三原は江ノ電を大仏前で降りた。あいかわらず小学生の行列が騒ぎながら歩いていた。
長谷川病院はすぐわかった。三原は、ここでは普通に名刺を出した。
院長というのは、白髪にきれいに櫛目を通した赭(あか)ら顔の肥った人であった。彼は、三原の名刺を卓の上に置いて向かいあった。
「安田さんの奥さんの病状についておうかがいしたいのですが」
三原が言うと、院長は細い目を名刺に走らせ三原の顔にもどした。
「それは、公務上に関係のあることですか?」
「まあ、そうです」
「患者の秘密にわたることですか?」
院長はきいた。
「いえ、べつに秘密ということではありません。あの奥さんの病態について、おたずねしたいのです。普通のお話で結構です」
三原が言うと、院長はうなずいた。それから看護婦にカルテを持ってこさせた。
「病気は肺結核です。播種性(はしゆせい)肺結核症といって、ずいぶん長くかかって治癒にやっかいなものです。奥さんのは、もう三年もかかっていますが、はっきり言うと全治の見込みは薄いのです。これはご主人の安田さんにも言ってあります。まあ、目下は新しい注射薬などで保(も)たせている状態です」
院長はそう言った。
「すると、あんなふうに寝たきりなのですか?」
「寝たり起きたりというところでしょうな。長く起きていると、とても疲れるようです」
「そんな状態では、奥さんの外出は全然できないのですか?」
三原はきいた。
「いや散歩ぐらいはできます。湯河原に奥さんの親戚がありましてね。ときにはそこに、一泊か二泊で遊びに行くこともあります。その程度ならできるのです」
と、医者は答えた。
「すると、先生は毎日、往診に行かれるのですか?」
「急に変化する状態ではないので、毎日行ってはいません。火曜日と金曜日に診(み)に行くことにしています。それに、日曜日の午後、ときどき、行くことがあります」
三原がちょっと妙な顔をしたものだから、院長は少しふくむような微笑をした。
「あの奥さんは文学趣味がありましてね。ああいう患者には俳句とか和歌とかをする人が多いのですが、奥さんは小説もよく読むし、自分でも短いものを書きたいらしいのです」
三原は病間で見た文学雑誌や翻訳書を思いだしながら院長の言葉を聞いた。
「じつは、私も文学のまねごとが好きでしてね。久米正雄さんなんかともご懇意にしていました。いま鎌倉には文士の方がたくさんおられますが、私のお交際(つきあい)は久米先生ぎりです。もう、この年齢(とし)になっては恥ずかしくてできません。ただ根が好きなものですから、老人の仲間うちだけで、随筆とか和歌、俳句のようなものを薄い雑誌にして季刊で出しています。盆栽いじりみたいなものですよ。そんなことで、あの奥さんの趣味とも合うので、日曜日には、たまには行って話すことがあるのです。向こうでもよろこびましてね。半年前でしたが、随筆の原稿をもらいましたよ」
院長は自分で興に乗ったようであった。その随筆を掲載した雑誌を見せようか、と言った。三原は頼んだ。
これですよ、と持ってきた雑誌は「南林(なんりん)」という表紙がつき、三十ページぐらいの薄さであった。三原は目次を見て、ページを開けた。
「数字のある風景」という題で、下に「安田亮子(やすだりようこ)」とあった。ははあ、亮子という名前なのかと三原ははじめて知った。彼はその奇妙な題の本文を読みはじめた。
長い間、寝たきりでいるといろいろな本が読みたくなる。しかし、このごろの小説はみんなつまらなくなった。三分の一まで読んだら興を失って閉じることが多い。ある日、主人が帰って汽車の時刻表を忘れて行った。退屈まぎれに手にとってみた。寝たきりの私には旅行などとても縁のないものだが、意外にこれがおもしろかった。下手な小説よりずっと面白い。主人も、仕事の上で出張が多いから、時刻表をよく買っている。じっさいによく見なれているらしいが、それは実用からで、病床の私には非実用のおもしろさである。
時刻表には日本中の駅名がついているが、その一つ一つを読んでいると、その土地の風景までが私には想像されるのである。豊津(とよつ)、犀川(さいかわ)、崎山(さきやま)、油須原(ゆすばる)、勾金(まがりかね)、伊田(いた)、後藤寺(ごとうじ)、これは九州のある田舎の線の駅名である。新庄(しんじよう)、升形(ますかた)、津谷(つや)、古口(ふるくち)、高屋(たかや)、狩川(かりかわ)、余目(あまるめ)、これは東北のある支線である。私は油須原という文字から南の樹林の茂った山峡の村を、余目という文字から灰色の空におおわれた荒涼たる東北の町を想像するのである。私の目には、その村や町を囲んだ山のたたずまい、家なみの恰好、歩いている人まで浮かぶのである。徒然草(つれづれぐさ)に「名を聞くより、やがて面影は推(お)しはからるる心地するを」という文句があったことを覚えているが、私の心も同じである。所在ないときは、時刻表のどこを開けても愉(たの)しくなった。私は勝手に山陰や四国や北陸に遊んだ。
こんなことから、つぎに時間の世界に私の空想は発展した。たとえば、私はふと自分の時計を見る、午後一時三十六分である。私は時刻表を繰り、十三時三十六分の数字のついた駅名を探す。すると越後線の関屋(せきや)という駅に122列車が到着しているのである。鹿児島本線の阿久根(あくね)にも139列車が乗客を降ろしている。飛騨宮田(ひだみやた)では815列車が着いている。山陽線の藤生(ふじう)、信州の飯田(いいだ)、常磐線の草野(くさの)、奥羽本線の東能代(ひがしのしろ)、関西本線の王寺(おうじ)、みんな、それぞれ汽車がホームに静止している。
私がこうして床の上に自分の細い指を見ている一瞬の間に、全国のさまざまな土地で、汽車がいっせいに停まっている。そこにはたいそうな人が、それぞれの人生を追って降りたり乗ったりしている。私は目を閉じて、その情景を想像する。そのようなことから、この時刻には、各線のどの駅で汽車がすれ違っているかということまで発見するのだ。たいへんに愉しい。汽車の交差は時間的に必然だが、乗っている人びとの空間の行動の交差は偶然である。私は、今の瞬間に、展(ひろ)がっているさまざまな土地の、行きずりの人生をはてしなく空想することができる。他人の想像力でつくった小説よりも、自分のこの空想に、ずっと興味があった。孤独な、夢の浮遊(ふゆう)する楽しさである。
仮名のない文字と、数字の充満した時刻表は、このごろの私の、ちょっとした愛読書になっている。──
「ちょっとおもしろい考えでしょう?」
三原が読みおわるのを待って、院長は口を開いた。笑うといっそう細い目であった。
「寝ているから、こんなことを考えるのですね」
「そうですね」
三原は気のない相槌を打って雑誌を返した。彼には安田亮子の感じ方よりも、本文の冒頭にある「主人も仕事の上で出張が多いから時刻表をよく買っている。じっさいによく見なれているらしいが」の一句が目に残って、しばらく院長の存在を忘れていた。