ところかまわずはびこるオオバコ、ドクダミ、ツユクサ、ユキノシタなど恰好の材料なのだ。野草茶を作る以前には、その恐ろしいほどの繁殖力に、とにかく邪魔者扱いしてきたものばかりである。
あれほど抜いたのだから、もう生えてこないだろうと思っても、季節がくれば芝のように赤い新芽を一斉にのぞかせるドクダミ、オオバコもしかりである。それが春とはいわず夏でも秋でも新芽に出会うのだ。
町なかの小さな庭だから、耕すこともなく肥をすることもないのに、たくさんの野草が自生してくれていると思うと、自然の豊かな営みに深く心を動かされてしまう。
私は野草茶を作るようになって、他の雑草たちにも親しみを感じるようになった。もうこれらを「雑草」などと呼ぶのはやめよう、せめて「野草」と言わせてもらいたい。そんな思いがおのずから湧いてくる。
天気のよい日には、朝のすがすがしい空気をいっぱいに吸いながら、私は野草摘みに精を出す。しっとりぬれた露草の澄んだ青い小花に魅せられて、しばらく摘む手を休める。そして、二つ三つ花を残しておく。
柿の葉を蒸して日に干し、青紫蘇の葉を水洗いして天日にすばやく乾かす。何回かの体験で、ドクダミは独特の匂を消すために陰干より陽干の方が色よく仕上がることもわかってきた。
たよりないものは野山へ出かけ、自然の恵みを少しわけてもらってくる。
ヨモギ、スギナ、クマザサなどがお目当ての品である。
原っぱを歩いていると、足元の草むらから小鳥がとびたつ羽音がしたり、下草のかすかにゆれる音まで聞こえてくる。〈風のゆくえ〉を草のウエーブが知らせてくれるのに気づいて、私は心地好い微笑を浮べる。
野草たちが「どうぞお役に立つならお摘みなさい」と今にも語りかけてくれそうだ。
自然のただ中にいると、あらゆるものが新鮮に感じられるから不思議だ。
春から秋にかけて、若葉や花の季をそれぞれに選んでの手仕事が終わると、四季折々の野草をブレンドして、いよいよラッピングに入る。娘が洒落たラベルを作ってくれるのもうれしい。この手作り野草茶を心待ちにしてくれる人たちの顔を想い浮べながら、色々なラッピングを楽しむ。
野の香に包まれて幸せなひとときでもある。一番出しのお茶は主人が毒味をしてくれる。「うーん、これは体に優しいぞ」
娘の作ったラベルの効用を見ながら、「ススー」とお茶をすする快い響がした。