ウチの営業所にはバスの運行コースが23あって、それを順番で担当するように勤務が組んである。
その日の俺の担当は「15コース」だった。
15コースは、分かりやすくいうと「山奥コース」だ。
そのなかでも、久田山という山奥の一番奥まで行ってくるという、極め付きの路線が、このコースの午後イチに組み込まれている。
俺はこの15コースが嫌いじゃない。
車もほとんど通らない山道を、ほとんどカラッポの小型バスをのんびりと転がしてりゃいいんだから、気楽なもんだ。
クーラーを効かせて、緑の濃い山道を運転していると、小渕沢バス停の簡素な待合所に、婆さんがひとり、
手提げ袋を膝に置いて、ちょこんと座っているじゃないか。
俺はバスを停めて窓を開けた。とたんに草の匂い交じりの熱気が押し入ってきた。
「あれっ?おばさん、町の病院に行くんやないの?」
「うん、そうや」
「あのねぇ、このバスが終点まで行って帰ってくるんやから、まだ小一時間かかるで!
そんなところに長いことおったら、おばさん倒れちまうで!人も通らんし、死んじまうで!」
「大丈夫・大丈夫。日蔭があるで…」
当時は熱中症という言葉は知らなかったが、この暑さは病院通いの年寄りには、
相当キツイだろうというのは分かった。
「うう…もう…、そんなら、おばさん、どうせこのバスに乗るんやで、今から乗っていかっせ。バスの中は涼しいで。
そこで待っとるよりええで」と、乗車扉を開けてやった。
バスに揺られながら、婆さんは俺のすぐ後ろの席で「孫が出かける言うもんで、ついでにバス停まで送ってもらったけど、
時間が合わんでねぇ…」などと、どうでもいいような話をずっと続けている。
そんな事より、俺には婆さんに、きっちりと言っておかなきゃいけない事がある。
「あのさぁ、おばさん。おばさんを行きからバスに乗せたの、みんなに黙っといてな。
そうやないと、俺、叱られるで。絶対に誰にも言っちゃあかんよ。約束やでね!
絶対に約束やでね!」
俺は、婆さんが「喜沢病院前」でバスを降りる時に、念のためにもう一回口止めしておいた。
婆さんの他には客はいなかったから、これでバレないだろうと思った。
翌日、14コースの俺は、昼の休憩時間に営業所に戻ってきた。
営業所に入ったとたんに「林君」と所長に呼ばれた。
嫌な予感いっぱいで机の前に立つと、所長が腕組みをして言った。
「君、昨日の15コースで、小渕沢から佐々木さんの婆さん乗せたそうやな。
行きから乗せてやったんやて?」
「はい…」
あの婆さん、ソッコーで喋りゃがった!それとも誰かが見てたのか?
「暑い日続きやから、そりゃ親切でやったのは解るけどな、服務規律違反や。
婆さんが乗車の時に転んで怪我するっちゅう事もあるかもしれんし、
万が一、本当なら婆さんが乗らんはずの区間で、君が事故って婆さんが入院なんて事になったら、親切が仇になるんやぞ?」
「はい…すいませんでした…」
服務規律違反は承知の上だったから、叱られるのはしょうがない。
「ん、…よし、そんならこの件は、今の所長注意で終わりや」
拍子抜けしている俺に、所長は部屋の隅の2個のダンボール箱を指し示して言った。
「あれはお礼やと。昨日の運転手さんに渡してくれちゅうて、佐々木さんとこの若い衆が置いていったんや」
箱は、きゅうり・トマト・茄子・とうもろこし・オクラ・ピーマン・冬瓜・かぼちゃ…などの夏野菜で山盛りになっている。
「林君、あの野菜な、昼飯のときに味噌汁や漬物にして、みんなで食べる事になっとるんや。
こういう場合の、ここの昔からのルールなんや」
料理上手の助役の佐古さんがニコニコしている。
ちょっと混乱している俺に向かって、所長が言った。
「あ、林君。このこと、他の営業所で喋らんでくれよ。約束やで」