上様は大御所様のご遺命に従われた。越前めも屈服した。前田犬千代様を将軍家後嗣として西の丸にお迎え出来る。めでたい、めでたい。この次は越前めを追い落してくれる」
 と手放しで笑っているのである。
 本郷の加賀藩邸からも、ひそかに向島に使いが来て、万事祝着、と当主からの喜びを伝えてくる。
 お美代の方からも、泪ぐんで喜んでいる、とことづけがあった。
 みんなが、大成功に欣喜雀躍《きんきじやくやく》して酔っているのであった。
 石翁が、家斉の相談相手として勢威を振ったように、前田犬千代を迎え、家慶を隠居させ、家定を将軍に直し、次代を犬千代に嗣《つ》がせると、自派の誰かが操《あやつ》り役となって、わが世の春の永遠を謳《うた》おうというのだ。
 それが夢でなく、現実に眼にうつっているのである。心配した本丸の家慶はじめ、水野忠邦の頑固な障害が、他愛なく崩れたので、喜びは、それだけに大きい。
 しかし、石翁ひとりは笑わなかった。
 向島を遁《に》げ出したのも、そういう連中に来られるのを嫌ったからだ。連中の紐のゆるんだ顔を見ているとやり切れないのである。
 そう手放しで喜んでよいものか。──
 石翁には、まだ不安がある。晴れ渡った空に、一つまみの黒雲を見ているような危惧《きぐ》である。しかも、石翁の眼にしか映っていない雲であった。
(まだ分らぬぞ。その場になって、犬千代を城に迎えるまでは分らぬ。越前がいるからな。越前がいる)
 谷中の寮にも見事な庭がある。下谷だけではなく、彼の寮は、大塚、巣鴨、日暮しの里、根津などにもあった。いずれも結構な庭をしつらえている。
(越前がいる。おかしい。あいつが素直に、引込んだのがおかしい)
 石翁は、庭にひとりで降りて歩きながら、苦渋《くじゆう》を顔に浮べて、敵側の見えない罠《わな》を探っていた。
(大御所のお墨附を渡したのが……)
 やはり、これが取り返しのつかぬ敗北の端緒のような気がする。判らないのは、罠と、お墨附とが、どう結びつくかである。
 家斉の遺骸は、天保十二年二月二十日、西丸を出棺して、上野東叡山寛永寺に葬られた。
 棺蓋には、「前|征夷《せいい》大将軍従一位|太政《だじよう》大臣|源《みなもとの》朝臣《あそん》家斉之墓」と書き、傍には、「天保十二年|閏《うるう》正月三十日寿六十九歳、勅賜正一位賜号文恭院」と書かれた。
 出棺前には家慶はじめ、夫人など一門の焼香がある。式が終ると、柩《ひつぎ》を白木造りの車に載せ、白木綿の綱を轅《ながえ》に結んで小姓共が曳《ひ》く。車輪の径は一尺六寸ばかりで、左右十二ずつ付く。大奥の廊下を軋《きし》る音は何とも云えない。怨鬼陰夜に咽《むせ》ぶ、という形容が当るかもしれない。
 長い間、家斉に仕えたお美代の方はじめ、十数人の愛妾たちは顔に袖をあてて泣いている。女中のなかには柩に取りすがって、声を放ち、泣き叫ぶ者もある。
 玄関からは仕丁《じちよう》が白丁着で柩をかつぐが、これがなかなか重く、数十人の仕丁では上野までの遠路をかつぎ通すことができないから、一番組い組の人足が二百人、これも仕丁の服装で従うことになっている。
 これよりさき、西丸から出た柩は、山里の庭を通り、馬場のあたりに差しかかる。このほとりには、本丸老中、若年寄などがならび、次いで西丸の重職が並んでお見送りする。
 西丸に仕えている近習の役人、侍医などもこの辺の道にうずくまって柩を目送した。西丸の杜《もり》の木立の上には、早春の空が澄み切っている。
 腕木の門の内には大内記大学頭、御台所御用人、お庭番などが敬礼している。
 このあたりから、柩を先導する諸士が徒麻上下《かちあさかみしも》で歩み出る。家斉の打物(長刀《なぎなた》)などは白い覆いをし、白衣を着た力士が持って従う。柩は車に白い綱をかけ、三十人ばかりで莚道《えんどう》の上に引き出す。その車の音は、近侍の者には胸がつぶれるように聞える。
 柩のあとには、本日の葬儀奉行、水野越前守忠邦が従う筈であったが、支障があって、老中掛川の城主太田|備後《びんご》守|資始《すけもと》がお供をした。そのあとから若年寄、御側の者、そのほか近侍の者がむれて供奉《ぐぶ》した。ことに、水野美濃守忠篤の打ち悄《しお》れた姿が人目をひいた。
 吹上の門まで来て、しばらく休みがある。ここで柩を龕《がん》に移す。これから白丁が数十人で担ぎ進めて、上野の御成道へ向うのだ。
 ただし、大御所や将軍家の葬送には、三家、三卿はじめ、譜代大名は一人も供に立たない。外様大名は勿論のことである。すべては近侍の臣や幕閣の諸役人のみが従うことになっている。
 家斉の葬儀の行列は埋門《うずめもん》を出て、竹橋を下り、一橋《ひとつばし》から御成道へ向った。
 沿道には諸人が土下座している。
 葬列は、御成道から上野にさしかかる。
 真先に、一番|立《たち》のお払いの徒《かち》二人が、沿道を左右に分れて歩むが、
「ええイ、下におろう」
 と極めて長く遠くに響くように聞える。
 この声が遠くに消えるころ、二番のお払い徒が二人、同じく、
「ええイ、下におろう」
 と声を響かせて行く。
 次に、三番のお払いが同じように呼ばわって通る。
 それから、高張提灯《たかはりぢようちん》が二つ、次に口とり二人ついたお先馬、沓箱《くつばこ》、再び高張提灯二つ、そのあと馬乗り二人、麻上下股立《あさかみしもももだ》ちで二行に歩む。
 次には、白い覆いをかけた挾箱《はさみばこ》が四つ一列に担いで静かに歩む。そのあと、手提灯二つ、台傘《だいがさ》、日傘、雨傘、床几《しようぎ》が、いずれも覆いをかけて通るが、その間に高張を二つずつたてる。
 後に、御徒衆《おかちしゆう》、麻上下高股立ちでつづき、白覆いをかけた具足、長刀の間には、御徒|小人《こびと》目附らがみな麻上下でならんでゆく。次に、小十人組、つぎに手提灯四|張《はり》つづき、次に麻上下の徒頭《かちがしら》、小十人頭が行き、次に高張提灯、そのあとに香炉《こうろ》を持った同朋衆二人が従う。
 次には、薙髪《ちはつ》した小姓が水色の長上下、無紋の小袖で、右は袋入りの刀、左は脇差を持って二列に歩む。あとの替りの役の小姓も同じ扮装《いでたち》である。
 そのあと、老中太田備後守が、衣冠にて冠へこより掛けをなし、鞘巻の太刀を帯び、末広の扇を持つ。その間には高張提灯が入る。
 次が出家、次が高家《こうけ》二人で、左右に歩む。これも衣冠である。
 そのあと、白丁の者がかつぐ柩が行く。柩の四方は高張提灯で、後から若年寄二人が衣冠でつづき、側衆、小姓らが従う。沿道に土下座している諸人は棺が通過するときは、頭を地面にこすりつける。
 槍が通ったあと、麻上下の中奥小姓、中奥御番、目附二人が左右に歩む。次に小人目附、十文字槍、鍔《つば》槍などがつづき、あとに大番頭、書院番頭などが従い、一町ほど隔って供押えがゆく。
 上野に至るまでの道筋には、各大名が辻々の固めをして警固している。
 この行列が上野に着くと寛永寺には、かねて龕《がん》前堂《ぜんどう》というものがしつらえてあって、これに棺を据え、輪王寺の宮が導師となって、数百人の寺僧が出て、いかめしい読経の作法がある。
 これが終って、棺を葬穴に納めるのだが、薙髪した近臣が付き添うくらいのことで、一人として余人は近づくことが出来ない。
 人夫、石工などが、銅棺の蓋をする音や、石を畳む音が離れて立っている者に寂しく聴える。
 前太政大臣正一位徳川家斉の霊はこうして鎮まった。
 大御所家斉の死去は、世間に衝撃を与えた。
 それは、家斉自体が、どうだったという意味ではない。世間の興味は、家斉死後の、中野石翁や林肥後守、水野美濃守一派の凋落《ちようらく》の予想に向けられていたのだ。
 庶民は、いつも黙々としている。何ごとも上からは知らされず、教えられていない。
 しかも、真相はちゃんと知っているのだ。眼は塞がれているようだが、見るべきものはやはり正確に見ているのである。
 文恭院と諡号《しごう》のついた家斉の死去後、一カ月と経たぬうちに、江戸市中には戯文が出た。
 落書は、口を塞がれた庶民が、精いっぱいに洩らす感情の捌《は》け口である。
  思召これから先は出ぬなり   奥向
  内願ごとも止むか重畳《ちようじよう》     取計
  向島石の隠居も淋しくて    権門
  おみよもろ共《とも》法華|三昧《ざんまい》     妙法
 連歌に擬した戯文である。
 思召というのは、家斉が隠居して大御所になったが将軍家慶に対して実権を渡さず、思召という形式で家慶をおさえたことを云う。西丸奥女中が内願といって勝手な要求を持ち出し、それがたいてい「大御所様思召」に化けて、本丸を悩ました。家斉が死んだら、その悪弊もなくなるだろう、との諷刺である。
 石の隠居は、むろん石翁のことで、凋落の暁は、これも大奥を逐われるお美代の方と、法華太鼓を叩いているほか仕方があるまいとの揶揄《やゆ》である。
 この戯文は、江戸市民の人気を得て、評判になった。自然と、林肥後守や水野美濃守などの耳にも入ってくる。
「ばかなことよ」
 美濃守は、白い顔に笑いを泛《うか》べたものである。
「何も知らぬ愚民どもがほざくこと。今に見よ」
 と、あざ笑った。心に期するものがあるのだ。
 家斉が死んだら、すぐにおのれ一派が凋落するように見るのは、あまりに単純な世間の見方だ。そのときの手は、抜かりなく打ってあるのを余人は知らぬ。
 いまに、世間が、呀《あ》っと思うだろう。
 追い落されるのは、水野越前の一派なのだ。そのときの世間の愕く顔を見てやりたい。
 美濃守はひとりで、世人の無知を嗤《わら》っていた。
 折から、石翁より、美濃守宛に、
「大御所様ご病中は何かとご介抱ご苦労であった。ついては、お慰みにもと思い、大石灯籠一基を進上したい」
 と申し入れがあった。
 季節は、春も盛りをすぎようとしていた。
 石翁が水野美濃守に石灯籠を贈ったのは、大御所看護慰労のほかに、もう一つの意味があった。
 それは、美濃守が、家斉死後、西丸より転じて本丸の側衆になったのを祝ったことである。ひとり美濃守だけではなく、林肥後守は西丸老中より本丸の若年寄となり、美濃部筑前守は小納戸頭取となった。
 いずれも出世街道である。
 世間が何と云おうと、この通りだという自信が三人の胸を膨《ふく》らませている。
 殊に、美濃守忠篤は自負の強い性質だったし、何といっても家斉の覚えが目出度かったという余勢を意識している。
 石の隠居も健在なことだ。
(なに、越前づれが)
 と肩を聳《そびや》かす気持であった。
 その石翁の贈った石灯籠は、石翁がわざわざ人夫を使って、美濃守の本所の下屋敷に据えてくれるというのだった。
 親切な隠居である。
 美濃守は愉しくなった。
 今日は四月十六日である。世子家定の誕生日なのだ。
 城中では酒肴を頂くことになっている。
 どうも、あの世子は身体が弱い、と美濃守は、近臣に肩衣袴《かたぎぬはかま》を着けさせながら思っていた。
 いつ見ても蒼い顔をしている。見るからに元気が無い。あんな男を公方にしても勤まるわけがない。頭脳も弱く、云うことも、とんと子供じみている。
 家定などは、一度、将軍につけておいて、早いとこ隠居させることだ。あとは、前田家より迎えた犬千代を将軍にする。それが、自分たちの目的だったし、家定が虚弱なだけに、案外、早く実現しそうに思えた。
 そうなった暁は、こちらの天下である。うまくゆくと、家斉のときよりは自由に権勢が張れるかもしれない。
 さしずめ、自分などが新将軍の側用人となり、実権を一手に集めることだな。
 美濃守は夢見るような瞳《め》になって、輿《こし》に揺られながら登城した。
 当日は、家定の誕生日だというので、城中のどの顔も、いつもより晴々としている。
 美濃守は側衆だから、まず家慶の前に出て御用を伺った。
 家慶も、ふだんの顔色をしていて、別に変ったこともなかった。美濃守が、右大将家(家定)の誕生日の祝儀を申し上げると、おだやかにうなずいたほどだった。
 御用伺いが済んだので、美濃守は詰所に引取ろうとした。
 すると、詰所の入口に、御用部屋(幕閣)の坊主四、五人が美濃守の戻ってくる姿を待ち受けていた。
 御用部屋坊主は四、五人居たが、美濃守忠篤が詰所に入ろうとすると、それを前から塞《ふさ》ぐようにして正面にうずくまった。
「水野美濃守様に申し上げます」
 美濃守は、足を停めて、じっと坊主に見入った。
「御老中水野越前守様仰せに、美濃守殿に御用の儀これあるにつき、すぐに御用部屋にお越し下されたし、とのことにござります」
「なに、越前殿が?」
 美濃守は、何かは知らず、ちょっと不安になった。
 が、別に不安なことは無い。
 不安に感じたのは心の迷いである。ふしぎなことだが、越前守忠邦から何か詰問されるのではないか、と瞬間に思ったのは、どういうことであろう。
 それは、今まで、あまり御用部屋に老中から呼び出されることもなかったからだ。老中が幕吏を譴責《けんせき》するときは、御用部屋に呼び出して云い渡すので、思わず不吉な例に結びつけたのかもしれない。
 しかし、それには先例があるのだ。罪を蒙《こうむ》るときは、前日に御用部屋から奉書を以て当日の登城を命じる。そのときは麻上下、袱紗《ふくさ》小袖着用という指定がある。
 いま、美濃守のおのれが着ているものは、肩衣袴の平服である。何のことがあろう、と彼は自分の怯懦《きようだ》を心で叱った。
 いやいや、老中水野越前が喚び出すからには、もしかすると加増の沙汰か、新役に就けるというのかもしれぬ。美濃守は、家斉存生のころ、度々の沙汰によって加増が五千石にもなっている。
 いま、文恭院(家斉)の思召をついで、公の病床に近侍した労を嘉《よみ》して、さらに加増の褒賞《ほうしよう》をくれるというのかもしれぬ。越前め、何ほどのことがあろう。おれには一指もよう触れまい、と心を直して勇気が出た。
 坊主の案内で、御用部屋に行く。
 御用部屋は将軍の御座の間から遠くはなれた「御膳立の間」を充《あ》てている。これには、上の間と下の間があり、上の間が老中、下の間は若年寄であった。幕府の政令はこの両間から出た。
 美濃守が、上の間にすすむと、水野越前守忠邦が上座に坐っていたが、美濃守をじろりと見た。
 美濃守は、なに、こやつめがと対抗意識に燃えた。家斉在世中の権威の滓《かす》がまだ身から払い落されず、あまり敬礼もしないで、越前の前に横着げに坐った。
「越前守殿。何やら手前に御用があるとのこと、何ごとでござろうか?」
 いとも横柄な口の利き方であった。
 越前守は、美濃守を見て急に風を起したように自分で威儀を正したが、突然の声も大きかった。
「水野美濃守、ただ今より御沙汰を申し聞かす!」
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