小学六年生の夏、私が約束するきっかけになったのは母の言葉だった。私は原子爆弾についてなにも興味がなかったのだが、新幹線で旅行に行きたかったので
「行きたい」
と返事した。
まちにまった新幹線に乗る日がやってきた。楽しい新幹線の時間の後、広島での学習がスタートした。そこでは一日目は原爆資料館に行き、実際に原爆で変わりはててしまった物を見学することになった。見た瞬間、私は息をのんだ。今まで想像していた物とは全然異なり、熱で溶かされ変形し、とんでもないくらい曲がってしまっているビン、焼けこげてハンドルが曲がりさびたように茶色になった三輪車などが展示してあった。原子爆弾の威力の大きさに驚いた。私はこれが祖父、祖母の時代で実際におきた事なのだということを信じられなかった。また展示物の中でも特に興味を引いたのはいくつもおいてあった親指の爪ほどもない小さな小さな折鶴だった。それは佐々木禎子さんが折っていた鶴らしい。私は禎子さんの折った鶴がなぜここに展示してあるのかを知りたくて係の人に聞いてみた。その話によると禎子さんは二才の時に原始爆弾が落ちた後に降った黒い雨を浴び、被爆した少女だった。小学六年生までは何事もなく元気に過ごし、運動神経が抜群で足がとても速かったとのだという。しかし小学校六年生の秋に、二才の時に黒い雨と一緒に浴びた放射能の後遺症がでてきて、中学一年生の時白血病で亡くなったそうだ。長い入院生活の中で折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じ、千羽を超えてもツルを折りつづけたらしい。最後には薬の包み紙のセロファンなどを針を使って折るようになった。最後の方に折った鶴が、展示してある鶴だという。禎子さんは病気がよくなり、外で元気に遊んでいる自分の姿を想像し、現実になるようにと願って必死に折り続けていたのではないかと思った。必死に折っている禎子さんの姿が目にうかんだ。禎子さんは何も悪いことはしていないのに、二才の時に浴びた放射能の後遺症で亡くなってしまったのだ。原子爆弾で後遺症が出ることを初めて知ったし、被爆者は後遺症におびえながら生きていかねばならないことが分かった。原子爆弾の威力の大きさに驚いた一日だった。
二日目は被爆した方の話を聞いた。子どもの頃に被爆した人は、弟を原爆によって失ったそうだ。その方は原爆の落とされた日、八月六日の状況をそのまま話して下さった。あちらこちらで火が家を焼いていき、建物におしつぶされ生きうめになった人がいたり、手に布を持って歩いているのかな思うと熱で溶けた皮フが垂れさがっていたり…。皆、
「水がほしい」
と言って亡くなっていったそうだ。私は人の命を簡単にうばってしまう原子爆弾はあってはいけないと強く思った。
その日の夜、被爆者の方々と話をしながら夕食をとった。その時、原子爆弾についてどう思うか訪ねられた。私はこの旅行で原子爆弾のおそろしさを知り、二度と原子爆弾を使ってはいけないと思ったと伝えると、被爆者の方々に、今、核はたくさんの国が保有していていつでも使える状況にあるけれど、私たちがいなくなってもこれからの世界を守っていくために、原子爆弾や核の恐ろしさを伝えていってと頼まれた。私はこのことを被爆者の方々と約束した。一人の力は小さいのだけれど、少しでも多くの人に話すことでたくさんの力が集まり、世界を核から救えるかもしれない。その可能性がゼロではない限り、私はこの悲劇のことを覚えておき、話せるようにしたいと思った。私が絶対に守りたい「約束」である。