おてんばで大柄のわたしは、掃除当番のおりときどきほうきを振り上げて、鈴木君を追いかけた。しかし一度も振りおろしたことはない。彼の秀才ぶりが、劣等生だったわたしはうらやましかったのかもしれない。
そのうちに鈴木君は、わたしの顔を見ると「おう、きょうてい。きょうてい」と言いながら逃げるようになった。逃げられると追いかけなければ気がすまない。逃げる者も追いかける者も、キャッキャッと笑っていた。
そんな関係が一年近くも続いた頃、鈴木君の姿が教室から消えた。先生はわたしたちに、彼の長期欠席を告げただけだったが、生徒たちは
「鈴木君は川で遊んどって、釘を踏み抜いてしもうて破傷風と言うこわい病気になったらしんよ」
とささやきあっていた。
わたしたちが五年生になってまもなく、やっと鈴木君が教室に姿を見せてくれた。が、彼は左足を失っていて松葉杖をついていた。ふっくらとしていた頬は半年の間にやせて、おとなびた面差しになっている。新調したらしい詰め襟の学生服を、凛々しく着こなした鈴木君がまぶしかった。
もう追いかけることは勿論、声さえもかけられなかった。それはわたしだけではないらしく、クラスメイトのほとんどが、彼を遠巻きにして見守っていた。
休み時間になると、鈴木君はいつも本を読んでいた。ざわざわとした教室のなかで、その一郭にだけ静ひつな空気が流れていた。
鈴木君が本を読みながら、窓辺の椅子をあたためていたのは、たった三ヶ月だった。椅子もわたしも、ぽつんと取り残された。
葬儀は蝉しぐれのなかでおこなわれた。初めていく鈴木君の家の庭には、もも色の夾竹桃の花が咲き乱れていた。
焼香を終えて顔を上げたわたしの目の前に、ふっくらとしていた頃の鈴木君の遺影が飾られている。その笑顔は、かつて振り上げたほうきを挟んでふたりで笑いあっていた日々を、彷彿させた。
わたしが成人式を迎えた日、知らない女性から祝電が届けられた。その女性が夭折した鈴木君のお母さんだと分かったのは、成人式の日から一ヶ月も過ぎてからである。
さっそくお礼の手紙を差し上げたところ、ふたたび葉書をいただいた。葉書には
「息子が夕食のときたびたび『クラスにものすごうきょうてい女の子がおる』とおかしそうにはなしておりましたので、懐しくなって祝電を打たせてもらいました」
と書かれていた。
ひと様の悲しみや、思いの深さを汲み取るには未熟だった頃のことである。