自分のふ化させた、二代め鈴虫を見せてやろうと考えるなんて、いかにも父らしい―母の話を聞いて、私はひとりニンマリした。それは、去年の夏の終わりのことであった。
それから半年後、母の口から伝えられた父の病名を聞いて、一瞬頭が白くなるような気がした。他に考えることもたくさんあるだろうに、まっ先に思い浮かんだのは、例の鈴虫のことだった。
今回の発病は、本人にとっても家族にとっても、突然のことで、鈴虫を飼い始めたこととは、無関係だろうと思う。けれども、父の心の深いところで予感めいたものがあって、そういう行動をとったのでは?そんな思いもチラッと頭をかすめたりした。
父が入院中の実家へ電話をすると、重いトーンの母の声が受話器から響いてくる。ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「鈴虫どうなった?」
「あぁ、あれ、だめだったみたい。」
そろそろ、去年の秋に産みおとされた卵がかえって、幼虫たちが出てくるころなのに、一向にその気配はないという。
なぜか、私はそこで大きく安堵した。父にもしものことがあって、残された鈴虫たちが美しい音色を響かせる―そんなことを想像しただけで、胸がつまった。
この計画は白紙。元気になった父が、また今年の夏、チャレンジしてふ化させた子どもたちを、ゆずり受けたい、そう思った。
二か月の入院生活ののち、小康を得た父は退院した。しばらくして、父から電話があった。
「鈴虫いらんか。人からもろうたんよ。」
かくして、宅配便のすみっこにつめられて鈴虫たちが、わが家にやってきた。父がふ化させたものではないが、元気に動きまわる鈴虫が、手元にきた、そのこと自体がうれしかった。
まだ字の読めない三歳の息子あてに、
「かわいがって、おおきくしてやってください。」
との、メッセージつきである。
当の息子は、スーパーで見るカブトムシほど、インパクトのある姿形でもなく、まだ鳴くわけでもない、何だかよくわからない虫だけど、大好きなじいじが、自分のために送ってきてくれたものなので、毎日せっせと霧ふきで水をやり、えさをとりかえてやるのに余念がない。そのうち、響き始める美しい声に、この虫の真価を知ることとなるのだろう。
そして、この虫たちの命を、何度か冬を越してつなぐことができれば、息子は自分に注がれた祖父の思いを、しっかりと心に刻むことができるようになるのだろう。
そのときまで、父には元気で息子を見守っていてほしい、鈴虫の第一声を待ちながら、強く願うこの頃である。