土曜日の午後、豊中の小学校まで練習に行き、声楽の基礎をたたきこまれた。地味なレッスンにはうんざりしたが、学年も違う、いろんな学校の子とのおしゃべりが楽しかった。
そして何よりの楽しみは、活動の拠点となるNHK大阪局での録音が終わった後、地下の食堂で食べる中華そばだった。
中華そばと言っても普通のそれとは違う。茹でた麺と具と粉末のスープがカップに入っている。自販機の紙コップのコーヒーよりも二まわりほど大きいサイズだ。それがガラスケースの中に並び、回転寿司のベルトコンベア状のようなものに乗って流れて来る。金額は忘れたが数十円だったはず。お金を入れてボタンを押すと熱湯が注がれて出来上がり。
子供の私はそれに夢中だった。その機械も画期的だったし、おいしかったのだ。もちろん他の子達にも大評判だったのですぐ売り切れるのが難点だった。だからみんな我れ先に駆け下りていった。
ある時、オペラに出演することになったので衣装合わせにホールへ行った。貧しい村の子供の役なので地味で汚れた感じの衣装ばかりだった。係の人が一枚ずつ渡していく。最後にもらった私の衣装はボロボロながら結構可愛いドレスだった。内心喜んで試着をしていたら、一年上の同じソプラノの子がスーッと寄って来た。
「ねえ、衣装交換しない?」
(えっ?)
私は彼女の持ってる「こもかぶり」のような衣装を見て、冗談じゃないと思って首を振った。すると
「交換してくれたら、BK(NHK大阪局)の中華そば、好きなだけおごるけどなあ」
心が躍った。(中華そば)その名を聞くだけで胸が、頭が一杯になり思わず衣装を差し出していた。
「ありがとう!絶対、約束守るからね」
その言葉を信じて、交換した。
本番では最悪の衣装と薄汚れたメイクで私は一番みすぼらしい、その他大勢の村の子Aになっていた。でもあの大好きな中華そばがただで食べられると思えばそんなことは平気だった。
しかし、次の練習に行くと彼女の姿はなかった。先生に尋ねると、なんとお父さんの急な転勤で引っ越しをしたと聞かされた。私は全身の力が抜けた。あの中華そばの約束はどうなるのか。もう練習どころではなかった。嘘をついた彼女への憎悪で気分が悪くなるほどだった。食べ物の恨みは本当にやっかいである。
幼い単純な頭で、だまされた自分が悪いのだ、と思えるようになった頃、私宛ての郵便が届いた。彼女からだった。
「急に引っ越しが決まりお礼を言えなかったので手紙を書きます。この前のステージは衣装を取り替えてくれてありがとう。おかげでいい思い出になりました。でも約束が果たせなくて本当にごめんなさい。一緒にあの中華そばを食べたかったです。」
と可愛い便箋に大人っぽい字で書かれていた。
よかった。嘘じゃなかったんだ。約束は覚えていたんだ。私は彼女を疑ったことを後悔した。何度も読み返し手紙を封筒に入れようとしたその時、まだ中に何かがあるのに気付いた。
それは花柄のティッシュに包まれた一枚の五百円札だった。