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「なぜ荷風はだめなの」

时间: 2017-02-24    进入日语论坛
核心提示: Nさんは、私にとても親切で、いつも正確で的確な言葉を使う。尊敬していた。けれど、「女の子は、荷風なんて読んじゃだめよ」
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 Nさんは、私にとても親切で、いつも正確で的確な言葉を使う。尊敬していた。けれど、
「女の子は、荷風なんて読んじゃだめよ」
 何気ない、その一言が気になる。
 小学校四年の私は、祖母の空襲体験を記録するため、浅草周辺のことを、図書館で調べていた。検索し、選んだ資料をテーブルに積み上げた。永井荷風の『すみだ川』の中で、月の夜、長吉とお糸が待ち合わせした今戸橋。石段の上は、祖母の母親と姉が焼死した待乳(まつち)山の聖天様。慶養寺の川端を北へ真直ぐ。今戸八幡の前に、祖母の家があった。そこから長吉は、揚弓場(ようきゅうば)、宮戸座へ出る。同じ道で、祖母は大好きだった木馬館へ行った。
 地図で一つ一つ確認していると、Nさんに声をかけられた。Nさんは姿勢がいいきれいなおばあさん。でも小花模様のワンピース。区民講座で、自分史を書く指導をしている。私は、明治と大正と戦前の昭和の区別がつかない。Nさんは原稿用紙の裏に、浅草奥山の地図を書いて、木馬館の隣に水族館、その二階にカジノフォーリー。オペラ館、花屋敷。次々に記入しながら、移り変わりを説明してくれた。面白かった。たいへん疲れた。
 翌日、Nさんは古い新聞のコピーを持って来た。一日かかって読んだ。東北地方の深刻な凶作。諏訪三百余の製糸工場が生糸価格暴落で一斉休業。十万人の女工失業。不況重大。生活苦から夜逃げ、身売り、一家心中、精神を病む人多し。奇妙な宗教多し。華やかな浅草は、日本のほんの一点だった。
 それから、東京の戦争遺跡や記念館の一覧など、限りなくNさんは課題を出す。かなりの負担だ。ある日、二冊の本を手渡された。重い。気持ちまで重く沈む。ため息と、つい思っていたことが口から出た。
「自分の読む本は、自分で決めます」
 私は、「この本を読むな」と言われるのも嫌だが、夏休みの課題図書のように、「この本を読め」と言われるのも嫌だ。
 Nさんは、少し驚き、一瞬悲しい顔になり、すぐにいつもの笑顔に戻り、くるっと背を向け、持って来た本を抱え、行ってしまった。私は後悔した。本の題名も見なかった。思い返すと自己嫌悪になるから、作業は中断し、図書館へはもう行かない。それから、虫捕りに夢中になる。野山へ入るのは楽しかった。
 中学生になったばかりの五月、私は市川歴史博物館で、市川ゆかりの作家の中に、永井荷風の展示を発見した。ベレー帽、丸メガネ、よれよれスーツ、下駄。写真では、やさしそうなおじいさん。背景は私のよく知っている場所だ。記事をメモした。
 十五分後、私は写真と同じ真間川の河畔に立っていた。メモを見ながら、荷風さんの散歩道をたどる。手児奈(てこな)霊堂。弘法寺。堤に沿って歩く。笹塚橋を右折する。葉桜がきれい。市川文学の道。土手公園の案内板にも荷風さん。静かな道が終わり、大きな交差点を渡る。左側は私が六歳から通学している学校。今日は私服で、高等部、中学部の前を通り、小学部先の狭い曲がりくねった道に入る。ここだ。
 老黒松が左右に数十本並ぶ。目の前の家に荷風さんは住んでいた。私は小学生の六年間、教室の窓から、夏でも冬でも濃緑の黒松を眺めていた。今日初めて、間近に太い幹を見た。この先は、立ち退きの家や、空き地が目立つ。外環自動車道の工事中だった。
 帰り、途中下車し、たいせつな図書カードで、永井荷風の本を八冊買う。文庫でも重い。夕暮れの電車、座席の端で、『葛飾土産』を読む。辞書なしで読めるのはこれだけ。さっき歩いた道を、六十七年前に荷風さんは歩いている。道端に咲く雑草の花、庭や生垣の木の実、その美しさに感動している。荷風さんは、あの黒松の枯れ枝や松毬(まつかさ)をかごに拾い集めて、煮炊きする薪(まき)の代わりにしていた。
 夕食後、『断腸亭日乗』に挑戦する。漢和辞典も必要だ。難しい。「およしなさいよ、あなたの読む本じゃないよ」。断念するのは悔しい。月日の後の、天候の記述をノートに書き移す。「秋雨連日さながら梅雨の如し」。簡潔な文は、音読すると気分がいい。偉そうに聞こえる。空襲の夜は、自分の家が炎の中、焼け崩れる光景を冷静に見ている。読めるところから、読むことにしよう。
 来月、私は十三歳になる。図書館で『たけくらべ』を現代語訳で読んだときは、竜泉寺近くの子供たちの生活と、美登利の大人になる不安を理解しただけだった。昨夜、原文と合わせて再読した。「おこっているのではありません」と美登利は言うが、自分ではどんなに抵抗しても、どうしようもない未来への絶望……、Nさんがよく言っていた、当時の社会を考えると、それは私には恐怖だ。
 このごろ、よくNさんを思い出す。私はNさんに会いたい。会って話がしたい。
「もう私は、女の子ではないから、荷風を読みます。」
 
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