「石田部長のことはわかったよ」
と、笠井主任は三原に言った。刑事が直接部長にききに行ったのでは、先方を刺激してまずい。それでなくとも、石田部長は進行している省内の汚職事件に神経をとがらせているときだから、慎重にした方がいいというのが主任の意見だった。わかったよ、と言ったのは、ほかから手をまわして調べた結果の意味だった。
「一月二十日、たしかに北海道に出張している。上野を十九時十五分発の急行《十和田》で出発し、二十一日の二十時三十四分着の《まりも》で札幌に着いている。つまり、安田辰郎とまったく同じ汽車で行ったわけだね」
主任は石田部長のそのときの日程のメモを示した。それによると石田部長は札幌に下車せずに、そのまま釧路まで乗りつづけている。あとは北海道の各管轄地をまわっているのだ。
「それとなく、安田辰郎のことを聞かせたがね。たしかに札幌までは同じ汽車だったと言ったそうだよ。安田も二等だったが、車両(はこ)がちがっていた。しかし、ちょいちょい挨拶にきたから間違いないというのだ。出入りの商人だから顔はよく知っているそうだ」
主任は、調査の結果をそう説明した。
「そうですか」
三原はがっかりした。ここにも、安田が確かにその列車に乗っていたという目撃の証人が現われていた。しかもこんどは安田に作られた証人ではない。一省の高級官吏であり、出張の予 定(スケジユール)は数日前から決まっている役人なのだ。現に連絡船の乗船客名簿にも名前をつけている。疑点は塵ほどもなかった。
「君」
と、三原の沈んでいる様子を見て、笠井主任は立ちあがった。
「天気がよさそうだな。五分ばかり、そこいらを散歩しようか」
じっさい、外は明かるい陽が降りそそいでいた。強い光はまるで初夏のようだった。上着を脱いで歩く者が多かった。
主任は先に立って歩き、車の流れる電車通りを横切って、お濠端にたたずんだ。皇居の白い城壁が輝いている。暗い庁内の部屋から出た目には、あたりは素抜(すぬ)けたようにまぶしかった。
主任は濠を眺めるように少し歩き、ベンチを見つけると腰をおろした。よそ目には会社員が二人、事務所を脱け出してさぼっているように見えた。
「君が北海道に行っている留守の間、僕は佐山憲一とお時とのあいだを洗わせたよ」
主任は煙草をとり出し、一本を三原にすすめて言った。
三原は思わず主任の顔を見た。──情死した二人の間を洗う。とっさに意味がわからなかった。何を求めようというのか。
「情死するくらい深かった両人の関係を今さらほじくる必要もなかったが、念を入れたわけだ」
主任は三原の気持に答えるように言った。
「ところがね、よっぽどうまく会っていたとみえて、はっきり佐山とお時との関係を知った者がないのだ。小雪の女中どもは、お時の心中の相手が佐山というのでびっくりしているのだ。ああいうところの女は、その方面には嗅覚(きゆうかく)鋭いのだがね。全然、気がつかなかったそうだ。しかし」
しかし、と言いかけて主任は煙草をふかした。それは、これから言うことに意味があるというそぶりであった。
「しかし、お時に愛人がいたのは確かのようだね。彼女は小さいアパートに一人でいたが、よく彼女あてに電話がかかってきたそうだ。管理人の話だと、女の声で《青山》と名乗っていたそうだが、ときどき蓄音器の音楽かなんかいっしょに聞こえていたというから喫茶店の女かもしれない。が、その女の声は、体裁上、お時を電話に呼び出すときに誰かから頼まれたもので、お時にかわると、先方も男の声に変わったに違いないと管理人は言うのだ。その電話がかかると、いつもお時はすぐ、そそくさと身支度して出て行ったというのだがね。そのことは、彼女が死ぬ半年ぐらい前からつづいていたそうだ。お時は一度も男の客をアパートに迎えたことがない。つまり、それほど彼女は用心深く男と会っていたわけだね」
「その相手が佐山というわけですか?」
三原は、心のどこかに不安のようなものを感じながらきいた。
「たぶん佐山だろう。佐山の方も調べたが、これはお時以上にわからない。日ごろから無口な男だったそうで、それに小心だった。自分の情事関係を他人にもらすような性質ではなかったようだ。現にお時と情死しているから、彼女と関係のあったことは確かだね」
主任の断定には、口ぶりに重量感の空疎(くうそ)さがあった。それが三原の漠然とした不安を大きくした。
「つぎに安田辰郎の情事関係を内偵させたよ」
笠井主任はそう言うと、目を皇居の松の梢に向けた。石垣の上には、警手が一人、小さい姿で立っていた。
三原は主任の顔を凝視した。自分が北海道に出張している間に、見えない流れが渦巻いてこの主任の周囲に押し寄せたことを知った。むろん、主任は一個の粒である、捜査(ヽヽ)という有機体の中のである。
「これもわからんな」
主任は三原の顔色などかまわずに、ぼそりと言った。
「安田辰郎という男は、一週間に一度は、鎌倉の病妻のところへ帰る。だから、他の女関係を考えられる可能性があるのだが、はっきりした実証がつかめない。もし、あったとしたら、よっぽど巧妙に外にもらさないでいるのだね。それとも、そう考えるのは、こっちの勘ぐりで、安田は女房孝行一途(いちず)の亭主かもしれない。じっさい、調査すると、夫婦仲は円満らしいからね」
三原はうなずいた。それは彼も鎌倉に行って、安田の妻に会ったとき感じたことであった。
「どうも、お時といい、佐山といい、安田といい、いや、もし安田に女があったとすればだが、三人とも情事の秘密をずいぶんうまく外部にかくしたものだね」
三原は、その言葉で、どきんとした。いままで、ぼんやりとひろがっていた予感が、急速に一個の形に収縮されてゆくのを感じた。
「主任」
三原は動悸(どうき)をおぼえながら叫んだ。
「何かあったのですか」
「あった」
笠井主任は言下に言った。
「課長がね、この情死事件に急に熱心になったのだ」
課長が熱心になったという一句で、三原は、それはもっと上の方から(ヽヽヽヽヽ)急に課長に来たのだと直感した。
これは当たっていた。主任がそれを話した。