この下敷きは、私が小学三年の冬から、社会人となる日まで、常に私の傍らにいてくれた思い出の品である。乳白色の地に、赤と白の水玉模様。ほとんど色落ちもせず、つるつるしたセルロイドの感触も昔のままである。
父が、私の九歳の誕生日プレゼントにと、わざわざ岡山市内のデパートでこの下敷きを買ってきてくれたのである。小学校の教師だった父は、日ごろから文房具類にはかなりの懲り性で、時々子供達にまで珍しい物や上等な品を買い与えてくれた。幼心にも、その下敷きが、当時としては値の張る代物であったことを、はっきり覚えている。
さっそく次の日の朝、私は真新しいセルロイドの香りのする下敷きを下ろした。使うのがもったいないような、それでいて早く友達に自慢したいような、わくわくした気持ちだった。何度も表面を撫でまわしながら、ランドセルにしまった。それからというもの、この下敷きは、私の大のお気に入りとなり、大学卒業の年まで、この一枚で通した。
しかし、長い歳月の間には、一度だけ下敷きを紛失しかけたことがある。確か小学五?六年のころ、珠算検定を受けに他町の小学校へ行き、会場へうっかり下敷きを置き忘れて帰ってしまった。そうと気づいた時の心の動揺とあせり。いてもたってもおられず、父から会場校の教頭先生にお願いして、全教室をさがしてもらった。何日かして、無事その下敷きが私の手元に戻った時、前にも増して愛着が深まっているのを感じた。
高校三年の卒業文集には、「ベストフレンド」と題して、下敷きへの想いを綴った作文が載っている。大きな不安や様々な悩みに明け暮れた高校生活を振り返り、真っ先に私の脳裏をよぎったもの―それは、やはりこの下敷きの存在だった。
おびただしい冊数のノート、宿題やテスト等のプリント類、作文、手紙、日記帳…。思えば、気の遠くなるほど多くの文字をこの下敷きの上に書き綴ったことになる。私の十代から二十代にかけての心の内を全て知り尽くしている下敷き―。嫁入り道具に交じってこの家に来てからは、本棚の片隅で、黙ってその後の私を見守ってきた下敷き―。三十六年間も共に生きてきたのだと思うと、この下敷きは、単に「物」ではなく、心の通う人生の友にみえてくる。物の満ちあふれた時代にあって、こんなにも一つのものに愛着を感じられる自分を、この上なく幸せに思う。
夜のしじまのなか、「ベストフレンド」として再び私の机上に返り咲いた下敷きが、静かな光を放っている。その光に誘われて、私は、哀しいほど懐かしい心の故郷を辿ってみる。