削るには短かすぎて鉛筆削りは使えず、ナイフである。今頃ではボールペンや万年筆を使うことも多く、この箱の中の鉛筆が使われ、短くなりすぎてキャップにはさめなくなり、次の仲間へキャップを譲るのは、一年に三本か多くて五本である。この箱の中の鉛筆を使いきるためには、私は何年生きなくてはならないのだろう。
また、机を片付ける度にこの箱は目に触れ場所ふさぎで、何も知らない人がこの箱をあけたらびっくりするだろうと、秘密の小箱をしまうように、狭い机の中をあちこちさせるのである。
お互いの芯で黒く薄汚れた鉛筆は、とてもきれいとは言えず、こんなものをためこんだことを、本当に憂うつに思うこともあるが、何よりも鉛筆としての用は充分に果たすのであり、削った時表われる木の色の新しさに驚くこともあり、また、たまたま鉛筆のシッポになったために、頭のように喜んで字を書いてもらえることもないまま、こうして汚ないものや邪魔もののように扱われていることに、人間でも、ただ巡り会わせが悪いばかりに、持っている力を出せないまま終わる人もある、とそんなことを思うこともあり、やはり一まとめにして捨てることはできないのである。
そしてこの鉛筆を見ていると、それぞれの鉛筆を使っていた頃のことが思い出されてくる。しかし決してこの鉛筆によって、昔の思い出に浸るのではない。今までの生活の積み重ねの上に、今の私がある。しかし私は更に明日のことを想う私でありたいし、その時々はためらいや不安が一杯であった私の毎日が、ある日気がついてみればなつかしい思い出として残っていた、とそんな人生の過ごし方でありたい。しかし、認めたくはないが、毎日の行動に何か見返りを期待し、ずるく臆病に計算ずくで動くといった哀しい事実も、私の中に顔をのぞける。それも慢性成人病のひとつの症状かもしれないが、笑いたいから笑い、泣きたいから泣く、そんなありのままの私でいたのは、どの鉛筆を使っていた頃のことだろう、とこの短い鉛筆は、私をそんな思いに連れていく。