賀状の差出人は、名前と住所に僕は心当たりがなかった。だが相手は僕が高校まで暮らした故郷の住所を番地まで正確に表記しているのだから、僕宛てにくれた賀状に違いなかった。高校までの友人だとすると卒業から二十年以上が経っていたが、「大阪市此花区」に住むこの「大川謙輔」という、かつて一度も耳にしたことが無くて、僕の記憶にまったく無い男の素性に興味を持った。なぜ賀状をくれたのか知りたかった。
「らっしゃい!、なにしましょうー」
カウンターに座るなり威勢のいい声がかかり、太い指でつまんだお冷やがでた。客がL字形のカウンターに背をかがめて五六人ラーメンをすすっていた。店に入ると中の湯気がメガネを半曇りにしたが、それでも注文を聞いた男が、中学三年の春にクラスから姿を消した伊達だとすぐにわかった。
そうか伊達謙輔だったのか!
僕は咄嗟に醤油ラーメンを頼んだ。
あの頃は世の中全体がまだ貧しかった。麦飯弁当など普通だった。でも冷えた麦飯の味覚より食欲が勝っていた年齢だった。伊達は昼休みの時間はグラウンドの隅の鉄棒にぶら下がって一人遊んでいた。弁当が無かった。
弁当がなかっただけではなくて遊ぶ友人もいなかった。転校生の僕も日が浅く新学期からポツンとクラスから浮いていた。自然と二人は近づいた。放課後、彼の通学用の自転車の尻に乗っけてもらって当ても無く街をうろついた。疲れると鉄道が見える小山に上って駄菓子をむさぼった。そんな時、寡黙な伊達だったがポツリ、ポツリと境遇を口にした。
母親は妹を連れてある日家を出ていった。それ以来、日雇い人夫の父親と二人だけの暮らしが始まった。父親の帰りは遅い。電気はすでに切られていたので、酔って帰ってくる父親を暗い家で待つのはつらいと言った。
でもこんなことも言っていた。
「オレな、大人になったら飯屋をやってみたいんだ…。うどん、ソバ、ラーメンと…うまい店をつくるよ。そのとき、食いに来なョ」
クラス担任が教室に入るなり、表情を変えずに皆に告げた。五月の初めだった。
「伊達は、理由あって姫路の施設に行くことになった。明日十時の列車で発つ…」
クラスの中に突然友情が沸騰した。代表が差し入れを持って駅頭に、残りのメンバーは沿線の踏切で見送ることになった。伊達は休んでいた。昼休みに、学校を抜け出し伊達の家に向かった。彼は自宅に僕を案内したことがなかったが、おおよそ見当はついていた。旧引揚者住宅の奥路地で伊達を見つけた。ひとり石蹴りをしていた。
顔を合わせても話題が見つからなかった。明日の事は言ってはならないような気がした。
「自転車に乗せろや、ラーメン食いに行こ」
「ハイ、おまッとう、醤油ラーメン一丁」
伊達の太い腕がラーメンを差し出した。奥から女の声がした。レンズが白く曇った。
「あんた、昼から学校に行ってくるよ。進学の保護者面談さー」
「あいよ、あまり坊主に無理させんなョ…」
「なに言ってんだい。あんたも公立高校だろ。気張れば大丈夫よー」
「五年かかった定時制だよ。ハッハッハッ」
ラーメンは旨かった。あの時、伊達がしたようにお碗を両手にスープを全部吸った。伊達はいま幸せそうだった。このまま帰ろう。
「ごちそうさん。五百円おいとくよ」
「毎度ありィ。またどうぞー」
店を出ると冬の乾いた風が強く舞っていた。