お嫁さんをもらって分家にと云うこともあったらしいけど、話がやっときまったのに、そのお嫁さんになる人が嫌だと云って、鉄道自殺をしてしまったとかで、頭を剃って一生涯一人暮らしを続けてしまった。
頭は生来少々弱いけど、人のよいやさしい何事もいやと云わずに、黙々と一生懸命働いている人だった。私共が遊びに行くと山畑で鍬を使いながら声かけてくれ、さつま芋を掘ってくれたり、とうもろこしをもいでくれたり、又わらびぜんまいなどの生えている所へ連れて行ってくれたりした。海岸も近いのでよく舟を出して、一日我ままな釣遊びに付きあって舟をこいでくれた。いつもニコニコしているけど、あまり話をせず、話かけてもウンウンと返事するのみだったが、何となくあたたかいものが通ってくる人だった。
納屋の端にある一間に起居していて、いつも万年床だった。秀さん少しきれいにしなきゃと云うと困ったようにニコッと笑っていた。朝は早くていつの間にか田畑に出かけ、朝御飯の時はもういい加減土泥をつけて帰ってくる。秀さん御飯だよと云われると、棚から箱膳を持って来て、上り端に腰かけ黙々と食べ、終るとお茶を茶碗で飲んでそのまま箱膳に茶碗を伏せて、片付けて又出かけて行く。
戦時中は若い者が皆戦争に出てしまい、秀さんは本当に一人で頑張ったものだった。家の者とは食物も着る物も粗末で、作男の待遇に甘んじて、不服を云うことがなかった。
戦後の農地解放で、小作に出した土地は大分手離してしまったらしく、昔は他家の土地を踏まずに○○市まで行けたものだったと、家の者はよく愚痴をこぼしていたけど、秀さんが働いて守ってくれた田畑は、まことに有難いものであった。
年老いてからも秀さんは、毎日日課のように田畑をまわり、菜園に精出していつも背を丸めて歩いていた。
脳軟化症になり不随の身体を横たえ、寝たきり老人になってしまってからは、叔父の後妻の人がよく面倒を見てあげるようだった。
何処が痛いとも、何がほしいとも、苦しいとも云う事なく静かに死んで行ったとか、暑いさかりの日だった。死ぬるとき、焼くと熱いから土葬にしてくれとの遺言だったそうだ。秀さんの淋しい一生はたくまずして、聖者の一生だったと思っている。
なつかしいあたたかい秀さんの、うしろ姿をだれもがよく思い出すと云う。