「どうした」
と声をかけると、
「どうやら、つかまったらしい」
動脈にへばりついた肺がんが見つかって手術もできないという。
「おれは画家になる」というテッさんに対抗して、「おれは小説家」といい合った青春以来、「結婚した」「おれも」、「子供ができた」「おれも」と生きてきたが、「がんになった」
「おれも」というわけにもいかず、そのかわり、私も頭を剃った。抗がん剤でテッさんも坊主になったからだ。
「おれも」というわけにもいかず、そのかわり、私も頭を剃った。抗がん剤でテッさんも坊主になったからだ。
「なんだ、その頭」
笑うと思ったテッさんが不機嫌にいう。
「それより、することがあるだろう」
テッさんは望み通り画家になった。私はサラリーマンのまま定年を迎えた。それが、不満なのである。
「いつになったら、作家になるんだ」
もともと才能があったテッさんは、中学の時からすでに小松崎茂という画家の弟子でもあって、私がサラリーマンになった頃には、もう三越の国際形象展に出品する洋画家になっていた。作家? いまさら、少年時代の約束をいわれても、不可能というものだ。
半年後、新しい内服薬の抗がん剤を試したテッさんは、急速に病状を悪くした。
「時間がない」
彼の不機嫌も治らない。仕方なく、なれない文章を綴って、
「約束をもってきたよ」
と渡した。作品などというものではないただの思い出話である。しかしテッさんはベッドに起き直り、にやりとして、
「ようやく、やるきになったな」
ことのほか上機嫌である。彼を励ますのはこれにかぎると、三枚、五枚と運んでいった。
病状は持ち直したと一年が過ぎた頃、脳への転移が告げられ、開頭手術をするという。
「これで、バイバイかもな」
そういって、手をにぎった。
「あとは、あっちから見てるからな」
テッさんが、死後の世界を信じているとは思ってもいなかった。
「あっちなんていうな」
「教えてやるよ」
手術はうまくいったかに見えたが、読む気力をなくし、半年後の夏のはじめ、テッさんは逝った。私の短い「作家」も終わった。
八月も終わるころ、深夜寝ようと部屋の明かりを消すと「ジージー」という蝉の鳴き声が聞こえる。珍しく、窓から迷い込んだ蝉が、天井に張り付いていた。箒で窓から追い出した。
次の日の夜、また蝉が天井にいた。蝉も少なくなったのに珍しいこともあると追い回すうちにふと、テッさんではないかと思った。用心深く、箒の先で引き寄せ、
「テッさんか?」
と聞いた。ジージーと鳴くばかりである。
「もしテッさんなら、窓から放つから、もう一度飛び込んで見せろ」
そういって、窓から放した。蝉は暗闇に飛び出したまま帰ってこない。やはりただの蝉にすぎなかったと窓を閉めようとした瞬間、窓枠に当たりながらぱっと私の胸にとまった。テッさんだ。そう思った。あっちの世界はあると教えにきたのだ。蝉をそっとつかみ、
「わかったよ」
といって放した。するとまた飛び込んできた。また放った。しつこい蝉だと思ったとき、あれから何も書いていないことを思った。
「そうか、わかった」
すると、蝉はもう帰ってこなかった。それは、ちょうどテッさんの四十九日の夜だった。
もう四年になる。書く楽しみの日々がある。テッさんはあっちから見ているのだろう。二度と蝉が迷い込んでくることはなかった。