目をあけると、思いがけず兄のけわしい顔があった。「おまえはこれから河原に行くのだ。そこで石を積む。鬼が来てこわされてもこわされても積むのだぞ」と、いきなりおこったように言い、一息つくと、「昼は一人で遊べども、日の入り相のその頃は、地獄の鬼があらわれて、やれ汝らは何をする……」ゆっくりと、低い声で節をつけて歌った。
私は、そのもの悲しい節とおそろしい言葉を、ぼんやりした頭の中でくりかえしくりかえし復誦していた。
日頃、河原では隣のトシ坊とよく遊んだ。丸っこい石、土堤沿いの松。下駄をぬいで浅瀬に入り、水遊び、魚追い、岩伝い。遊びほうけて帰るときには、下駄を思いっきり空へ抛り上げ、裏だ、表だ、明日は天気だまた遊ぼうなどと、ひとはしゃぎしたものであった。
胸が苦しい。ふとんが重い。大きな石の下敷になったように苦しい。あがくと、氷枕はごぼごぼと鳴り、タオルは涙を吸った。
やがて、迎えの車に乗せられ、その発車際、叫ぶような母の声を聞いた。
「下駄、下駄を乗せて下さい。子供の下駄です」ほんと、ほんとに河原に行くのだな。下駄も乗せたし。
車は町を抜け、土堤沿いの道に出たらしい。松の梢が窓に見えかくれする。やっぱり河原に来たなと思ううち、一ゆれして止まった。
寝かされたのは堅いベッドであった。日暮になると、どどーん、どどおーんと、地底の割れるような響きがする。或日は遠く、或時は近くに迫って、私をおびえさせた。今にも地獄の鬼が、やれ汝らは何をする……と、あらわれそうでこわかった。あれは海鳴りの音、海が近いからと何度教えられても、やっぱり息を殺して聞いていた。
長い療養生活であった。ようやく歩く許しが出たのは、いつしか海鳴りがおさまり、中庭の楓の葉が真紅に染まった頃である。病室わきの土間に、私の下駄が揃えてあった。母が咄嗟に乗せたこの不断履きが、お守りではなかったろうかと思えたのは、ずっと後のことである。鼻緒のなつかしい感触がよみがえると、喜びがこみ上げ、ただただ嬉しかった。
その翌日、下駄をはいたままおんぶされて玄関を出た。よく助かったこと、良かったですねと見送られて、人力車に乗った時、私ははじめてヒビョウインという言葉を知った。
その後、トシ坊とは河原で遊ぶこともはしゃぐことも決してなかった。悲しいことに、私が避病院でおびえていた頃、トシ坊は、はだしのまま彼岸へ連れ去られてしまったのである。河原で最後に抛り上げた下駄は、誰のが表だったか裏だったか、そんなことは覚えていない。生死のわかれはどこにあるのであろう。はかない思いは、地蔵和讃の低い声とともに、くりかえし私の胸に浮かび上がる。遠い幼い日のことであった。