それらは電信の経験者なら一見してすぐそれとわかる品々―受信音響器、送信用電鍵、当務者印(個人別に与えられた番号印)、番号器(ナンバーリング)、海綿入れ容器に印字機(トンツーの字号を紙片に印字するもの)の一部と思える六点で、しかしそのどれもが木製部は焼け落ち、ただ金属部分だけが無惨に赤黒く変色してわずかに現用当時を偲ばせているに過ぎず、添えられた説明文には「旧広島電信局通信室跡で発見」とあった。
私に広島行を依頼してきた新聞社では例年原爆記念日特集として「原爆それ以後」を企画しており、本年も当時岡山局で広島局相手に交信していた私の懐旧談をシリーズに採り入れるための遺品との対面であったが、いざ目の前に白い布を敷いた箱へ前記機器がまるで「遺骨」のように納められて赤茶けた姿を見せたとき、思わず私はギョッとし一瞬息を呑む思いがした。
そして、いとおしいものにでも触れるように私がソッとコイルの焼き切れた音響器よ手を触れたとき、カチッと澄んだ音響器特有の音が響いたのにはなおびっくりした。
オッ音が出る、私は驚いた。試みに槓杆(こうかん?電流の断続で上下しモールス字号に応じて音を発する金属片)を指先で上下してみると、出る出る。何と昔そっくりのカチカチとなつかしい聞き慣れた音色が出るではないか。
私は憑(つ)かれたもののようにモールス符号を叩いた。同行した傍らの新聞記者が感想を求める声にも答えず、しばらくはその音響に放心したように聞き入った。
それというのも私にはその響きが、あの日電報を送受していて一瞬の閃光に崩れ落ちた局舎(それは原爆投下点から四百メートルの近距離)とおそらくは運命を共にしたであろう、名も知れぬ友が切々と私に訴える語りかけのように思えたからである。
それは正しく文字どおり焼土の中からこの世に再び蘇った四十年振りのモールス音であり、冥府からの死者のささやきにも似た萬感の思いが私には感じられた。
聞けば展示場所の事情もあってこれらの機器は、今まで長く非公開だったとか。いわば今回の私達が戦後最初の見学者といえ、それだけに遺品も久しく旧縁者の来訪を待ち侘びていたのかもしれない。それにしてもあのカチカチと澄んだ清らかな音響器の音色は、いつかテレビで耳にした古代人作の「はにわ笛」の清冽さに増して、今後生ある限り私の耳底からはおそらく消え去らないであろう。