香椎署からの連絡で、福岡署から刑事部長と刑事が二名、警察医、鑑識係などが車で来たのは、それから四十分後であった。
死体をいろいろな角度から撮影しおわると、背の低い警察医が、しゃがみこんだ。
「男も女も、青酸カリを飲んでいますな」
医者は言った。
「この、きれいなバラ色の顔色がその特徴です。このジュースといっしょに飲んだのでしょうな」
ころがったジュース瓶の底には、飲み残しの橙 色(だいだいいろ)の液体がたまっていた。
「先生、死後どれくらい経過していますか?」
刑事部長がきいた。彼は小さな髭(ひげ)をたくわえていた。
「帰ってよく見なければ分からんが、まず十時間内外かな」
「十時間」
部長はつぶやいて、あたりを見まわした。計算すると、それは前夜の十時か十一時ごろになる。部長の目は、そのときの情死の光景を想像しているようであった。
「女も男も同時に薬を飲んだのですね?」
「そうです。青酸カリ入りのジュースを飲んだのですな」
「寒い場所で死んだものですね」
小さい声で、ほとんど呟くように、ひとりごとを言う者がいた。警察医はその声の主を見あげた。よれよれのオーバーを着た四十七八の、痩(や)せた風采(ふうさい)のあがらぬ男だった。
「やあ、鳥飼君」
と医者は、その刑事のしなびた顔に話した。
「そんな考えは、生きているやつの言うことでね。死場所に寒いも暑いもないだろう。そういえばジュースだって冬向きではないね。それに当人たちは」
と医者は、ちょっと笑った。
「倒錯的(とうさくてき)な心理があるんじゃないかな。普通の状態とは逆な、倒錯した一種の恍惚的(こうこつてき)な心理が」
背の低い警察医が、そんな不似合な文学的な言葉をつかったので、刑事たちの間に、小さな笑いが起こった。
「それに、毒薬をのむということは、やはり決断がいるからね。やはりそういう心理の力で死ぬことを望むだろうな」
部長もそんなことを言った。
「部長さん。こいは無理心中じゃなかでっしょな?」
刑事の一人が訛(なまり)をまる出しにして言った。
「無理心中じゃないね。着衣の乱れもないし、格闘した形跡もない。やはり合意の上で、青酸カリをのんで死んだのだな」
それは、そのとおりであった。女の姿態は、行儀よく横たわっていた。白い足袋は、傍にきちんと揃えられてあるビニール草履から、脱いだばかりのようにきれいだった。両手は前に組みあわせていた。
あきらかに、情死とわかったので、刑事たちの顔には、弛緩(しかん)した表情があった。犯罪がなかったという手持無沙汰がどこかあった。つまり、犯人を捜査する必要がなかった(ヽヽヽヽヽヽヽ)のである。
二つの死体は、運搬車で署に持ち去られた。刑事たちも寒そうに肩をすくめながら車に乗った。あとは、邪魔もののなくなった香椎潟が、弱い冬の朝の陽を浴びて、風を動かしながら、おだやかに残った。
署にかえった死体は、綿密に検査された。それは衣類を一枚ずつ剥ぐたびに写真に撮るという念の入った方法である。
男の上着のポケットから名刺入が出た。身もとはそれによって知られた。名刺入は定期券入を兼ねていた。阿佐ヶ谷・東京間の定期券には、佐山憲一(さやまけんいち)、三十一歳とあった。名刺はさらにくわしかった。名前の横に、「××省××局××課、課長補佐」の肩書があった。左には自宅の住所名がある。
刑事たちは顔を見合わせた。××省××課といえば、目下、ある汚職事件が摘発の進行中で、ほとんど毎日の新聞に、記事が載っていないことはなかった。
「遺書は?」
部長は言った。
それは入念に探された。しかし、どのポケットにも遺書らしいものはかくされていなかった。一万円たらずの現金、ハンカチ、靴ベラ、折りたたまれた昨日の新聞、皺になった列車食堂の受取証。
「列車食堂の受取証? 妙なものを持っているもんだね」
部長は、それをとって、ていねいに皺を伸ばした。それはポケットの底に何気なしに残っていたという様子で、くたくたになっていたのだ。
「日付は一月十四日、列車番号は7、人数は御一人様、合計金額は三百四十円。東京日本食堂の発行だ。何を食べたかわからん」
部長はその伝票の要点を言った。