正月が過ぎた。
松が除《と》れてから、十五日以上も経った。
昨日、雪が降って、道が泥濘《ぬかるみ》になっている。向島の、この辺は田圃道だから、雪解けがすぐに、どろどろになる。
島田新之助は、足駄を穿《は》いて、ぬかるみに困りながら歩いていた。この辺りに多い植木屋の庭には、梅の蕾《つぼみ》が枝についていた。
石翁の邸の長い塀が見えた。
新之助は、門前を知らぬ顔で往復した。警固の番人が棒を持って立っていたが、寒そうに肩を縮めている。新之助をじろりと見たが、別に怪しむ様子はなかった。
屋敷内の様子は、大体、新之助に分っている。二度まで、この塀の内側に侵入していることだ。
ただ、石翁がこの屋敷の内に寝起きしているかどうか、確かめる必要があった。
仮りにも旗本屋敷に土足で踏み込ませたのだ。黙っている法はあるまい──と云った叔父の又左衛門の意見で、石翁に一太刀酬いる決心が新之助に出来ていた。
石翁の悪行は数えてみて、きりがない。当人は直接手を下さないが、暗い陰に坐っていて、人を指図してやらせてきたのだ。脇坂淡路守、菊川などの他人のことは、先ず措《お》いて、縫を殺させたことでも我慢ができない。これは従妹《いとこ》だし、小さいときから知っている仲だった。
新之助、わしはやるぞ──と又左衛門も顔色を動かしている。石翁を生かして置けない、とも云った。腕の立つ叔父だが、ひとりで斬り込ませるわけにはゆかない。
新之助は、叔父と相談して、まず、石翁の在邸の有無を確かめることにした。世上の噂によると、石翁は、しばしば本郷の加賀藩邸の御守殿《ごしゆでん》に寝泊りに行くという。
御守殿は、将軍の子女を貰った大名が邸内に建てる女房の住居だが、加賀藩の当主の内室溶姫は、石翁の義理の外孫に当る。
折角、邸内に斬り込んで行っても、目指す石翁が居ないでは、何にもならぬ。斬り込みは一度だけで、これに失敗したら二度と繰りかえせないのである。
新之助が立ち寄ったのは石翁の邸の近くにある茶屋である。当時、石翁に進物を持参する大名の家来や旗本が多く、それらのために進物を調製する店や、茶屋が出来ていたくらいである。
「へえ、ご存じありませんか?」
茶屋の亭主は、新之助のさりげない質問に答えて云った。
「ここんところ、お殿様は、ずっとお城に詰め切りでございますよ」
「ほう、そりゃ、どういう訳だな?」
「大きな声では申せませぬが、どうやら大御所様のご病気が大変らしゅうございますよ」
「大御所が!」
新之助の報告を聞いて、又左衛門は眼をむいた。
「病気が悪い悪いと世上で伝えていたが、石翁がお城に詰め切りだとすると、いよいよ、いけなくなったのかな」
「誤伝ではないでしょうか?」
新之助は、叔父の顔を見た。
「こういうことは、よく誤って伝えられることが多いようでございます」
「いや、そうではあるまい」
又左衛門は首を振った。
「石翁の邸の近くの茶屋がそう云うなら間違いはあるまい。世間のとりとめのない噂とは違う」
「手前が見ましたところ、門前はひどく静かでございましたが、茶屋の申すには、一昨夜が、ひどく騒々しかったそうでございます」
「それなら、尚もって間違いはあるまい」
又左衛門は深い眼差しをしてうなずいた。
「そうか。大御所も、いよいよ、いけなくなったか……」
「しかし、まだ、早急に判断するのは、どうかと思います。これまでも、度々、そのような噂が流れておりましたから」
「いやいや。今度は間違いなさそうじゃ。石翁が二晩も城に詰めているなら、まず、大御所の危篤は確実とみてよい。もしかすると……」
又左衛門は、新之助の顔を見て、
「大御所は、いまごろ、亡くなっているかもしれないぞ」
「………」
「かようなことは、容易に世上には洩らさぬものじゃ。大名衆に知らせるときは、息をひいて二日も後だということが多いでの。まして、世間への喪の発表は、ずんと遅れるのがしきたりじゃ」
「そうでございますな」
「新之助、残念なことをしたな」
又左衛門は溜息をついた。
「折角、思い立ったのに、石翁が留守では、どうにもならぬ。当分の間、諦めねばなるまい。隠居は、ちょっと城から帰らぬぞ」
「左様でございましょうな」
「うむむ、残念だな」
又左衛門は、袖をまくって、腕を撫でた。
が、忽ち、眼の光が別なものになった。
「こうしてはおられぬ」
と急に、そわそわして起ち上り、
「新之助、わしは、これから越前守殿の屋敷に行ってくる」
と、意気込んだ声を出したものだった。
「大御所危篤と聞いて、石翁があわてて城に駆けつけ、ずっと詰め切りでいる理由が判るか」
又左衛門は眼までぎらぎらさせた。
「隠居め、最後の大芝居を打とうとしているのじゃ!」
家斉は、大鼾《おおいびき》をかいて寝ている。
この状態は、昨日からだった。その前は、細い声だが、ものも云うし、意識はあったのだ。
それが、昨日の朝になって、床の中から、瘠せ細った手を出して、お美代の方をさし招くようにした。
「は?」
お美代の方が、枕もとに近づいて、話を聴き取ろうとすると、家斉は美代の手を握って、
「き、ぶん、が、わ、るい」
と、もつれる舌で云った。
「ご気分がお悪うございますか?」
お美代の方がのぞき込むと家斉の眼は、もう、妙に、白くどろんと濁っていた。握った手にも力が脱《ぬ》けている。
「美濃」
はっとしたお美代の方は、すぐ横の水野美濃守の顔を見た。
「はっ」
美濃守は、家斉の顔に一瞥をくれて、さっと座を起った。
病間になっているお小座敷を出ると、襖の外から、
「お医師、お医師」
と叫んだ。
「はあ」
詰めている典医どもの返事が聞えた。
家斉が仆《たお》れてから、すでに久しい。医者は交替で十人ばかりが詰めきっているが、まさか急変があろうとは思わないから控えの間にかたまっていた。脈の伺いには、半刻の間隔をおいて病間に伺候する。
医師どもが、病間に詰め切らないのは、お美代の方と美濃守とが、何となく、自分たちを邪魔者扱いにするからである。
この両人の様子を見ていると、全く恋人同士というに等しい。寝ている家斉などは、有って無きが如くで、両人で熱っぽい視線を絡み合せ、身体を摺り合せている。医者の方が眼の遣り場に困るのだった。
そんなことだから、なるべく御病間には遠慮するようにしていたのだが、美濃守の絶叫で、一人が襖を開けて顔を出した。
「な、何を致しておる! 大御所のご様子が変ったぞ」
美濃守は、顔を真蒼にして怒鳴った。
「えっ」
中川常春院はじめ、医師どもは、駆け転ぶようにして病間に走った。
家斉は、大鼾をかいているが、いままでの鼾と違って、声が異様である。眼のふちは黝《くろず》み、眼窩《がんか》が落ち、鼻梁《びりよう》が瘠せて高く、鼻翼《こばな》をふくらませて弱い呼吸を吐いている。
素人眼にみても、断末魔の形相《ぎようそう》だった。
「恐れながら」
脈を診《み》た常春院が平伏した。
「大御所様のご臨終、お間近かにござります」
家斉は、死相を現して大鼾をかいている。鼾だけを聴いていると、昼寝でもしているようだ。
「恐れながら、この鼾が」
中川常春院は、お美代の方と、水野美濃守とを等分に見て云った。
「鼾が熄《や》んだときが、ご臨終でございます」
お美代の方は、さすがに蒼い顔をしていた。美濃守が、
「あと、どれくらいご存命であらせらるるか?」
と訊くと、
「まず、明日の今ごろが精いっぱいかと存じます。早ければ、今宵のうちにも」
と答えた。
それからが騒動だ。
美濃守がこのことを西丸老中林肥後守に報らせる。肥後守から、本丸老中ならびに若年寄に連絡する。これはすぐに将軍家と、本丸大奥とに伝わった。
将軍家慶は、供揃も待たずに西丸に来た。家斉は湯殿に倒れて以来、何度か大漸《たいぜん》を伝えられて、またか、と思われたが、ちかごろ衰弱がひどく加わり、余命いくばくもなしと沙汰されているので、今度は家慶も本気になってやって来た。
ついで、家慶の世子家定も来る。居合せた老中真田信濃守、堀田備中守、側用人堀大和守、若年寄本庄伊勢守、遠藤|但馬《たじま》守も西丸に駆けつけた。
それから、加賀や安芸などの、家斉の子女が嫁いだ先の大名衆にも知らせる。これは、数が多いからいちいち、急使を立てるのに大変であった。
二刻も経たないうちに、御三家を筆頭として、加賀宰相斉泰、これは家斉の婿で、溶姫の夫だ。松平出雲、島津、浅野などの子女をもらった親藩が続々と登城してくる。
尤も、世上に大御所ご容体急変のことが洩れてはならない、という配慮から、隠密のうちの登城であった。
この夜から、西丸役人は云うまでもなく、老中、若年寄は泊り番をはじめ、万一のときに備えた。
御小座敷に寝ている家斉の枕辺には、水野美濃守をはじめ、美濃部筑前守、竹本若狭守などの側衆が控えて、家斉の背が楽になるように抱きかかえるようにしていた。裾の方には、小姓が三人いて、蒲団の下から家斉の脚を揉むようにしている。
こんな危篤の状態になると、女どもの力では及ばないから、お美代の方も、家斉の手をとって撫でるばかりであった。医者は五人が交替で絶えず脈を伺っている。
そのうち、石翁が、病間に摺り足で入ってきた。
「ご隠居さま、これへ」
美濃守が低い声で迎えた。
石翁は、病間に、つ、つ、つ、と屈みながら爪先で入ってくると、家斉の枕辺にぴたりと坐った。
お美代の方も、水野美濃守も、石翁のために身をずらせている。
永年、特別の恩寵をうけている石翁のことだから、石翁が、傍若無人に、家斉の枕辺近く坐っても、誰も文句を云うものがない。
石翁は、じっと上から家斉の顔をさしのぞいていた。
家斉は、落ちくぼんだ眼を閉じ、口を開けて、相変らず鼾声《かんせい》をあげている。頬が削り取ったようにすぼみ、顔の色は、すでに死人と同じであった。
石翁は、家斉のその顔をしばらく凝視していたが、ほろほろと泪をこぼした。それから、うつむいて泣いた。
お美代の方はじめ、並居る者も、さしうつ向く。日ごろ、剛愎な石翁が泣いたのだから、みなの胸は余計に悲しくなったのであろう。このときは、見舞いに来ていた将軍も世子も本丸に、一旦、還っていた。
「常春院殿」
石翁は顔をあげて、主治医の中川常春院を睨むように見て声をかけた。
「はっ」
常春院は縮んで返事をする。
「大御所のご寿命、あと、いくら持つ?」
「されば、恐れながら、あと一日かと……」
「今度は、ご回復は覚束《おぼつか》ないか?」
「はっ。ご衰弱、殊のほかひどうございます故……何とも恐れ入りましてございます」
常春院は罪人のように平伏した。
「うむ」
石翁は、並居る人々の顔を順々に見廻した。病室は狭いので、御三家ならびに親藩の大名衆は、家斉に対面すると、別間に引き取っている。だから、此処には、西丸老中林肥後守はじめ、美濃部筑前守など西丸側衆と小姓が居るくらいなものであった。
「肥後どの」
「は」
老中、林肥後守が顔をあげた。
「筑前どの」
側用人美濃部筑前守が顔をあげた。
「それに、美濃どの」
石翁が水野美濃守に眼をむけると、美濃守が静かに顔を起した。
「ちと、お話ししたいことがござる。あれへ」
と云うと、自分で先に座を起った。
ずっと離れた一室に四人が囲い合うように坐ると、
「さて、方々」
と石翁が三人をじろじろ見て、低声《こごえ》で話しかけた。
「かねて、大御所様百歳のときに備えて、われわれが準備したること、いよいよ実行の段になりましたぞ」
大御所家斉は、天保十二年|閏《うるう》正月三十日、西丸奥にて他界した。年六十九歳。
一代の驕児《きようじ》で、これほど仕たい放題のことをして死んだ大御所は居なかった。隠居して西丸に退いても、最後まで、現将軍家慶に実権を与えなかった。
侍妾が多く、子女五十四人の嫁ぎ先に苦労し、縁談をうけた大名の方でも迷惑したのは有名な話である。
家斉の驕奢《きようしや》については、砂糖の話がある。
家斉が将軍のとき、菓子製造の用として一日、白砂糖千斤を費した。そのとき、御膳番掛りが評議して、いかに将軍家でも、砂糖一日千斤を費すと、一年に積って三十六万斤となる。あまりに大そうであるから検分しようと云って御膳方に申し入れた。
立ち会ってみると、半切桶《はんぎりおけ》に砂糖三百斤ほど入れ、水を沢山汲み入れ、白木の棒でかき立て、この砂糖は砂が混っているからといって、桶をひっくり返し、三杯まで取りかえたので、御膳番掛りが肝をつぶしたという。
すべてが、この調子で、贅沢はこの上もなかった。次代の家慶になって、水野忠邦が、いわゆる天保の改革をやったのは、当然だった。
さて、家斉が死んでも、すぐに喪を発したのではない。
これを知っている者は、近習《きんじゆ》の者、老中、若年寄、三奉行、目附、医者、奥女中などで、そのほかへは厳重にこれを秘した。
これは、葬式の用意や、御宝塔(墓所)の築造に、相当な日数がかかるから、それらが完成した上で、初めて喪を発する。
大御所、将軍の他界の当日、すぐにこれを知る者は作事奉行と朱座だといわれる。作事奉行は、墓所を築造するためだが、朱座へは当日より朱の売買を禁ずる旨の達しをする。
これは棺に朱を詰める(腐蝕防止)ため、にわかに申しつけても、朱の不足が無いようにするためだ。
家斉が他界して、二日ののちに、「御肌付」と唱える棺が出来た。桐のマサ目一寸板に、高さ四尺五寸、横四尺ものだ。
その夜は、かねて寵愛をうけた小姓たちが入棺のことをする。
家斉の死体には白|無垢《むく》をきせ、直垂《ひたたれ》をつけ、太刀や烏帽子《えぼし》を納めた。
棺に納めると、朱をつめる。
かねて、家斉の今日のことは予想されていたので、女中どもは、思い思いに、法華経を写したものをお棺に納めてくれと持ってくる。家斉の生前愛好したものも詰める。棺の隙間には、華麗な小蒲団のようなものを入れ、次には葉抹香を十俵ほど詰める。この間に、墓所は昼夜を分たずに築くのだが、この間にも、石翁の西丸派と、忠邦の本丸派とは互に秘策を練っていた。
本丸老中水野越前守忠邦は、家斉の葬儀奉行を仰せつけられた。
そのために大そう忙しい。
家斉の遺骸は、上野東叡山寛永寺に葬ることになった。
徳川家の菩提寺《ぼだいじ》は、寛永寺と、芝の増上寺と二つある。将軍や大御所が死去するたびに、葬式をどちらで行うか、両寺の争いになっていた。
しかし、家斉の宗旨は法華宗である。法華宗信者の家斉を他宗の寺に葬るのは不合理である。こういう場合を予想して、お美代の方の実父日啓が、感応寺を上野や芝と同格にせよと請願していたのであった。
感応寺は、天保五年に、雑司ヶ谷に二万八千余坪の地を賜り、その造営には、武士は大小をさして土運びをし、大奥女中は縮緬《ちりめん》などの贅沢な着物をきて、もっこかつぎをしたという。そのほかの人夫、一日に何万人となく働いて前代未聞の地形《ちぎよう》築きであったという。日啓は、ここに寛永寺や増上寺に劣らぬ七堂|伽藍《がらん》を建て、輪奐《りんかん》の美を競うつもりであった。
むろんこれは家斉の意志から出たことで、家斉がもっと存命していたら、日蓮宗の徳川家菩提寺が出来ていたかもしれない。
さて、諸般の準備の進行状態からみて、家斉の葬儀は、大体、二月下旬には出せる見通しがついた。
目の廻るように忙しい水野忠邦が、或る日、将軍家慶に面謁を求めた。
家慶は、亡父公の葬儀の打ち合せであろうと、そのつもりで会うと、
「暫らく、お人払いを……」
と忠邦は申出た。
葬儀の話に、人払いは異なことである。家慶が忠邦の面貌を見ると、大そう沈鬱な顔をしている。
人払いの上、家慶に対し、忠邦は何ごとか話していた。その話が何か、誰も傍に居ないので、他人には分らない。
話は、半|刻《とき》近くもかかった。
忠邦が退出したあと、家慶の顔は、すこし蒼くなっていた。
西丸老中、林肥後守|忠英《ただひで》から、お目通り願いたしとの申し出があったのは、その日の夕刻であった。
「今日は、夕刻であるから、明日にするように」
家慶から、そう答えがあったと本丸老中より伝えた。
次の日、早朝に、林肥後守が拝謁を申し出ると、
「大御所様ご他界により、上様にはご悲嘆のあまり、ご気分|勝《すぐ》れさせられず……」
とこれも、拒絶された。
水野忠邦が、ひそかに何ごとかを言上したのは家慶だけではない。
彼は家斉夫人にも面謁を求めた。
家斉夫人寔子は、島津から来ている。
生前の家斉とは夫婦仲があまりよくなかった。多数の側妾《そばめ》を擁して、荒廃した愛欲生活を送っている家斉に呆れて、夫に近づいていなかった。
が、家斉の逝去後は、西丸の奥に引込んで、髪を下ろし、冥福《めいふく》を祈っていた。
本丸老中、水野越前守が、ご機嫌伺いに面謁を求めたとき、この度の葬儀奉行をしている忠邦のことであるから、それに関連したことを言上に来たものと誰しも思っていた。
夫人に会った忠邦は、家慶のときと同様、ここでも二、三の重立った侍女以外は、人払いを乞うた。
忠邦が何を云ったか、夫人寔子が何を聞いたか、そこに居合せた者のほかは分っていない。
とにかく、話は半刻近くかかり、忠邦は退出する。
忠邦が、お広敷の廊下を歩いていると、ここで西丸老中林肥後守忠英と出遇った。
双方とも互に会釈した。
「越前殿には、この度のご大役、何かとご苦労に存じます」
肥後守が挨拶すると、
「いやいや、大御所様|薨去《こうきよ》に当り、肥後殿のお世話こそご苦労でございました」
と忠邦も挨拶を返す。
「上様のご機嫌は如何でございますな?」
肥後守が、さり気なく訊く。
「されば、ご他界後、ご気色勝れさせず、われらも心痛いたしておりましたが、どうやら明日あたりより、表へ御出座になられるようでございます」
「おう、明日より表へ」
肥後守は急に眼をあげたが、気づいたようにその眼を伏せた。
「恐れながら、ご親子の情、さこそとお察しいたします」
「そこもとより、上様にお目通りを願い出ておられることは、手前も存じておりますが」
忠邦は、じろりと肥後守を見て、
「明日よりご出座に相成る模様でござれば、左様にお取り計らい仕ります」
と好意を見せた。
「それは千万|忝《かたじ》けない」
肥後守は礼を云う。のみならず、忠邦が家斉夫人のところに機嫌奉伺に来たことまで謝した。
肥後守は、さらに葬儀の準備の進行状態まで訊いて、多分、二月の二十日前後にはご大葬が行われようという返事を忠邦からとった。
肥後守が、忠邦を見送って、部屋に戻ると、水野美濃守と石翁とが居合せていて、
「なに、越前が御台所に会いに参ったと?」
と、話を聞いて顔色を変えて叫んだのは石翁であった。
「越前が、御台所のところへ参ったのか?」
石翁は、大きな眼をむいて、睨むようにしている。
「左様、御台所のご機嫌伺いと申しておりましたが」
林肥後守は、石翁があまり愕いているので、かえって、きょとんとした顔をしていた。
「ご機嫌伺い?」
石翁は、じろりと肥後守を見て、
「お手前は、その席に立会われたのか?」
と反問する。
「いえ、手前は居りませぬが」
肥後守は、すこしうろたえて、
「なにせ、われわれとてお声のない限り近づけぬ御台所のお部屋でございますれば、その場には参りませぬが、越前は葬儀奉行、かてて加えて大御所ご他界について、御台所にご挨拶申し上げたことと存じます」
石翁は横を向いて黙った。気に入らないときの返事はしないのが癖だ。
「何か……」
水野美濃守が、見かねて、顔色を窺《うかが》うように石翁を見た。
「ご不審でも?」
石翁は眉間《みけん》に立て皺を深く彫って考えていたが、
「これは、先《せん》を越されたかな」
と呟いた。
「え、先を越されたとは?」
「されば、越前が御台所に挨拶に参ったのは、ただご愁傷を申し上げただけではあるまい。また、葬儀の次第を報告に参ったのでもあるまい。もしかすると、もっと容易ならぬことを云ったかも知れぬぞ」
「容易ならぬこととは?」
肥後守も美濃守も、石翁の顔を揃って見つめた。
「われらのかねての計画を察して、防ぎに参ったのかもしれぬ……」
「………」
「のう、思い当らぬか。肥後殿が、本丸に上様のお目通りを願い出ても、容易にお許しがなかったではないか?」
「そのことなら」
肥後守が急いで云った。
「上様のご気色も、どうやら本復となりましたので、明日はお目通りできるそうにございます」
「誰が、左様に申しました?」
「は。それは、あの、越前でございますが」
「ははは」
石翁は低く嗤《わら》った。
「それ、ご覧《ろう》じろ。すべて越前の計らいではないか。本丸老中故、当り前と申せばそれまでだが、何やら、すべて越前の指し金で本丸が動いているような気がする」
「ご隠居さま」
「はて、これは失敗《しくじ》ったかな」
「さしたることはございますまい」
水野美濃守が、石翁の曇った顔を見て、勇気づけるように云った。
「越前め、たとえ、われらの目算に気がついたとて、何しに制《と》め立てが出来ましょうや。恐れ多くも、大御所ご直筆の御遺訓でございます。上様とて、抗《さから》いは出来ませぬ」
「まことに」
と云ったのは、林肥後守で、横から美濃守に賛成した。
「ふだんより大御所様のご威勢に、頭上らぬ上様でござる。殊に、薨去されてすぐあとに拝するご遺志でございますから、何ともお頭《つむ》を下げられたまま、一言もございますまい。そこを一気に乗り切るのでございます」
「越前はもとより、余の者が何と申そうと、お墨附をかざし、恐れ入らせるばかりでございます」
美濃守が云う。
「その場で、ご遺訓に逆《さから》えば、上様にとってはこの上なきご不孝、また、他の者は、不忠者になりまする。何か、小賢《こざか》しげに口を挾む者があれば、かえって、こちらに好都合、不忠者じゃと大喝して、追い落すことができまする」
「はて、これはご隠居さまの、はじめからの目算ではございませなんだか?」
両人は、代る代る石翁の沈んだ顔色をひき立てるようにした。
石翁は腕を組んでいたが、一向に晴々しい顔をしなかった。
「いまも、そう思っている。お墨附を楯に、犬千代様後嗣に強引に押し切るつもりだが、どうも、越前の動きがのう……気に食わぬ」
「これは、ご隠居さまとも覚えぬ、お気の弱いことを仰せられる。上様さえその通り、なんの越前づれが妨げになりましょうや。もし何ぞと云えば、大御所さまご遺訓に背《そむ》く不忠者と極めつけて、退職させる口実をつけるだけでございます」
「………」
「それに、ご隠居さま。越前の生命は、そう永うはございませぬ」
「なに?」
美濃守の言葉に、石翁も屹《きつ》となった。
「さればでござる。大井村の修験教光院なる者、近来稀なる祈祷者でござります。彼が祈れば、いかなることも叶わざるものなく、たとえば人命をも縮めることができまする。手前、ひそかに、かの教光院に命じ、越前めの生命を呪わしておりますから、きゃつめ、程のう患《わずら》いつき、相果てることと存じまする」
美濃守は得意そうに云った。
石翁は答えない。
重い溜息が口から洩れた。そんな悪あがきが、余計に事態を不吉にするように見える。もし、呪詛が暴《ば》れて、新任の町奉行鳥居甲斐守|忠耀《ただあき》に検挙されたらどうする気だろう。鳥居は忠邦の腹心だった。