それまでは十九才の長姉の役目でしたがその春長姉が嫁いでからは、中の兄も姉も何かと口実を作って本読みから逃げていました。
当惑している両親が気の毒になって
「私が読んであげるよ」
と申し出たのが切っ掛けでした。
文盲の人も多くラジオはおろか新聞さえ稀だった私の村では、子が親に本を読んであげるのが常でした。
仕事を終えた夜の読書が唯一の楽しみだった両親も四十を半ばにして既に老眼を託(かこ)つ様になり長姉に本を読んでもらっていたのです。その夜父から渡されたのは文庫本をふんわりと厚くした様な古い和紙の講談本でした。
淡彩の浮世絵風の表紙を捲(めく)ると稍々(やや)黄ばんだ紙面に見たこともない難しそうな無数の漢字が真っ先に私の目に入りました。
通信簿の読み方は何時も甲だった私の小さな自負はあっけなく消えてしまいました。
私は自信を無くしたままボソボソと小さい声で読み始めました。
一頁を読む間に何度も漢字の読み方を父に教えてもらいつつ昔風の言葉や文章にも躓(つまづ)き乍(なが)らの私の本読みのスタートでした。
二、三頁読んだところで幸いにも不意の来客があってその夜は読みさしのまま私は正直ホッとして床にもぐりこみました。
翌日私は学校から帰るとその夜読む予定の箇所を繰り返し予習しておいて夜の本番に臨みました。
案の定漢字以外はすらすら読むことができて些(いささ)か面目を保ちました。
以来私にとって予習は不可欠となりました。五燭の電灯に六分ランプを灯し添えて炉端で正座して私を恃(たの)みにしている両親に私は少しでも応えたい使命感に似た思いで昼間納屋に入ってこっそり読み方の練習もしました。
その甲斐あってか棒読みから抑揚へと少しずつ読み方が巧くなっていきました。読む声も大きくなりました。
最初の一冊が漸く読み終えると父が一里程離れた隣町の貸し本屋で別の本を借りてきました。
読み終わる毎に鞍馬天狗や宮本武蔵等の武勇伝に混じって四谷怪談の様な怪談物まで借りてきました。
どの本も文体の同じ勧善懲悪の講談本ばかりでした。
単純さとリズム感のある講談本は子供の私にも思ったより容易に読み下すことができました。
あんなに難しかった漢字も上下の文字から判読できるようになって最初の緊張感も次第に解れていきました。
そして面映ゆさを伴い乍らも武勇伝の陣中での
「やあやあ我こそは……」
と名乗りをあげる場面では声高にはずみをつけたり又、正成(まさしげ)の桜井の別れや弁慶の安宅の関の件では声をおとし哀れさをこめて読む余裕さえできました。
一喜一憂して聞いてくれる両親と共に私も熱くなっていつしか講談本にはまっていきました。
こうしてささやかな三人の団居(まどい)はそれからも続きました。
その両親も敗戦後の貧しい中で六十代の若さを惜しまれながら前後して亡くなりました。
講談本に出合ったあの夜から八十年何も彼もおぼろになった八十八才の手のひらに嫋(たお)やかなその本のぬくもりがおりに触れてかたみのように甦ってきます。