「絶対見に行くからね!約束」いつも明るい母が言った。彼女こそがこの小さな事件を世界で一番喜んでくれる人であり、私が世界で一番喜ばせたい相手がこの母であった。当時、我が家は裕福とは言いかねる状況で、それでもサラリーマンの父と看護学校教師の母は二人三脚で、私たち兄弟三人をどうにかこうにか育ててくれていた。
当日、私は熱演した。ウサギの耳のついたダンボールの帽子を被り、思春期の入り口に差し掛かった子どもには少々照れくさい「泣く」という演技もこなした。ひび割れたコンクリートの床に赤いじゅうたんを敷き詰め、所どころに石油ストーブを焚いた、片田舎の小学校の小さな体育館。暖かい灯油の匂いのするこの客席のどこかに、母が居るのだ。
家に帰るなり、母が「すっごく良かった!ヒサちゃんが一番上手だったよ!」と、それはもう手放しで、今思えば親馬鹿を絵に描いたように絶賛してくれた。台所の黄色い照明の下で、11歳の私は幸せに酔った。
しかしその夜、この場面を見ていなかった年子の兄の言葉によって、私は事実を知る。「一番上手」どころか、母は私の「熱演」を見てもいなかったのだ。兄は学芸会の運営委員で、体育館の戸口を開閉する係をしており、私の出番の時は、兄も母を待ち構えていたのだが…
「幕が開いても母さん来なかった。お前の出番が終わって、幕が閉じてる最中にあわてて入ってきたんだよ」母の居ないところで兄は言った。
兄といっても子どもなので、つい正直に話してしまったのだろう。当然私は失望した。ただただ悲しくて、残念だった。先生にでも級友にでもなく、母に捧げた演技だったのに。
しかし、見てもらえなかったことは悲しかったが、母への失望や怒りは沸いてこなかった。「本当は見ていなかったのに嘘ついて!」と母を責める気にもならなかった。
地面がカチカチに凍った小学校の校庭に軽自動車を停め、いつも物を入れすぎて不格好になっている仕事用の鞄をブラ下げ、着膨れて息をはずませ、慌てて体育館に入ってくる母の姿が浮かんだ。仕事をこなしながらもきっと一日中私のことを考え、精いっぱい調整して、きっとそれでも間に合わなかったのだ。母こそ、本当は泣きたかったに違いない。「熱演」をしたのは母の方だったのだ。
私はわがままな普通の子どもには違いなかったが、母が約束を守らなかったことを言わないでおく心は持っていた。小賢しいといえば小賢しいのだが、子どもなりの思いやりだったのだと思う。そしてそういう心を育ててくれたのは、まぎれもなく両親なのだ。
特に隠している訳でもないが、20年以上経った今も、このことはまだ母に話していない。社会人となり、働く辛さと面白さを知った今、まだ元気に働いている母と、お互いに仕事の悩みを相談できるようにもなった。
そろそろ母に「あの日、本当は約束破ったでしょ?」と尋ねてみようか。
学芸会の約束を守ることよりも大切なもの…平凡なようでいてかけがえのない愛情という宝物を、私は確かに貰っており、今もまだちゃんと持っているのだ。