その上で里芋の皮をむくために、折込のチラシをひろげてふと思った。
数年前までは確かにもっとあったはずだ。
当時陶芸家だった夫が、深夜まで窯の操作をして部屋に戻るのを、わたしは裏の白いチラシを新聞の中から引っ張り出して待っていたものだった。
そこに、次の日の朝わたしがしなければならない操作を書き留めるためである。
仕事場が町の中にあったので、薪はもちろんのこと、ガスの炎さえもためらわれ、電気の窯を使っていた。
田舎に登り窯を築くのは彼の夢であった。
だが、理系の彼は緻密なデーターの積み重ねのもとに、電気で薪と遜色の無い味を出すことに燃えてもいた。
温度がすべてを決めるという点は、どんな窯も同じで、温度計を睨みながらの作業に彼は神経を集中させていた。
そんな時の彼は、近寄ることを拒んでいるように思える。だからいつも息をひそめて、密かに同じ空気を吸っていた。
その日の気温、天候によって異なる複雑な作業を終えて、彼は少しだけ休む。
翌朝わたしが担当するのは、窯の温度を下げていく作業の、ほんの取っ掛かりだけであったが、その度に緊張した。
毎回書き取る指示はほとんど変わらず、見ないでも出来る様になっていた。それでも書き留めることで、失敗は出来ないという覚悟を再確認するために書いた。
何度書いたか分からないが、その度に裏の白いチラシを探す。平素からより分けておけばいいようなものなのに、その都度探すという行為が必要だった。
そうすることで全てが決まるような気がして、いつも同じ手順にこだわった。
「メインスイッチ、オン、全弱」
書き慣れてほとんど記号のようになっていたこの文字を、マジックペンで大きく書き、セットした目覚まし時計の横に並べて置いた。
「○時に○度以上であれば窯の蓋を一段開ける。それ以下の場合は起こす」
この○のところが毎回変わるので書いているようなものだったが、一通り書くことで安心して眠れた。
こうした一連の緊張した作業の間に、彼の作品達は激しく身を焦がし、溶けた釉薬の衣をまといながら、静かに窯出しの時を待っていた。
わたしが参加できるのはこの「メインスイッチ、オン」だけであった。
夫がこの世を去って、チラシの裏は不要になった。そしてわたしは、あのぴーんとはりつめた空気を思い出しながら、のんびり里芋の皮をむいている。