決して、人様に自慢できるような出来栄えではない。ただ、じっくりと煮込んだというだけの素朴なもので、焦げ付かせたり、皮がむけたりしたことも多かったけれど、それでもよく豆を炊いた。
私は高校を卒業し、大学に入学をすると親元を離れた。母は私が帰省するたびに豆を炊き、びんに詰めて持ち帰らせた。
大学時代の私は、思い出すのが恥ずかしいぼどいいかげんだった。約束の時間に遅れる、時にはすっぽかす、人に借りたものを返さない......。そんなちゃらんぽらんな行為を繰り返していた。反省や後悔の念もあまりなかった。
遠く離れて暮らしていても、母は私のだらしなさを見抜いていたような気がする。決して、詮索したり、教訓を垂れたりすることはなかったのに。
何事にもいいかげんな娘が、母には歯がゆかったのではないか。1びん詰めにした豆を私の鞄に詰めながら、必ず「豆になるように」と、ひとこと添えた。
大学を卒業後、就職したものの約一年で退職。その後も私は、アルバイトやパートでのぬらりくらりと過ごしていた。相変わらずいいかげんなままだった。
三十歳を過ぎ、ふとしたきっかけでコピーライターになり、数年の下積みを経て独立した。仕事場も持った。独立するということは、なんと大変か。電話応対、伝票整理、山とある雑事をすべて一人でこなさなければならない。打合せや取材に出かけ、ようやく机に向かうのは、夕方。徹夜もしばしばだった。怠けることは許されなかった。ましてや、約束を破ることなど。
それどころか、取材先へ礼状、資料の整理、勉強会や交流会への参加などなど、ちょこまかと手を足を動かすようになった。気も働かせるようになった。
独立して十五年、順風満帆とは行かなかったけれど、きょうまで、どうにかコピーライターを生業としてこれたのも、たぶん、私が少しは「マメ」になれたからなのだと思う。
母が、私のために炊いてくれた豆。その効き目が、時を超えてジワリ表れてきたのかもしれない。
近頃、電話をかけるたびに母は心配そうな声で言う。
「ほどほどにしとかなあかんで」と。
「わかった、わかった」と、返事しながらも、「なにを今さら......マメになれと教えたのは、あなたじゃないの」と、私は心の内でつぶやいている。
母は今年八十一歳、豆を炊くのはおせち料理の黒豆くらいになった。2焦げ付かせてもいい、皮がむけてもいい、シワシワでもいい。一年に一度でいいから豆を炊き続けてほしいと思う。