「今日はグラタンを作ってあげるからね。あんたはゆっくりおっぱいでもあげてなさい。」
5か月になる私の息子はそんなにぎやかな来客たちに慣れたもので、にこにこと訪問を喜んでいる様子だ。それもそのはず、我が家には毎週誰かしらがやって来るのだから。
一年前で、私は新橋のOLだった。都心のオフィス街を颯爽と闊歩するキャリアウーマンに憧れていた私の二十代は、とにかく仕事中心の日々だった。それなりに成果も出せたし、上司にもずいぶん可愛がってもらった。しかし、いつのころからだろうか、自分が本当にやりたいことが何なのかわからなくなった。日ごろどんなに大きな仕事を任せられていても、風邪をひいて休めば誰かが代わりをしてくれる。自分じゃなくてもいいのだ。そんな考えが頭の中をめぐるようになった。そして妊娠を機に仕事を辞めた。
あれほど仕事によって社会にしがみついていようとしていた私だが、不思議なことに家庭に入ってからは一切の不安がなくなった。正直、共働きの時に比べると経済的には厳しい。しかし私は、家庭に入ることによって、ようやく私にしかできない仕事を持てたことに気がついた。それが育児だ。
1息子が生まれた時の痛みと感動、初めて抱いた温かさ。息子をこの世に送り出すことができたのは、そして母と呼ばれるのは、まさしく私しかいない。この世にこんないとしく大切なものがあったのかと思う。
キッチンで、息子の声を背中に聞きながらシチューのルーを溶かす。そんな瞬間を幸せだと感じている自分がここにいる。息子は、限りない充実感を私にもたらしてくれた。
そしてもう一つ、息子が私にくれたものがある.いや、呼び寄せてくれたと言った方がいいかもしれない。それが私の周りにいる人々の「縁」だ。息子が生まれてからというもの、不思議と我が家に人が集まるようになった。両親、友人、ご近所、あげくは長らく連絡を取っていなかった知人までが息子の顔を見に、我が家を度々訪れてくれるようになった。
結婚して家を出てから、月に一度も会わなくなっていた両親。それが今では毎週のように、米やらしょうゆやらを担いで、電車で一時間かけてやって来てくれる。初孫に会いたさ、そして育児初心者の私を心配する心と半分半分だろう。そんな両親を見ていると、改めて親のありがたさを感じると同時に、自分自身もいかに大事に育ててもらったかを実感する。自分が親となった今、それにようやく気づくことができた。
さらに、驚かされるのは友人たち。思うように外出できない私を気遣い、時間を見つけては頻繁に訪問してくれる。冒頭のように、夕飯を作りに来てくれることもしばしばだ。家庭に入って子供を育てるということは、自分にとってある程度の「犠牲」を強いるものだと思っていた。ショッピング、映画、カラオケ、深夜までの飲み会。それまで友人たちと行っていた楽しみは、たしかに当分おあずけだが、今度は新しい形での付き合いが始まったのだ。友人の手料理なんて、仕事をしていたらそうそう食べられるものではない。あらためて友人たちの温かさ、大切さを知ったように思う。子育ては決して「犠牲」ではない。自分の気持ちの持ち方によって、いくらでも社会とつながっていられるのだ。
そんなわけで、今では毎週、誰かしらが我が家に来てくれる、お隣のお婆さんに至っては、息子の泣き声を聞くと飛んできてくれる。
「私が抱いていてあげるから、あなたはその間に洗濯物でも干してちゃいなさい」
2これらはみんな、息子が呼び寄せてくれた人との「縁」だ。だからこの縁をずっと大切にしていきたい。周りの人々の温かさ、ありがたさを忘れず、私も同じように人に対して優しくありたいと思う。
最後に、近々息子はもう一つ、最大にうれしい「縁」を運んで来てくれる予感がする。それは四国にいる主人の両親だ。今まで絶対に四国を離れないと踏ん張っていた両親だが、初孫の顔を見た途端、上京して一緒に暮らしてもいいとほのめかすようになった。さすがは息子のパワーである。我が家に家族が増える日も近いかもしれない。