隣市の国立病院内の母子センターに妻が入院したのは平成10年6月、幼稚園の年中になったとはいえ長男にとって母親が恋しい時期だったに違いない。病名は切迫流産。お腹の子が早く生まれてしまうため、予定日まで半年、絶対安静で入院が必要だった。長男も二ヶ月早く生まれた超未熟児だった。
私達夫婦は共働き。午後二時で終わる幼稚園は、妻の母つまりおばあちゃんが迎えに行き、仕事が終わるまで預かってくれた。それだけではない、私の両親が早くに他界していることもあって、公母はことのほか長男を可愛がってくれて’おじいちゃん、おばあちゃん子の典型的な甘えん坊だった。
妻の入院が決まった日、二人で風呂に入りながら長男に聞いてみた。「明日からどうする?」長男にとっては少々酷な問いだと解っていた。「母のいない間、公母宅にずっと泊まるか、私と一緒に家に帰るか」の二つに一つだ。1婆はご馳走を作ってくれるし、公は遊び相手にもなってくれる。私と一緒なら、朝ご飯もろくに作れないし、充分な相手もできずに寂しい思いもするだろう。
私にとって、答えはどちらでも良かった。まだ四才。長男の思いどおりにさせてあげたい、できればそれを自分で決めてほしいという願いだけで聞いた。「お父さんと一緒にいるよ!」思いがけない答えだった。おそらく、妻も公母も、長男や私のことを考えるとできれば避けたい答えだったのかも知れない。福祉関係に勤め、夜の会議も頻繁で付き合いも多い。生まれるまでの半年位は気楽に過ごして欲しかったに違いない。私もそうなると予想していた。
ともかく二人の生活が始まった。とはいえ、日中は幼稚園に通い、婆がお迎えに行く。私は仕事が終わってから長男を公母宅に迎え、夕飯をご馳走になってから一緒に帰宅する。それから、風呂に入って朝の食器を片付けてから下着の洗濯や部屋の掃除を済ませた後、一緒の布団にいる。朝は、ご飯を食べさせてから公母宅へ送り、通勤するという毎日が続いた。そして、週末か平日の毎週二回は病院へ長男の顔を見せに通った。普段やり慣れない事が、私には結構辛かった。夜の会議や付き合いで飲む時は、公母宅に泊めた。病院と母子センターをつなぐ渡り廊下に出たとたん、母を振り向くことなく足早に帰る長男の気持ちが解らなかった。
いつ長男にとって、母の入院るる母子センターと病院とをつなぐ渡り廊下は、母親と別れる一番辛い場所だったのかもしれない。一番寂しい顔をしていたのかもしれない。だから、まっすぐ前だけを見て振り向くことはなかったのだ。なんだか胸が熱くなった。その子なりに精一杯頑張っているんだ。振り向かないことが、母親に対する愛情表現なんだ。
2今でも、国立病院の前を通るたびに、正面からは見えない長い渡り廊下が思い浮かぶ。そこはには精一杯苦しみながらも、長男が成長した足跡がしっかり刻まれている。長男は知るよしもないが、その足跡は今でも私の大切な宝物だ。