暑い夏の午後、市役所の職員がやって来た。責任者らしい職員と部下と思われる若い職員の二人である。工場を閉鎖し住宅用のマンションに用途を変更したため、固定資産の評価替えに来たのであった。
責任者らしい職員は、私のことを社長様と様を付けて呼んだり、その後お変りございませんかと尋ねたりした。市民には様を付けて呼ぶことになっているのだと思ったが、その後とは一体いつごろからのことなのだろうか。
私は二十五歳から三十五年間、電気器具を製造する小さな会社を経営してきた。長い間には受注が落ち込み苦境に立たされたこともあったが、順調に推移してきた方だろうか。しかし、今度ばかりはこの不況に重ねて大病を患い止む無く廃業したのであった。
会社を経営していたころ、忙しい時にはアルバイトを雇って乗り切った。主に男子高校生が来てくれた。特に夏休みには十名ほどいて賑やかであった。髪の毛を紫色に染めた者、イヤリングをした者、何と言うのか知らないが鼻輪のような物をつけて、ピアスを舌に通して口の中で光らせている者もいた。
彼らのアルバイトの目的は、オートバイを買うことや自分の遊ぶ金が欲しいためであって、家計や学費のためというのはほとんどいなかった。それでまともな目的をもたすため面接の際に必ず言ったものだ。
「君達が働いて受け取った給料は、何に使ってもかまわない。しかし、一つだけ約束をしてほしい。初めての給料は全て自分のために使わないで、安い物でもよいから両親に何か買ってあげてほしい。たとえばベルトとか日傘とか」
このようなことを若い独身の私が創業当初より言い続けてきたのには、次のような訳があった。
私は高校を卒業して十八歳で親会社に就職した。初めての給料日に定年間近な先輩が、両親に何か買ってあげなさい。必ず倍になって返ってきますよ。と忠告してくれた。倍になるのには期待しなかったが、あまりに何度も言われるので百貨店へ行った。
その当時父は亡くなっており母だけであった。女性用品売り場に行くのは初めてで恥ずかしかった。母に似合うかどうか考える間もなく、よくしゃべる店員の進めるままに女性用の日傘を買った。
若い私には理解することができなかったが、母はよほど嬉しかったのだろう。親戚や近所の人達に、息子から買ってもらったとふれ回った。私はついに傘息子と言われるほどになってしまった。だが悪い気はしなかった。この日傘が生まれて初めての贈り物になったのだ。
このことがあったから、三十五年間も言い続けてきたのである。彼らは皆約束しますと言うようにうなずいていた。長い間なのでおそらく数百人に言ってきただろう。
市役所の責任者らしい職員が言った。
「私はこの工場でアルバイトをさせてもらったことがあります。十五年前の高校の夏休みの時です」
突然の言葉に驚いて彼の顔を見た。けれども、額の広い真っ黒に日焼けした顔にまったく覚えがない。
「あの時、社長様が言っておられたように私は両親に靴下を買いました」
さらに彼はうれしそうに言った。
「両親はその靴下を使わないで、今でも箪笥の中に大切にしまっています」
会ったこともない両親の顔が浮んだ。
約束を果たしてくれた責任者らしい職員の手を思わず握りしめた。