一夫が生まれたのは二六四九年だった。ほかの子どもたちと同様、かれも三歳になると
睡眠テープで教育され、二六六〇年、十一歳で、薬学を身につけるため、大学にはいった。
ちょうどこのころ、つぎつぎと新しい薬が発明されていた。それは人間の持つ埋《うず》もれた能力を発揮させる一種の刺激剤だった。人間には、身体《しんたい》移《い》動《どう》、念動《ねんどう》力《りょく》、精神《せいしん》感応《かんのう》などの超能力が潜在的にあるということは、すでに科学的に証明されていたので、あとは、これらの能力をいかに開発するかということが、学者たちに残された課題だったのである。
一夫は大学で、身体移動が自由自在にできる薬品の研究に取り組んだ。もちろん、まだ初歩の段階の実験しかやらせてもらえなかったが、同期生の中でも、特に成続のよかった
一夫は、自分だけで考えた、いろいろな新しいアイディアをもっていたのである。
そのひとつに、身体移動と、時間跳躍の組み合わせという案があった。一度に、時間と場所を移動する能力のことである。一夫は、これは不可能ではないと思った。身体移動能力の刺激剤は、すでに作られていたし、時間移動も、タイム・バリヤーなどで、すでに可能である。一夫は、これまでの刺激剤を分析し、研究した。その薬の中に、ふたつの効能をもり込もうとしたのだ。
かれは身体移動能力刺激剤――専門用語でいえばクロッカス・ジルヴィウスという薬品なのだが――これにラベンダーという、シソ科の常緑《じょうりょく》亜《あ》低木《ていぼく》の花を乾燥させた香料を加えると、どうやら思ったとおりの効果が得られるらしいことを発見した。そしていろいろな失敗を重ね、苦心したすえに、やっと薬を作ったのである。
さて、薬は作ったものの、実験してみなければ効果がわからない。一夫はそれを、論文として発表するまえに、自分でためしてみようとしたのである。
「ところが、大失敗をやっちゃったんだ」
一夫はそこまで話してから、笑いだし、頭をかいた。
「時間跳躍をやったものの、何かの手違いで、未来へ帰れなくなった……。そうじゃない?」
和子がいうと、一夫はうなずいた。
「そうなんだよ。薬がどの程度ききめがあるのか、よくわからなかったもんだから、少しだけ飲んだんだ。だから過去――つまりこの時代までは来ることはできたものの、未来へ帰るには、薬の効力が弱すぎるんだ」
「その薬、持ってくればよかったんじゃないの」
「う、うん。そりゃ、持ってこようと思って用意はしておいたんだよ。ところが忘れてきちゃったんだ」
「あなたって、もっと落ち着いているのかと思ったら、案外あわてんぼなのね」
「そうじゃないんだよ。どの時代へ行こうかなと、いろいろ考えて、結局、比較的平和なこの時代へこようと決めたとたんに、時間跳躍しちまったんだ。そのとき、薬を持っていなかったんだ」
一夫は、ほおを染め、むきになって弁解した。
「それで、もういちどその薬を作るために、この学校の生徒になってこの理科実験室へしのびこんだってわけね」
「そうなんだ。ところがきみに発見されそうになって、あわててかくれたときに、その薬をひっくりかえしてしまったんだ。きみはその薬を飲みはしなかったものの、においをかいだものだから、ごく限られた範囲内での時間跳躍と身体移動ができるようになってしまったんだよ」
「じゃあ、私の能力は、時間がたつとなくなってしまうわけなのね?」
「そうなんだ。だからきみはあんなに心配する必要はなかったんだ」
和子はほっとして、いった。
「だってそんなこと、わたし知らないもの……。でもかんじんの、あなたの薬は、もういちど作ることができるの?」
「ああ、もう作ってあるよ」
一夫は机の上を指さした。そこに置かれた試験管の中には、茶色い液体が白い湯気を立てていた。
和子は、ふと不審なことに思いあたり、一夫に尋ねた。
「あなたは、どうしてわたしに、こんなにいろんなことを説明してくださるの?」
一夫はしばらく考えてから、答えた。
「そりゃ、きみがいろいろなことで悩んでいたから、説明する義務があると思ってさ」
「だって、あなたにとって、わたしは過去の人間でしょう? あなたが未来へ帰ってしまえば、あなたとわたしとの間には、何のつながりもなくなるのに……」
一夫は、しばらく、困ったような表情で、下を向いていたが、やがて和子の顔をまともに見ると、思いきったように、こういったのである。
「じゃあ、いってしまおう。きみが、好きになったからさ」
「まあ!」
和子はあきれてしまった。――なんて、おませなんだろう!