私は夫の胸の中に抱かれながら、「うん、ウフ‥‥。」とうなづいた。五十年もの間、いつもこうしてやってきた。
今を去る六十四年前、私達は北支青島市で知り合った。私は父の任地で、夫は青島方面海軍特別根據地隊中隊長海軍中尉であった。
翌年彼は海軍大尉になった。その八月、敗戦になると中国軍密偵処刑の罪で逮捕された。
牢内で腐った芋を食い棍棒で殴られたり、命の危険を感じる中で幸にも、裁判を受けられる事ができた。「これで少しは大丈夫だ、俺以外に累を及ぼさせない。私の権限で処刑した、他の者は一切関係ない。」と言い通した。軍の組織に於てそれは有り得ないと、いくら突っ込まれても、断乎として譲らなかった。裁判官が、「彼奴は何者だ日本のサムライか」と苦笑したとか。そのせいか彼は死を減じられて無期徒刑とされ、青島、上海、日本巣鴨の米軍の牢へと転送された。
これで、やっと、本当に一命を取り止める事ができたのである。
やがて昭和二十七年、講和条約特赦により彼は釈放された。それは私に取って正に青天の霹靂、まるで夢のような出来事であった。
私は、彼は一生を牢の中で過し、そのまま果てる人と思っていたから……。
そして、その十年目に私達は結婚した。
夫は、「よくぞ十年も待っていてくれた。お前は俺の最愛の女神様よ。」と敬々しく敬礼した。私を下にも置かない有様で、それはそれは大事にしてくれた。
夫は先輩の世話でやっと就職できた。私も東京都の教員を目ざした。十年も遅れていたから、二人合わせてやっと一人前だった。
折角の日曜日、夫は早朝から掃除一切をやり、「お前はゆっくり寝ておれ。」と言った。
料理の下手な私に「心配するな、お前の作った物は何でも旨いぞ。」残らず平げてくれた。
やがて十二月に娘が生まれた。「おい、俺達の名前を合わせて「みま子」にしよう。」字は美摩子にした。夫は乳児室を幾度も覗いて私の手をぎゅっと握った。「ありがとう。」といった夫の眸は、涙で一杯だった。
私は甘え放題のこの世の天国、夫からは只の一度も恕られた事はなかった。
齢八十になった或る日、夫は私を呼びつけてこう言った。
「おい、いいか。俺が死んでも葬式は無用だぞ、わかっているな。俺の仲間は海に沈んでも誰一人、骨は上っていないんだ。」
「えーっ?なあに急にそんな事言って。」
夫はゲラゲラと笑った。
「おいおい、そんなベソをかくなよ。お前は事俺に関するとすぐそうだからな。いいか、そこでだ。お前は甘ったれのお喋りだ。赤い服が似合っていいぞ。おしゃれだな。だからいつもその調子で、そうだ、蝶のようにひらひらと、明るく綺麗でひらひらとやれよな。」
平成十五年九月、夫は病死した。八十三才になっていた。葬式はしなかった。
私はあまりの悲しさと淋しさで、毎日ワンワン泣いた。いくら泣いても、もう、夫は帰って来ない。いつも「この馬鹿たれが。」と抱きしめてくれた夫の胸は、消え去ってしまった。絶望の限りだった。
そして、家はみるみるうちに汚れてきた。
私は働く夫の背中を有難く思い出していた。
「蝶のようにひらひらと、明るく綺麗でひらひらと。」夫の言葉を呟やきながら、私は泣きながら少しずつ働いた。そして四年の月日が過ぎた。家は綺麗にはならないが、夫のお陰で、私は何とかひらひらとやって行けそうかしらね。耳元で夫の声がする。
「よしよし、俺はいつもお前の傍に居るぞ、蝶のようにひらひらとやって行けよ。明るく綺麗でひらひらとな。」