三原は帰って主任に話すと、主任はすぐその意見に賛成した。
「よろしい。みんなで百四十三人だね」
主任は名簿を見て言った。
「都内が半分以上だね。あとは住所が地方になっている。都内の方は刑事たちに手分けさせて当たらせよう。地方はそれぞれの所轄署に調査を依頼する」
その手はずはすぐに実行に移った。刑事たちは自分の分担の名前をリストから手帳に控えた。
「ああ、電話のある事務所や自宅は電話で問い合わせてもいいよ。確かに本人がその飛行機に乗ったかどうかを念を押してきくのだ」
主任はその後で、三原を見て言った。
「しかし、これが割れても、まだまだ難物があるな」
「船の方の乗船客名簿ですね」
この壁はがんこにふさいでいた。びくともしないでいる。三原の攻撃をがっちりと受け止めて仁王立ちになっているようであった。
が、三原の頭には一つの暗示がかすめてすぎた。飛行機と船と、妙に名簿がまたがっているではないか。両方に名簿という相似(そうじ)がある。これはまたしても錯覚であろうか。共通点というところに観念が引っかかって錯誤に誘いこまれる危険はないか。
三原が変な顔をして黙ったので、主任が、
「どうした?」
と言った。
「あの方はどうですか?」
三原は逆に別なことをきいた。
「うむ。じつは昨日、検事さんに呼ばれた」
主任は低い声で言った。
「捜査が困難になっている。なんといっても、佐山の情死が障害になったのだ。課長補佐というのはね、まったく実務のベテランだね。部長も課長も実務はこういう人たちにまかせきっている。まかせているというよりもわからないんだね。彼らはとんとん拍子に出世の階段を上ってゆく。実務に通じる間(ま)がないのだ。そこへゆくと、課長補佐というのは長年その仕事をやっているから、あらゆることにくわしい。まあ、年季(ねんき)を入れた職人のようなものだ。そのかわり、出世は頭打ちだがね。後輩の大学出の有資格者が自分を追い越してゆくのを見ているだけだ。本人もあきらめている。内心の憤懣(ふんまん)はあろうが、そんなことをいちいち顔に出しては役所勤めはできない」
主任は刑事が運んできた茶をのんだ。
「しかし、一度、上の方から目をかけられると、そんな人たちは感激するね。今まで諦めていた世界に希望の光明がさすのだ。将来の出世が望めそうなのだ。だから、その上役のためには犬馬の労をつくそうと思う。ところでその上役の方ではどうだろう。じっさいに、下僚の熟練を買って引き上げようとするだけなら立派だがね。利用する下心から目をかけてやるとしたら、罠(わな)をかけるようなものだ。いくらえらくても、熟練の実務者を抱きこまねば仕事ができない。そこでたいそう目をかけてやるわけだ。命令だけではできないことだからね。実務者の方も、それを承知で、自分の保身というよりも出世のために、いつか上役の意を迎えて協力することになる。それが人情だろう。人情といえば、ああいう役所はずいぶん、人情がからみあっている」
主任は机の上に肘(ひじ)をついた。
「こんどの事件もね、あらゆる線が佐山課長補佐に集中している。それほど佐山という男は優秀な実務者だったのだ。検事さんが悔んでいるのは彼の情死だ。彼の死によって捜査が非常に困難になり遮断されている。逆にいえば、佐山は上役のあらゆる糸を握っていたのだ。いわば鍵であった。それが死んだのだから、検事さんは口惜しがっている。捜査が進めば進むほど、この障害の口が大きく開いてくる。そのかわり上役は身の安泰を笑っていられる」
「石田部長も笑っている一人ですか」
三原が言った。
「一番大笑いしているに違いないね。なにしろ課長補佐というのは義理人情家とみえて、一省の危急存亡を背負ったつもりでよく死んでくれる。大きな汚職事件で自殺する者は、かならず課長補佐クラスだ」
「すると、佐山の死も──」
「今までは、たいてい一人で自殺している。佐山のは女が道づれだ。ちょっと変わって、妙な色気があるね」
主任は、そう言ったきり、ぷつりと黙った。主任が何を考えているのか三原にはよくわかった。わかっていながら彼は何もこたえなかった。彼は、検事も、捜査課長も、この主任も、自分の方向を支持してくれていることをはっきりと知った。勇気が出てきた。──
三原は、その日、佐山とお時との情死の一件書類をひっぱりだし、あらためて検討した。現場報告書も、死体検案書も、現場写真も、参考人調書も詳細に調べた。一字一字に注意した。男も女も青酸カリ入りのジュースを飲んで、抱きあうような姿勢で死んでいる。今まで何十度となく目をさらしたとおりであった。新しい発見は少しもなかった。
この二人の出発を、わざわざ第三者に目撃させた安田辰郎の位置を、三原はいま創造しようとしていた。
──旅客機の乗客の身もとの調査が完全におわったのは、三日の後であった。
偽名は一人もなかった(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)。三つの飛行機の乗客のことごとくが旅客者名簿のとおり実在していた。
「たしかに私はその飛行機に乗りました。間違いはありません」
百四十三人、異口同音に返事していた。
三原は目をむいて驚愕した。彼はふたたび、頭をかかえて懊悩した。