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「父親ウぜェとか思ってる全ての娘たちへ」

时间: 2016-08-14    进入日语论坛
核心提示:10数年前に父を亡くした。私は19歳だった。昔から父は病気がちなことを理由にあまり働かず、代わりに死にものぐるいで母が働き、
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10数年前に父を亡くした。私は19歳だった。
昔から父は病気がちなことを理由にあまり働かず、代わりに死にものぐるいで母が働き、父の医療費と生活費を稼いでいた。
それでも私は月々のお小遣いをもらってはいたが微々たる額で流行りの服も買えず、同級生と一緒に遊びに出かけも。
小遣いの心配ばかりで少しも楽しめなかった。
いつも家にいる父のことを邪魔だと思ったしそんな言葉も平気で口にしたこともあった。
当然母は怒られた。父は何も言わなかった。
やがて父は入院し母が泊まり込みで看病することもあった。
私はそれをいいことに彼氏を家に連れ込んだりもしていた。
それは秋のことだった。厳しい食事制限のため、肉も抜かれほとんど味のない病院食しか食べさせてもらえない父がふとマクドナルドのCMを見て、月見バーガーを食べたいと言った。
母は仕事でいなかった。
いれば、きっと反対しただろう。
病院からマクドナルドは遠かったが、私は車を持っていた彼氏を呼び目当てのものの買い出しに成功した。
半分冷めてしまった月見バーガーを、父は「美味しい」と喜んで食べた。
それから父を車椅子に乗せて、病院の屋上へ向かった。
父は言った。
「もうお父さん、永くないことを知っとるから……隠さんでいいよ。」
それから2週間後、父はなくなった。
出棺時に母は取り乱し、気を使った親族の判断で母は家に置いていくことになった。
火葬場では、故人と一番近い人間が点火のスイッチを押さなければなれない。
一人娘の私が押すことになった。
「しっかり押さんと、お父さんは成仏さんからな」と親族は言った。目を瞑ってギュッを押すと、それまで出てこなかった涙が出てきた。
初七日のあと、入院していた病院へ置いたままの荷物を取りに行くためナースセンターに立ち寄った。
私はあまり病室に行かなかったので看護師の顔をあまりよく知らない、しかし看護師はみんな私のことを知っていた。
母も私もいないとき、薬をもってきたり点滴を交換する看護師に父はいつも私の話をしていたのだと言う。
貧乏ながらも志望の大学へ行かせることができてよかったとか、見舞いにきたときに屋上へ一緒に行ったこととか。
その話を聞いてまた皆で泣いた。
それからしばらくして。
病院に置いていた父の私物の整理をしていると
二つ折りの、くたびれた黒い皮の財布があった。
パスケースの部分には、七五三のときの私の写真が行っていた。
着物を着て笑っている私の写真。それより大きくなってからの写真は私が触らせなかったから、持っていなかったのだ。
小銭入れの部分には、いくばくかの小銭と、ディッシュに包まれた「蛇の皮」が入っていた。
「蛇の皮を財布に入れているとお金持ちになる」
そんな話をどこかで聞き込んでいた小学生の私は、通学路の途中に落ちていた蛇の皮を持ち帰った記憶がある。
「そんな汚いものを拾わないで!」
母には怒られ、すぐに捨てるように言われたが、父はゴミ箱からそれを拾っていたのだろう。
あれから何年もたったのに、まだ残っていたなんて。
四十九日が終わってからも、亡くなったことを知らなかった父の知人が訃報を知り家を訪ねてくることがあった。
私とは面識もないその人々もまた、私のことをよく知っていた。
〇〇大学に通っているんですね。足が速くて駅伝でも二区を走っていたとか。
父はあちこちで、たいして出来もよくない私のことを吹聴して歩いていたのだ。
父がなくなった時につきあっていた彼と別れ、その後も出会いと別れを繰り返し、結婚できないまま現在に至る。
そして、そんな私を無条件で誰よりも愛してくれていたのが、父しかいなかったことに気付かされる。
いろんなところで見かける家族連れ。
中でも、小さな娘と歩いている父親の顔は、いつも幸せそうに蕩けている。
ちっとも気付かなかったが、私の父もあんな顔をしていたのだろう。
娘を愛さない父親なんていない。
もしもそんな父親がいるとすればそれは男ではない、違う生き物だ。
 
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